芸能人や有名人のことをよく知らなければならないというのは本当か?

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有名人は無視した方が生きやすい。

芸能人や有名人のことをよく知らなければならないというのは本当か?

・ぼくは芸能人を知らない
・芸能人をよく知っているということ
・芸能人死去のニュース
・自分の人生に無関係な芸能人に無駄に反応する人々
・真に価値のある人間の発見

・ぼくは芸能人を知らない

ぼくはテレビを見ないからか、テレビに出る有名人や芸能人のことをあまりよく知らない。みんなと話していると、え、その芸人のこと知らないの?!とかその有名人知らないの?!と驚かれることもしばしばである。特にお笑い芸人とかは本当によくわからない。

ぼくがどれくらい芸能人の知識に乏しいかというと、マイケルジャクソンが亡くなったというニュースを見たときに、ぼくはそれまでマイケルジャクソンってもうとっくの昔に亡くなった歴史的な人だと思っていたので、え、マイケルジャクソンって今まで生きていたのかとものすごく驚いたほどだ。

 

 

・芸能人をよく知っているということ

よく芸能人や有名人のことをよく知っていることや彼らのニュースをたくさん知っている人を誇りに思う種類の人間がいるが、そんなことを知っていて何になるというのだろうか。そもそも芸能人や有名人って、そんなに深く知っておけば誇れるほど価値のある人間たちなのだろうか。

もちろんどんな人からも人生において学びとる点はあるのでどのような人にも深い洞察力を持って接するべきだが、別にそれは多額の金を注ぎ込まれて無理に有名になった芸能人や褒められたい目立ちたがり屋の有名人なんかじゃなくとも、そこらへんにいる素朴なおばちゃんやなんでもないおじいさんにも素晴らしい人生の歴史は蓄えられているのだから、わざわざよく知らないよくわかりようもない芸能人や有名人を深く知ろうとする意義は乏しいのではないだろうか。芸能人や有名人の場合は近くにいない分、おかしなニュースや報道で本当か嘘かもわからないような情報に付き合わなければならないことも気がかりだ。

 

 

・芸能人死去のニュース

芸能人や有名人だって人間なので、普通の人間と同じように死ぬ。人間は生き物なので死ぬのは当然の現象である。

よく有名人が亡くなったとか芸能人が死んだとかニュースになって、コメントで追悼の意を表しその人の人生の思い出や歴史を辿って悲しみに暮れている人々を目撃するが、もしもぼくがその亡くなった有名人を知らなければ、ぼくにとってはまったく知らない人が亡くなったのと一緒なので「近所で誰々の告別式があります」と全然知らない人の看板を見せられたようなものと同じような状況であり、ああそうなのか亡くなったのか気の毒にとは思うが、それ以上は何も思わない。

ぼくにとってそれは知らない人だし、思い出もあるならば悲しみも深かろうが、知らない人には思い出も記憶も何もないので、人はいつか死んでしまうしなぁとしか思えないのが通常だ。人間は生き物なのだからいつかは死んでしまうのが運命である。そんな性質を持ったこの世のすべての人間のすべての死に嘆き悲しみ、見知らぬ人や関係のない人の死にまでものすごく気にかけものすごく心を痛めていたら、ぼくたちはこの世で人が亡くなる度にいつでも嘆き悲しまなければならなくなり、うまく浮世を生きられないに違いない。見知らぬ人のことを気にかけずにすり抜けて生きるのは、うまく生きるための世渡りの術である。

世渡り上手になるために生きていくというのは本当か?

 

・自分の人生に無関係な芸能人に無駄に反応する人々

たくさんテレビを見ていて芸能人や有名人をよく知っている人は、彼らが亡くなる度に全部深く嘆き悲しんだり思い出を振り返ったりしなければならなくなり、なんだか大変そうだなぁと思ってしまう。彼らの人生には直接まったく関係のない芸能人や有名人が、死去したり結婚したり離婚したり付き合ったり別れたり病気したり治ったりする度に、いちいち驚かなきゃならないなんてものすごく忙しそうな人生である。本当に触れ合い関係の深い人間関係の中のニュースに忙しいならば、驚きに満ちた豊かな人生と言えるだろうが、まったく関係のない人のニュースにいちいち心惑わされるなんてなんだか虚無感を感じさせないこともない。

はっきり言って自分の人生も短いのに、そんなにたくさんの見ず知らずの人の人生にかまっている暇なんてあるのだろうか。その芸能人や有名人が、本当に素晴らしい人間であるならばそれも価値ある経験だろうが、自分の人生の貴重な時間を捧げられる本当に素晴らしい有名人なんて、ごく限られているのではないだろうか。ほとんどの有名人が、素晴らしい才能を持っているわけでもないのに金や権力やコネの力で無理にその威厳が保たれているように感じられてならない。

 

 

・真に価値のある人間の発見

本当に価値ある有名人を見つけるのは困難な仕事だ。ほとんどが偽物の鉱物の中で、真に価値がある宝石を見つけなければならない。しかし世の中には、盛大に金を注ぎ込まれ宣伝された人間がさも本当に価値のある才能のようにしてドヤ顔しているので非常に厄介だ。ぼくたちは本当に価値あるものを、金や権力の力で見えなくさせられ、愚かにさせられ、価値のないものたちに自分の命を削ったお金を注ぎこまされるように仕向けられている。

罠しかないこの世の中で、感性を最大限に研ぎ澄まして、自分にとって大切な宝物を必死に見つけ出すより他はない。たくさんの人に支持されている訳でもない、売れている訳でもないのに、真実は価値に満ちあふれ輝きに満ちた創造が、きっとこの世界には潜んでいる。たくさんの偽物の中に混じっている。それを探し出し、自分の感性と響き合わせ自らの創造力を増すことも、あるいは宝探しのようで楽しいのではなかろうか。それは何も有名時でなくてもいい。自分が素晴らしいと心から思うなら、そこらへんのおばあちゃんや赤ちゃんでもいいのだ。

有名だからと言って価値があるのだとやたら興味を持たず、いっそのこと全部無視してしまう姿勢で、それでも気にかかる有名人を探っていく、そこから縁を手繰り寄せる、そんな人生がふさわしいのかもしれない。

 

 

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