流行に興味がない人は、時代遅れの洗練されていない人間だというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

流行は腐敗し、やがて流行に乗らないよりも笑い者になる。

流行に興味がない人は、時代遅れの洗練されていない人間だというのは本当か?

・流行を取り入れることで洗練された人間になれるというのは本当か?
・最先端の流行は奇抜さを取り入れることで前時代との差異化を図る
・最先端の流行はやがて腐敗し、違和感のある笑い者になる
・流行に鈍感な人々こそが普遍的な美意識を見出していく
・流行の輪廻転生の中にさえ普遍性の欠片は内蔵されている

・流行を取り入れることで洗練された人間になれるというのは本当か?

流行というものは、ぼくたち人間のあらゆる細部まで支配していく。服の色や形や着こなし方、髪型や髪の色、化粧、爪など外見に関することから、本、映画、芸能人、思想などありとあらゆる分野が流行という波形に支配されながら存続していく。

世の中には流行に敏感な人と、流行を気にしない人がいる。流行に敏感な人は自分を最先端の人間なのだと主張し、流行を取り入れることで時代を作り出しているような洗練された人間だと思い込んでいるが、果たして本当にそうなのだろうか。流行に鈍感な人は野暮な人で、流行に敏感な人が洗練された素晴らしい種類の人間だろうか。

 

 

・最先端の流行は奇抜さを取り入れることで前時代との差異化を図る

新しい流行を生み出すためには、前の時代になかったような刺激的で新鮮な発想が求められる。それゆえ流行というものには奇抜なものが多い。最近では髪をピンク、青、緑、紫に染めることで、自分たちは前の時代とは異なる新しい人種なのだと自らを鼓舞する人たちが見受けられる。このようにあえて不思議で奇抜な感性を取り入れることにより前時代との差異化を図り新しい時代を生み出そうとする流れは歴史上で延々と続いており、それ自体は全く目新しい発想ではない。いつの時代でも最先端と言われているような人は、どこかしら前の時代には見られない奇抜で奇異な部分を持ち合わせているものだ。

しかしぼくが気になるのは、新しい時代を生み出したいがために不思議で奇抜な格好を取り入れて流行の最先端の座を奪うのはいいものの、そういう流行の真っ只中にいる人に限って、後の時代から見ればものすごくダサく見えがちになるのではないかということだ。流行の最先端にいて洗練されていると思い込んでいる人に限って、後の時代から見たときにものすごくヘンテコで格好悪くないだろうか。

 

・最先端の流行はやがて腐敗し、違和感のある笑い者になる

後の時代から過去の時代を眺めると、なんだかヘンテコな風貌をしていると違和感を感じる人と、今見ても特に違和感なくすんなりと受け入れられるという人に大別される。この2つの違いはどこにあるのだろうか。おおよそにしてヘンテコで違和感を感じる人というのは、当時の最先端の流行を取り入れていた人ばかりではないだろうか。

例えばサザエさんの髪型なんて、ものすごく変である。なんでサザエさんはあんなヘンテコな髪型をしているのだろうかと疑問に思ってしまう。実はあれはなんと、昭和20年代に実際に日本で流行した最先端の髪型なのだという。昭和20年代にはものすごくスタイリッシュでかっこいい髪型だったのかもしれないが、時代は移り変わり流行は廃れて、今残ってしまうのは「サザエさんって変な髪型!」という感想のみである。サザエさんの髪型を見るだけでも流行というものの危険性が伺える。流行だからと安易に飛びついて当時はとても素晴らしいと賞賛されようとも、時代が経つにつれて流行は廃れ、流行だからこそものすごく古臭くなり、最後にはヘンテコだと後の世の時代の人に笑われる結果となるのだ。

髪型でいえばぼくは生まれる前だからよくわからないが、聖子ちゃんカットというのも結構変ではないだろうか。サザエさんの髪型ほどでもないが、やっぱりなんか変だ。なんであんなにボリューミーなんだろう。当時は本当にあれが流行っていたのだろうか。しかし今はあんな髪型している人はひとりもいない。今の聖子ちゃんだってあの髪型をしていないのだから、本人ですらなんかちょっと変だと感じたのかもしれない。

これもまた生まれてないからわからないが、チェッカーズというグループの髪型も服装もものすごくヘンテコではないだろうか。チェッカーズは大人気だったらしいが、このような変な風貌の人が街中にもあふれていたのだろうか。

また外見の話ばかりでなく例えば音楽に関していえば、中島みゆきの全年代の作品を鑑賞していてぼくが古い感じがすると違和感を覚えるのは、80年代後半の作品たちだ。当時彼女は自分の音楽を追求する「ご乱心時代」であったらしく最新の音楽のスタイルを取り入れていたらしいが、皮肉なことに当時の最新の音楽を取り入れたまさにその年代が、”最新”という価値の幻想が剥がれて、時代の経過と共に廃れて、古臭くなり、後の時代の人からすれば違和感を感じる結果になってしまうのかもしれない。中島みゆきの作品に関していえば、80年代後半の作品以外は特に違和感なく聞けてしまう普遍性を貫いているとぼくは感じる。

彼女の作品は70年代のものよりも80年代後半のものの方が、古臭く感じてしまうのは不思議なことだ。やはり流行や最新、最先端というものには、時代を超えて普遍的な価値を示す活力がないのだろう。結局流行なんて、その場限りで腐敗する偽物ではないだろうか。ぼくが思うに今のピンクや青色の髪型も、後の時代から見れば笑われるような偽物になっていくだろう。

 

 

・流行に鈍感な人々こそが普遍的な美意識を見出していく

後の時代から過去の時代を眺めても、特にすんなりと受け入れられる違和感のない過去の人というのは、流行を追いかけず、流行に惑わされず、自分の感性に重きをおいて人生を生きているような、流行に鈍感な人たちなのではないだろうか。流行に敏感な人々は流行に鈍感な人々を眺めながら、自分たちの方が優れているのだ、自分たちが時代を作っているのだと見下しているけれど、時代というものを引き伸ばしてみてもっと広い視野で人生を見渡せば、結局見下されたり笑われたりしないのはむしろ、流行に鈍感な人たちではないだろうか。

流行の中に身を置くということはひとときの優越感に浸った後で、自分という存在をやがて古臭く、腐敗させる呪いの次元へと突き落とすことに他ならない。流行という波に乗ってはふり落とされ、乗ってはふり落とされを忙しく繰り返しながら、自分の中に確かな美意識を見出すことすらままならずに、次第に腐敗し一生を終えるだろう。時代を貫く感性も、国を超越する美意識も育むことができずに、ただ巨大権力が指し示すものたちを必死に追いかけて意味のないものに消費させられ続け、人生という時間を無為に消耗させていく。

時代を貫き、国を超越する感性を保つためには、流行にひどく鈍感であるべきではないだろうか。もちろん宣伝だらけのこの資本社会を生き抜くにおいて、完全に流行の洗脳から逃れることは不可能だろう。しかしそんな中でも意識してなるべく流行を無視し、その無駄なエネルギーを自分自身の美意識を見出すことに費やし、自分の根源から訪れる感性の声に耳を澄ませることによって、流行という浅はかで哀れな次元とは異なる、あらゆる時代と国に通じる普遍的な創造を表現することが可能になるのではないだろうか。

 

 

・流行の輪廻転生の中にさえ普遍性の欠片は内蔵されている

流行とは繰り返されるものだという噂をしばしば聞く。もしかしたらサザエさんの髪型も、聖子ちゃんカットも、チェッカーズの風貌も、またやがて素晴らしいと賞賛される日が訪れるのだろうか。もしそうならばこの記事に書いたこともズレた意見として見なされる時代が訪れるのもしれない。しかしそれもまた一時的な儚い波なのだろう。

流行が繰り返されるということは、流行の中にも人間にとって普遍的な核が密かに組み込まれていることを示唆している。それゆえに全ての流行を無視しながら生きていくことは危険なことかもしれない。無意味に自尊心を高める要素の多い流行の中においてでさえ、時代を貫くものや国を超越する要素を、少ないながらも密かに隠し持っている可能性もあるということだ。

流行を完全に無視しながら生きていくことが不可能なこの世界で、流行の中の普遍性を見出そうとするならばやるべきことは決まっている。やはり流行とは別のところで自分なりの感性や美意識を追求し育て整えるしかないのではないだろうか。自分なりの感性、自分なりの美意識、自分なりの哲学を自らの内に太陽として隠し持つことで、あらゆる流行の中においても、また流行の外であっても、普遍的な真理を発見し得るだろう。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

無知で不安定な精神を狙え!流行はゲイ、女子高生、世間の順に広まっていくというのは本当か?

今話題で流行中の物事を追いかけなければならないというのは本当か? 〜嘘と偽りの卑劣な宣伝広告〜

流行に敏感な人の特徴と彼らが賞賛されるべきだというのは本当か? 〜容易に広告に洗脳される人々〜

 

関連記事