世渡り上手になるために生きていくというのは本当か?

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世渡りばかり教えられるぼくたちの、真実の道しるべはどこにあるのだろう。

世渡り上手になるために生きていくというのは本当か?

・教育により授けられる世渡りと要領
・要領よく社会で生きられない人間
・直感の声を信じて敢えて困難な道を行く者
・孤独な生命の中に光よ降れ

・教育により授けられる世渡りと要領

ぼくたちは幼い頃から家庭や学校で、どのように生きていけば効率的に上手に世渡りができるのかをたくさん教えられる。どうすれば自分の思いが遂げられるのかではなく、どうすればお金に困らず順調に生きていけるかを解説される。

きちんと勉強すればいい大学に行けて、いい会社に入れて安定したたくさんのお給料をもらうことができる。それが幸せな結婚や家庭生活、さらには快適な老後にも結びつくとされる。儒教の観念に支配された日本社会では、とにかく目上の人に従い、自分の意見を主張せず逆らわず、ただ機械のように命令に従って行動することが、円滑な人間関係を築くコツだと教え込まれ、目上への尊敬を示すために言葉さえ変えることを強要される(敬語)。

敬語が必要というのは本当か? 〜儒教による階級の作成と尊敬の強要〜

日本人は目上を敬っているというのは本当か? 〜儒教的尊敬の不都合な正体〜

徹底的な儒教のヒエラルキー!年上を敬うべきであるというのは本当か?

その一方で、なぜ少しばかり経験や年齢が上だというだけで目上として敬わなければならないのか、なぜせっかく生まれてきて自分の意見を持って生きているのにそれを主張してはいけないのか、なぜいい会社に入っていいお給料をもらうことが人生の目的とされているのか、なぜ学校や人生で勉強をしなければいけないのか、なぜ攻めの姿勢ではなく安定した人生を目指さなければならないのか、そもそもなぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのかなど、真に根本的な人生の疑問に関しては何ひとつ答えてくれはしない。

学校も家庭も、ただ人間社会という狭い世界で生きていくための要領、世渡り上手になる方法、安定して生きていく方法、損するよりも得する方を選ぶ賢さを子供たちに教え込むだけで、子供たちが日々感じながら生きている生命の根源の世界についての謎を何ひとつ解明してくれない。ただ人間社会の上澄みをさらうように、浅ましく生き易さを教授していくだけだ。むしろ生命の根源の謎について思考する子供たちの魂を取り払い、社会や人間の役に立つ抜け殻の部品として作り変えることを、教育は目的としているようにさえ見える。

 

・要領よく社会で生きられない人間

「全体」として生きている子供たちを「部品」として従えさせようとする“教育”の怪しさに気がついてその企みを退け、大人になってもなお「全体」として生きようとする人々は、社会の中で悲しみと心の孤立を味わう。

いい加減に悟ればどうかと
低く招く誘い蹴れば
掌は返る 仇は増える

それでこうして優しい人を
オロオロと探しているんです”

“要領を教えましょうかと
懐手の誘い蹴れば
顔色は変わる 寄辺は消える

それでこうして道なき道を
オロオロと探しているんです

中島みゆきの歌「本日、未熟者」では、要領よく社会で生きられない人間の悔しさともどかしさと潔さが見事に表現されている。あまりに洗脳されなかったあまりに、あまりに清らかに生きたいと願うあまりに、世渡り上手になど決してなれない人間は、蠢く巨人のような人間の群れを抜け出して、不器用にも孤独にその生命を生き抜こうとする傾向がある。それは社会の常識や損得勘定を退けて、自らの燃え盛る生命に身を預けるという不思議で直感的な生き方でもある。

 

・直感の声を信じて敢えて困難な道を行く者

“そっと立ち入る初めての道に震えて冬を覚える
紛れたくて足並み揃えて安心してた昨日に恥じ入る”

自分の心の奥底からの声を無視して、安定して生きていたいがために人の群れに混じって他人の目を気にしつつ空気を読んで生きていたものの、自分は何のために生まれ生きていくのかを根本から考え直してみたときに、敢えて清らかな直感に従い最も困難な道を歩んでいく様が描かれているのは椎名林檎の「獣行く細道」という歌である。

他人の目を気にして空気を読んで生きるべきだというのは本当か? 〜社会の部品にされる人間〜

人間の群れが行く安心できる大通りではなく、ひっそりとした通りにくい細く狭い獣道を直感的に選び取るという潔い生き様に、ぼくたちは何か密かな感動を覚えないだろうか。その細道には連れもおらず、孤独で心細い、寂しい道だろう。人の群れを退いてそのような道を選び取ることに、誰もが恐れを覚えるに違いない。しかしその選択を彼女は高らかに歌い上げる。

孤独とは言い換えりゃ自由

誰も通れぬほど狭き道を行け

と。

 

・孤独な生命の中に光よ降れ

みんなと同じ道を進まないことは、恐ろしいことであるに違いない。みんなと同じにしていれば転ばなかった人生も、人の群れを抜け出した途端に、何度も転び傷つくことになるだろう。そして群れの中にいる人間たちから嘲笑われることもあるだろう。大人しく安定した群れの中に収まってみんなと同じように生きていれば傷つかずに済んだものを、と。

その蔑みには明らかな嫉妬が入り混じっている。誰もが本当は自分の心の声に従って生きていたいのに、みんなと同じでなくなるのが怖くて、はぐれ鳥として孤独に生きることがおろそしくて、安定しない人生を歩む度胸がなくて、群衆の中に留まっている人間たちは、自分の心に従って清らかに生きる者の姿を見ると、自分が間違った人生を歩んでいるような気がして悔しくなるのだ。

みんなと同じ道を同じように歩めたのならば、その人生は楽だろう。しかしこの世には、生まれたときからみんなと同じ道を歩めないと定められた生命もある。困難で孤独な細道しか突き進めないと決められた運命もある。傷つきながらも蔑まれながらも、誰ひとり通らないかのような自分だけの道へと、勇敢に挑んでいくしか道はない。

たったひとりで歩いてくように天から宿命を与えられた人生で、もしも誰かに出会えたならばどんなに幸福なことだろう。無人の荒野を生き抜かざるを得ない人生において、誰かと語り合えたならば、どんなに幸運なことだろう。この人生では、たったひとりでも分かり合える人とで出会えたならば幸福だ。誰にも出会えないと定められた生命において、誰かと心を交わせたならばそれはまるで奇跡のように、光が降り注ぐに違いない。

人間が孤独だというのは本当か? 〜根の国〜

 

 

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