自分を愛することが異常だというのは本当か? 〜自己愛と愛国心〜

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誰もが自分を愛しているし、自分が最も正しいと思っている。

 

自分を愛することが異常だというのは本当か?

・ふたつに引き裂かれる世界
・愛国心の眺め
・自己愛の悪意
・自己愛の力
・時間の成り立ち
・自分を愛するのと同じくらい

・ふたつに引き裂かれる世界

意識というものは、世界を真っ二つに切り裂くナイフのようだ。男と女、善と悪、暑いと寒い、わたしとあなた、白と黒。世界はふたつに引き裂かれ、それゆえに人間は心に苦しみを抱きかかえ、人生の中で戸惑い後ずさる。

その人間精神の分断の極致に位置するものが“政治”ではないだろうか。本来はひとつで分け隔てられる必要もないものが、引き裂かれ、憎み合い、傷つけあい、時には殺し合う戦争へと発展する。これは人間というものの運命であり、意識が世界をふたつに引き裂く性質のものである限り、争いは終わらないだろう。

殺し合いというものは不思議なもので、例えば野生の雄鹿がメスをめぐって争っている姿を見てもそれで残酷さを思い浮かべるものは少ない。彼らが争って、傷つけあって、たとえ殺したとしても「おお大自然というものはなんと雄大なことだなぁ!」と感嘆・感動して終わりかもしれない。

しかしそのシカがいざ人間となると、殺戮は残酷だ戦争はおぞましいと突如として拒否反応が出てくるのが興味深い。おそらく彼らの中では殺し合いが絶対的に悪なのではなく、人間同士が殺し合いその殺し合いが自分にも降りかかってくるかもしれないという可能性の恐怖が、“残酷だ”“おぞましい”という感情を思い起こさせるのを助けているのではないだろうか。実は殺すことを絶対的な悪とみなしているわけではなく、自分の身にそれが襲いかかってくる恐怖を払いのけようとしているのではないか。

しかしどんな理由であろうとも、戦争というものは悪であるという風潮が世界の主流である。戦争のなかった時代などなく、戦争をすることが人間という動物の性質であるようなので、この世に生まれてきた以上戦争について思案しなければならない機会は多い。

 

 

・愛国心の眺め

ぼくはスイスでマレーシア人に出会い戦争について語り合った。

旅のさなかでアジア人に日本の戦争の罪を問われた時にどうするか?

彼は日本軍は残酷だった、英国はそのようなことをしなかったことを言及しており、ぼくは彼の会話の内容に対して感じた違和感を、丁寧に論理的に伝え、最終的には彼に歴史を学ぶことの重要性を思い出させることに成功したようだ。

ぼくは歴史というものは常に暴力が得意であることを意味する“勝者”が自分に都合のいいように作り出しているものであるから、決して真実ではなく疑うべきであることを主張した。しかしぼくは知らず知らずのうちに、日本をかばうような会話の流れに導いているかもしれないことに気がついた。

誰だって自分の国家が悪く言われることは嫌だろうが、自分の中の愛国心というものを、日常的に感じ取る機会は少ない。もしかして普通に何も考えずに生きている誰だって、自分の国が好きで、自分の国がいちばん素敵だと思っているのだろうか。

愛国心というとなんだか壮大な人間の集まりなので思考しにくい。しかし、人間の集まりを解除したひとりの人間に関して考えるなら、愛国心とはすなわち、ひとりの人間が自分自身を愛するという自己愛へとつながっていくのではないだろうか。愛国心というものをミクロな視点で見たい時には、まず人間の自己愛を考えれば本質がつかめるのではないか。

 

・自己愛の悪意

“自己愛”というと、なんだか世間ではいやらしいものというイメージを持たれている印象が強い。「あの人は自己愛が強い」というセリフを聞いて、それを褒め言葉だととらえることは少ないだろう。人間の言葉には本来の意味の他に、その言葉に服のように染み付いたイメージが存在しており、自己愛というものをとりまくイメージは決して善良ではない。ただの「あの人は自己愛が強い」という文章が、本来の意味を飛び越えて悪口のように聞こえるのは、自己愛という言葉がまとう悪性のイメージのせいである。

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自己愛が強いという意味の“ナルシスト”という言葉も、ほとんど悪口である。というか、いい意味で使われているのを聞いたことがない。

しかし、人間たちがこのように“自己愛”というものを毛嫌いしているからといって、自分まで毛嫌いしてしまうのは危険である。人間というものは、ごくわずかな聡明な性質のものを除いては、大概自分でなにひとつ思考せずに嫌ったり差別したりしているものであり、みんながそう言っているから自分もそう思おうという浅薄な思想で生きていることがほとんどである。したがって、真にこの世を生き抜こうと志すものは、自らの力で思考し考え出さなければならない。

 

・自己愛の力

“自己愛”というものはほとんどの人間が思っているほど悪質で、退けるべきものなのだろうか。むしろ自己愛というものの有益な作用を思考してみる必要がありそうだ。

考えてみれば、幼いころには誰もが自己愛を必要としているのではないだろうか。無意識のうちから、やがて自我を発生させて、それを大切にこの世で育てはぐくむためには、自分を愛して肯定する力=自己愛を誰もが用いるのではないだろうか。

幼い頃は自分がいちばん偉いと思っているし、万能だと思っているし、自分の軸をしっかりと確立させるために、思う存分に自分を愛することをゆるされている。自己愛とは、自分が自分という存在を確立させそして保つために大切な宝物だ。いつから人は、自分を大切に愛することをゆるされなくなるのだろうか。

大人になれば、自分を愛している人は奇妙な人だと蔑まれる。大人になれば、自分を正しいと思っている人は傲慢だと非難される。しかし、自己愛を必死に抱えてこの世界をくぐり抜けてきた少年や少女たちの姿は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

 

 

・時間の成り立ち

時間は過去から未来へと流れる。それは過去をきれいさっぱり捨て去って、未来という時空を手に入れることを意味しているのだろうか。昨日というものを捨て去るからこそ、新しい明日が手に入るのだろうか。

いや、人間が手に入れている“現在”という時間は、常に過去の土台の上に成り立っている。過去という大地が足元でしっかりと固まっているからこそ、ぼくたちは“現在”という時制において安定して立っていることができるのだ。過去を捨て去ってしまって手に入れた未来なんて、足元が真空で生命は転がり落ちてしまうだろう。ぼくたちはその内側に、過去を抱え込みながら今という炎の瞬間を走っているのだ。

ぼくたちの生命は常に過去とともにある。それはちょうど、過去という時制もひっくるめた、過去に関連した今の時間を表す、英語の授業で習った「現在完了」という文法を彷彿とさせる。ぼくたちは常に過去と関連しながら、今という瞬間を生きざるを得ないのだ。

ということは、ぼくたちは自分の中に過去を、すなわち自己愛に満たされていた少年や少女を自分の中に隠し持っていることになる。ぼくたちは遠い昔に、自分という少年や少女を置き去りにした気分になっていたが、心の奥底できちんと追従してきて、見守ってくれているのだ。それは、自分の中に、少年や少女時代の自己愛すら、きちんと含まれて生きていることを意味する。

 

 

・この世にいるのは悪人ばかり

社会的にぼくたちは、自分を愛することは奇妙だといわれ、自分を正しいとみなすことは高慢だと決められ、この浮世を渡っているが、どんな大人ですら実際のところは、昔むかしの少年少女を隠し持ち、そこには確かな自己愛すら含まれているのだ。誰もが自分を愛しているし、自分が最も正しいと思っている。しかしそれを言ってしまえば非難されるから、そうではないという顔つきをして歩いているだけである。

誰もが自分を最も愛し、自分を最も正しいと思い、自分を最も偉大だと思い込んで生きていくのだ。それは大人になろうが、幼い少年少女だろうが変わらない。大人というのは、幼い真実の少年少女の仮の姿に過ぎない。

もしも本当に、自分を愛し守ることができない人が存在しているとするならば、その人はとっくにこの世から消え果てていることだろう。本当に自分を愛せない人のような、ある意味真に純粋な魂はこの濁世では生きられまい。極めて美しい魂を持ち合わせたならば、この世の不条理や愚かさに耐えきれずにやがて死に絶えてしまうだろう。この世では誰もが傲慢で、自己愛に溢れ、おごり高ぶっているからこそ、どのような罪を犯しても偉そうな顔をして浮世を渡ることができるのだ。

この世に生き残っているのは悪人ばかり。この世に生き残っているものは自己愛の塊ばかり。本当に綺麗な魂が、この濁りきった世の中で生きられるはずがない。ぼくたちは生きている限り、自分を善人だと思い込むことはできない。自分を繊細だと居直ることもできない。鈍感で、愚かで、思い込みが激しくて、自己愛の塊を保っているからこそ、今日もこの世で生きている。

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・自分を愛するのと同じくらい

人間がそのような性質を持っている以上、その集合体であるところの国家が、愛国心というものを持つのはごく自然であると言えよう。そしてすべての国家が自分の国家が最も正しいと思い込んでいる限り、そのすれ違いによりこの世から争いが消えることはないだろう。殺戮は永遠に続くだろう。それが人間というものの性質である。

せめてぼくたちはできるだろうか。自分を愛することと同じほどに、他人を愛することができるだろうか。自分を愛するのと同じくらい、他人を愛してしまったならば、自己はもろくも崩壊してしまうかもしれない。それでもいいと、ぼくたちは他人を愛することができるだろうか。他人に与えることができるだろうか。

ほとんどの場合、個人ですらそれが困難であるならば、国家によるそれは相当な困難を極めるだろう。

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