目下から目上に自分の意見を率直に述べてはならないというのは本当か? 〜逆らうという儒教の悪意〜

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日本人は儒教的システムにより、上から支配されやすい国民に成り下がっている。

目下から目上に自分の意見を率直に述べてはならないというのは本当か? 〜逆らうという儒教の悪意〜

・「逆らう」という言葉に潜む悪意
・人間を上と下にわける儒教の思想
・次第に広がっていく悪意
・ぼくたちは語り合えない
・縦社会の構造の不安
・上からコントロールしやすい都合のよい国民
・ぼくたちは思考し語り合おう
・自作詩「生の遡上・遡上の美」

・「逆らう」という言葉に潜む悪意

「逆らう」という言葉について考えてみたい。そもそも「逆らう」とは何だろうか。「逆らう」の純粋な意味は、本来の流れとは逆の方向に向かって進むことである。しかしその本来の意味だけでは済まされないことを、人の世を生きていると思い知らされる。

人間たちは言葉に、いいイメージや悪いイメージを持つ傾向がある。「愛」「慈悲」「ボランティア」などはいいイメージを持っている典型だろう。それに対して「逆らう」という言葉には、明らかに悪いイメージがつきまとっている。「逆らう」という言葉を使うときには、暗に逆らった人に対する悪意が確かに込められているのだ!

「逆らう」という言葉の意味を発動させるためには、”本来の流れ”というものが必要である。上も下も右も左もなく、ただ平等で平面的な流れのない世界では「逆らう」という行為は存在できない。この世に順序やヒエラルキーがあるからこそ「逆らう」という動詞は機能を果たすのだ。そしてその順序やヒエラルキーの元になっている主要な観点として、この国に根深く居座っている儒教の考えが存在する。

 

 

・人間を上と下にわける儒教の思想

儒教とはとかく、人間社会の中で上とか下とかを意識する。上下関係を極めて重要視し、本来は平等なはずのこの世の人々に順序を付けたがる。1年先に生まれたからすべての点において尊敬すべきだと教え込まれ、さらには言葉まで尊敬する形状のもの(敬語)に仕立て上げなければならないとは驚愕に値する。そのようにして、浮世の人々の階級は自然と作られる。それは人柄や能力ではなく、年齢や年数によるものが多いところが、思考停止の感があってなんともやりきれない。しかしこれは日本の文化なのだ。文化というものには自らでなにひとつ考えず、静かに従うことがよいとこの国の人々は考えている。考えてみれば今現在生きている人々だって新しい文化を創り上げる権利があるはずだが、文化という言葉を過去に頼り、現在ではほとんど動かすことなく、波風立てることなく、傷つくことなく穏やかに密かに暮らすことをこの国では希望する傾向が見られる。

この確固たる年齢や年数の階級社会では、自分の意見を言うことが許されない雰囲気になることが多い。それは、下から上へ向かって自らの意見を主張する場合だ。せっかくこの世に生まれてきたからには自分の考えや思いを誰に対しても自由に表現することを本来は許されるはずなのに、このおかしな儒教的階級社会では下から上に意見を主張することが極めて難しく、下に位置する人々は何も主張せず大人しく上の言うことに従い、なるべく嫌われないように憎まれないように行動する、まさに従順な部品かロボットのようである。

下から上へ自分の意見を言うことは、どんなにまともな内容であろうとそれは主張ではなく「逆らう」と名付けられてしまう。周囲の人々がそれを「逆らう」と呼んだなら、そこから陰湿な空気が広がり始める。

 

・次第に広がっていく悪意

既述したように「あの人は逆らった」という噂の中には、決して本来の「逆らう」の意味が真空のまま綺麗に閉じ込められているわけではない。「逆らう」という行為は悪質であり、ひどい行いであり、さらには逆らうという行為をした人そのものも悪質であり、ひどい行いをする悪人だという非難や批判の心が、「あの人は逆らった」という噂には確かに込められている。

すなわち「あの人は逆らった」という言葉を流布すること自体、もはや密かな攻撃性を保つものであり、このように密やかに静かに誰かを攻撃し傷つけられる術があるというのは、面と向かっては悪口を言えない陰湿な人々の習性を暗に示しているようでもある。

ぼくたちはただ意見を持って生きている純粋な人間として他人に意見を言うだけであっても、たとえばその相手が逆の意見を述べている目上であるならば、ただ純粋な意見を言及することですら「逆らった」と見なされ、悪意をもって陰湿に噂される可能性があるということだ。儒教的社会とはなんと生きづらくくだらないシステムだろうか!

 

・ぼくたちは語り合えない

自分は生まれてきた。自分は言葉を持っている。自分は意見を持っている。それを語り合うことは、人生においてかなり実りの多い自然な行為だと思われるが、それが許されない空気が漂うところが、ぼくが自らの祖国に関して抱く違和感のひとつである。もちろん多大に愛すべき点もあるということを前提として、この主張を提示している。自分の意見を言うということが、果たしてそんなに悪いことなのだろうか。それは人間にとってとても自然な行為ではないだろうか。

自分の意見を言うということが、目上と言われる人々から目下と呼ばれる人々に対してはいつでもどんなことでも許されるのに、それが逆になった途端に何もかもが許されなくなるという点が非常に不可解である。自分の言葉を発することなく、ただ心を持たない機械のように従えというのでは、非常に支配的で威圧的な社会ではないだろうか。しかしこれは「縦社会」と言われる構造としてこの国で誰も違和感を覚えずに機能している。ぼくにはそれもかなりの違和感だ。

 

・縦社会の構造の不安

違和感を覚えるあまり「縦社会の構造」という本も読んでみたが、この縦社会にはメリットもあるらしい。縦社会ではない社会の場合、みんなが意見を交わし合うので議論がなかなか進まないことが多く、進行が滞りがちになるが、縦社会の場合は誰も自分の意見を主張せず、ただ上に従えばいいだけなので、進行がスムーズに行われるというものであり、なるほどなーと思った。

しかしそれと同時に、せっかく生まれてきたのに自分の意見を言えないという虚しさ、自分の気持ちを押し殺して生きていくべき運命の中にある愚かさ、ただ従っていけばいいだけなので自分の意見を考える能力が育たないという浅はかさに、危機感を覚えずにはいられなかった。自分の意見を言わずに、自分の考えさえ持たずに、考えることを停止して、ただ上に従うだけの国民。それは考えてみれば、上から洗脳しコントロールしようとするためには非常に都合のよい国民性ではあるまいか。

 

 

・上からコントロールしやすい都合のよい国民

税金を増やすからもっと金を払えと上が決めても、上が言うことだからと静かに従う。戦争を起こしたいから兵士になって人殺しをしろ、それにも静かに従う。国のためだから飛行機で敵に突っ込んで死んでください、それにも静かに従う。すべてはこの国で起こった事実であり、自分で考える能力を育てずに、ただ従うということが、どれだけ自分を傷つけ、苦しめる結果になり得るかということを、歴史から学び取ることは可能でないだろうか。

 

 

・ぼくたちは思考し語り合おう

思考することは常に重要である。誰からの洗脳も受けずに、自分の直感と感性を用いて、自分の意見というものをまるで宝物のように大切にし、それを自らの軸とし炎とし灯火として生きる人生は、この国でははぐれた鳥に成り果てることもあるだろうが、自分の心を消去して生きるのと、自分自身の澄んだ声を聞きながら自らの心で生き抜くのと、どちらが豊かな人生であるかを、考え直してみる時期も必要かもしれない。

 

・自作詩「生の遡上・遡上の美」

なにもかもを信じられなくなったと
絶望を背負ったフリをすることをやめて
だってあなたの瞳はただ前だけを向いて
はるか彼方になおも信じられるなにかをさがしてる

なにひとつ見つからないかもしれないわ
ただ荒野を見つめるだけかもしれないわ
それでも生きるという遡上の愚かさの中に
底知れぬ美しさがまぎれている

秩序立てられた輪廻のシステムが
無秩序の海へと沈みゆくとき
生命の破片はそれを過ちだとは見なさずに
帰郷を成すとやすらぐだろう

帰っておいでと母の呼ぶ声がする
眠っていたなら自然と子宮へと流れ着く
けれど訳も知らず遠ざかりたいと願うの
なるべく離れた青い銀河に憧れるの

傷つくことが増えてしまう
苦しむことを重ねてしまう
それでも骨となり子宮へと落ちるそのときまでは
我を忘れて逆らってしまう

人は言葉に印象を付け足してしまう
本来の意味にさらに付け加えてしまう
たとえば「逆らう」という動詞には
本来の意味とは別に動作主への“悪意”が込められてしまう

アイツが逆らったと言ったなら
人の間で アイツは悪しき者だと決めつけられている
「逆らう」という言葉には本来含まれていない幻聴が
人のこころの闇には響くよ

~逆らうことだけが生きることだと
反することだけが清らかな姿だと
悟りを聞かされたときに人は
どんな顔をするのだろうか~

なにひとつ見つからないかもしれないわ
ただ荒野を見つめるだけかもしれないわ
それでも生きるという遡上の愚かさの中に
底知れぬ強さをまぎれ込ませる

 

 

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