みんなと同じでないと生きられないというのは本当か? 〜異人の覚醒〜

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みんながやってるのにどうして君はやらないの?

みんなと同じでないと生きられないというのは本当か?

・みんながやっているのにやらないなんて
・みんながやっていることをやっていこう
・ぼくたちは集合体を保つためのただの部品か
・みんなと同じでないと生きられないなんて悲しい 〜異人の覚醒〜

・みんながやっているのにやらないなんて

この世には「すべきもの」と言われているものがたくさんある。それは義務と名付けられ、ある時は法律で定められ、本当はしたくないのにみんながしているから自分もしなければならないと、謎の同調圧力に巻き込まれることもある。

やりたくないのに周囲もみんなやっているからと仕方なく誰もがそれをやっている人々の中で、ひとりだけ自分がやりたくないことはやらないのだと胸を張り自分の意見を貫き、それをやらない人がいるならば、その人は他人からの妬みや嫉みによりやがて社会的に抹殺されていくことだろう。誰もがやりたくないことをやっているのにあの人ひとりだけやらないなんてズルいという気持ちが、やっているすべての人の心の中で芽生え、人間の集団は一丸となってやらない個体を攻撃する。

人が自分の意見を持っているというのは本当か? 〜容易く移ろう人の心〜

人間の集団の中には、同調しない者に対する圧力や嫉妬が渦巻いている。自分の思いを貫けずに空気を読み多数派に回った者たちが、自分の信念を貫こうと闘う者たちを排除する。

 

 

・みんながやっていることをやっていこう

みんながやっているのと同じことをやっておいた方が、社会では生きやすいというのは本当だ。同じようなことをやっていれば目立つこともないし、それにより攻撃されることもない。みんなと同じことをきちんとやっているという生ぬるい共有感の中で、可能な限り傷つかずに生きていくことができるだろう。

ある一定の選ばれたレベルの人間の集団の中ではぐれ鳥にならずに内部に生き残る方法は、みんなと同じような行動を取ることだ。周囲を敏感に見渡して、よく空気を読んで、他人と違うことなんて恐ろしいことだと怯えながら周りと同じように振る舞えばいいだろう。同じようなレベルの個人の集合体なのだから、みんなと同じようなことをしていればその集団の中では大きく道を外れることはない。

しかしそれでは自分自身という個人を表現することはできない。

 

 

・ぼくたちは集合体を保つためのただの部品か

個人というものが人間社会という集合体のただの部分、部品であると見なすならば、自分自身という個人を表現したり発揮したりする必要はないだろう。集合体内部の空気を読んで、目立たずに大人しく、部品として何ひとつ表現せずに全体の機会を稼働させるために生きていけばいいことだろう。

しかしぼくたちの命は本当に、集合体の部品としてこの世に生まれてきたのだろうか。村を守るため、会社を育てるため、国を保つために、この命は存在しているのだろうか。集合体や組織を保つためならば、このような小さな人間の命から発散される熱量は無視されるべきものだろうか。個体など、組織のための犠牲に過ぎないのだろうか。

集団の幸福が個人の幸福であるというのは本当か?

人間という種類の動物が、集合体として社会生活を営むものだと遺伝子に記録されている以上、ぼくたちの生命は部品として活動していく他はないのだろうか。

 

 

・みんなと同じでないと生きられないなんて悲しい 〜異人の覚醒〜

ぼくの魂の根源は、生まれた時から「みんなと同じでないと生きられないなんて悲しい」と叫び続けてきた。そしてその根底からの炎は、これからも一切消えることはないだろう。みんなと同じでないと生きられないというのならば、同じにならずにいっそこの肉体を滅ぼしてしまおうという覚悟で生き続けてきた。自らの根底からの信念に背かずに生きられるなら、この肉体など決して惜しくはない。

ぼくが人間であるというのは本当か?

そのような信念がぼくを異人(まれびと)にさせた。周囲の誰もがそれをやっていないとしても、自分の直感を貫いて行動し、そしてそれにより浮世は容易く衝撃を受ける。浮世に衝撃を与えることによって、人間たちに、この世はひとつだけではないという真実を伝え聞かせる。人間たちはこの世はひとつだと思い込んでいるけれど、本当はひとつじゃない。この世という流れのすぐそばには、見えなくともたくさんの世の流れがあるのだ。異人はそれを、衝撃を与えることにより教え諭す。まるでひとつの揺れも起こっていない静寂の池水に、突如として石くれを放り投げるかのように、異人は行動する。

この世はひとつではない、そのすぐ隣にいくつもの世の流れがあるのだと知らされた人間の中に、救済される魂がひとつでもあるというのならば、異人は幸いである。異人はいくらでも、みんなと同じではないことをし続けよう。根底から沸き起こる直感にそぐわなければ、いくらでもみんながしていることにNOと突きつけよう。そのようにして自ら滅びの道を歩もう。

この肉体が滅びることなど何ひとつ怖くはない。恐ろしいのは、根底から燃え上がる炎の色彩を見つける瞳を、自ら閉ざしてしまうことだけだ。

 

 

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