大人たちは誰もが「大山のぶ代のドラえもんの方がよかった」と嘆き悲しむ。
水田わさびドラは苦手?!昔の大山のぶ代さんの声のドラえもんの方がよかったというのは本当か?
・アニメにおける声優の変化は仕方のない運命
・ドラえもんは何もかもが2005年に変わってしまった!
・少しずつ変わるアニメと、一気に急激に変わったドラえもん
・ドラえもんと伊勢神宮と常若の思想
・アニメにおける声優の変化は仕方のない運命
アニメの中の登場人物というのは、年を取らないからうらやましい。クレヨンしんちゃんのしんのすけは永遠に5歳のままだし、ドラえもんののび太くんはずっと小学5年生だ。しかしいくらアニメの中で年を取らないといっても、実際にアニメに声を吹き込んでいるのは生きている生身の人間である以上、特に国民的長寿番組においてはアニメの登場人物の声が次第に老化し、変化していくのは自然な成り行きである。
ずっと同じ声優さんのままでキャラクターの声が次第に老化で変わっていくこともあれば、声優さんが病気になったり亡くなったり声が出づらくなったからという理由で、キャラクターの声優さんが変わってしまうこともしばしばある。ぼくが生きている間にも、実にたくさんのキャラクターの声優さんが変更されていることに気がつく。当然ながら長寿番組であればあるほど、その傾向は顕著だ。
アニメ「クレヨンしんちゃん」では主人公のしんのすけの他、しんのすけのお父さんである野原ひろしや、ふたば幼稚園のよしなが先生、園長先生、ぶりぶりざえもんなど主要な重要人物の声が変わっている。「サザエさん」を見ていても、カツオやワカメや波平やフネやマスオさんなどメインキャラクターの声が次々に移り変わっていった。逆に声が変わっていないサザエさんとタラちゃんがすごすぎる!「ちびまる子ちゃん」では家族であるおじいちゃんやお姉ちゃんの声がいつの間にか変わってしまった。「名探偵コナン」では毛利小五郎や白鳥刑事などが変わっている。白鳥刑事とぶりぶりざえもんは同じ声優さんだったが亡くなったらしい。白鳥刑事とぶりぶりざえもんが同じって面白すぎる!
・ドラえもんは何もかもが2005年に変わってしまった!
そんな中アニメ「ドラえもん」の声優が、全員変更されてしまうという2005年のニュースは世間に衝撃を与えた。ドラえもんも、のび太くんも、ジャイアンも、スネ夫も、しずかちゃんも、その他パパやママだって全員声が変わってしまうなんて衝撃的すぎる!しかも声が全て変わってしまうだけではなく、作画や効果音や主題歌などもことごとく変更され、全く新しいドラえもんが始まってしまうというのだから、誰もが大きなショックを受けたことだろう。
みんな大山のぶ代さんのドラえもんの声が大好きだったし、ドラえもんのアニメが大好きだったのだから、ぼくの周囲では未だに水田わさびさんに変更されてからのドラえもんを受けいられないと拒否反応を示す人が非常に多い。それくらいドラえもんは愛されていたし、全てが入れ替わったことで大好きなドラえもんを奪われてしまったような切ない気持ちになってしまったのだろう。
・少しずつ変わるアニメと、一気に急激に変わったドラえもん
ぼくも当初は2005年からのドラえもんが何もかも変わってしまったことを受け入れられなかったが、次第に仕方のないことだろうと感じるようになっていった。どうせ2005年に全てが変わらなくても、時代は流れ声優さんだって年を取ったり亡くなったりして、次第にドラえもんたちの声も変わっていってしまうのだ。それが徐々に一人ずつ変わっていってしまうか、一気にいきなり変わってしまっただけの違いではないだろうか。時は全てを連れ去ってしまい、どのようなものでさえ移り変わらぬものはない。
ぼくは今となってはドラえもんが2005年にいきなり全て変わってしまってよかったのではないかとさえ思っている。それは他のアニメが、次第に声優さんが病気や死去や老化で一人ずつ少しずつ変わっていくことの方が、なんだかやりきれない寂しい思いがするからだ。「クレヨンしんちゃん」などを見ていても、しんちゃんの声が変わったときには、あぁもうしんちゃんはいなくなってしまったのだと切なく感じるし、ひろしの声が変わったときもひろしは死んでしまったのだと感じた。
それは、その他のものが全て変わらないのに、その人の声だけが急に変化してしまったことから起こる喪失感だった。クレヨンしんちゃんの場合、作画も、効果音も、テンポも伝統的で昔とあまり変わらないのに、その中で急にひとりの声だけが変わってしまうと、その変化が余計に目立って際立ってしまい、その変化に心が敏感に反応せざるを得なくなってしまうのだ。もしもドラえもんの声が作風も変わらないまま、ひとりずつ少しずつ変わっていくようなことになったら、一気に変わるよりも余計に心がさみしかったのではないだろうか。
・ドラえもんと伊勢神宮と常若の思想
ドラえもんは一気に、声も、作画も、効果音も、主題歌も、何もかもを変えたことで、敢えて昔のドラえもんを大切に守り抜いたのではないだろうか。少しずつ変化し、ひとりずつ変更され、しかしその他はあまり変わらず、本当は徐々に移り変わっているのに、移り変わってなんかいませんよというような顔をして、時の流れに抵抗して誤魔化しながら嘘をつきながら、惰性でドラえもんを続けられるよりも、2005年で潔く何もかもを破壊させ、そして全く新しいものを創造することによって、ドラえもんを未来へ残す原動力としたのではないだろうか。全く新しく隔絶された過去と繋がらないドラえもんを人々に提示することによって、敢えて過去の素晴らしい大山のぶ代時代のドラえもんを清らかに封印し、穢れさせないようにしたのではないだろうか。
ぼくは2005年のドラえもんの大変革を見ていると、伊勢神宮を思い出す。伊勢神宮は20年に一度神殿を建て替える「式年遷宮」を執り行っており、それは1300年以上も続いている伝統なのだという。世界には古い時代のものがそのまま残っている遺跡が少なくない、ギリシャのパルテノン神殿やシチリアのコンコルディア神殿、イランのペルセポリスなど、石の建造物は残りやすく、紀元前の建築が昔のままで残されている。
そんな大昔の建築が世界中でそのまま残されているのに対し、たかが最長でも20年の古さしか持てない伊勢神宮なんて価値がないと思われてしまうかもしれないが、それは違う。伊勢神宮は20年ごとに全てを壊し、全てを新しく作り変えることによって、太古の伝統的で美しい姿を新しく若々しい状態のままで永遠に留めているのだ。
パルテノン神殿だってペルセポリスだって、美しいままの姿で残ってはいるものの、砕けたり破壊された部分も当然あって、明らかに大昔の建造物であるというのは手に取るようによくわかる。どんなに美しいものを作っても、壮大なものを築き上げても、結局は時の流れによって滅ぼされ、いずれは破壊されていくのだということを古代遺跡を見ていれば思い知らされる。美しいものを美しいままで、永遠に若々しいままで、瑞々しいままで、まるで時代を超越するようにして、永遠を閉じ込めるようにして残すことはできないのだろうか。
「諸々の事象は過ぎ去るものである」というのは、ブッダの遺言だ。全てのものは儚く、移り変わる。どんなに偉大で素晴らしい建築物でも、緻密で精細な模様を描いても、やがては破壊され剥がれ落ちてゆく。変化し老朽化し滅びることは、人間でも建築物でも、この世に存在している限り仕方のない運命だ。それならばいっそ、敢えてことごとく破壊したらどうだろうか。全てを破壊し、消し去り、また新しいものを敢えて創造し直す。そのことによって激しい新陳代謝を生み出し、破壊と創造の繰り返しによる生命の回転の熱量を生じさせ、その輪廻転生の中にこそ、”永遠”や”不変”や”普遍”を閉じ込めることが可能になるのではないか。このような思想のことを常若(とこわか)と呼ぶという。
ぼくはドラえもんの2005年の激しい大変革を見ていると、それはドラえもんを愛するあまりドラえもんに永遠の若さと美しさを閉じ込めるための、ドラえもんにとっての「式年遷宮」だったのではないかと思うことがある。