「男根崇拝」や「生殖器崇拝」はエッチで原始的で奇妙な習慣だというのは本当か?

 

日本各地には男根崇拝、生殖器崇拝が密かに残され続けている。

「男根崇拝」や「生殖器崇拝」はエッチで原始的で奇妙な習慣だというのは本当か?

・日本人の祈りの根源の居場所
・中島みゆき「命の別名」
・日本を深く旅することで各地に隠された「生殖器崇拝」「男根崇拝」を発見した
・男根崇拝や生殖器崇拝がエッチで原始的で奇妙な習慣だというのは本当か?
・仏像や神殿に祈りを捧げることはまともだというのは本当か?
・人間が生殖器崇拝を行う絶対的で確かな理由
・ぼくたち人類は自らの故郷への祈り「生殖器信仰」に立ち返るべきだ

・日本人の祈りの根源の居場所

神社は神様にお祈りする場所だというのは本当か? 〜日本の祈りの源流〜

日本人の宗教心とは何なのか、日本人は本当は何に対して祈っているのかをこのブログでは考察してきた。日本の神社では一応、古事記や日本書紀に見られるような神話の世界の神々、アマテラスやスサノオを信仰しているようにみなされていることが多いが、神話というものが天皇的政治と結びついた人工的な物語である以上、その人工的な神話が発生する以前からその場所で日本人は何に対して祈っていたのか気にかかる。もともと日本人にとっての聖域だった場所に、古事記や日本書紀などの神話の世界が上塗りされて現在の神社が形成されているのだとしたら、神話の世界を取り除いた後に残る、日本人としての本来の”祈りの根源”とは何だろう。

ぼくの答えとしては、日本人は神話を作成されるずっと以前から、「巨大な石」や「古い木」や「清らかな水」を信仰し、祈っていたのではないかという結論に至った。そのような日本人の根源的な祈りの風景は、中島みゆきの歌の中でも表現されているように感じられる。

 

 

・中島みゆき「命の別名」

”知らない言葉を覚える度に
ぼくらは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある

何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
ぼくがいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい

石よ樹よ水よささやかな
ものたちよぼくと生きてくれ

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・日本を深く旅することで各地に隠された「生殖器崇拝」「男根崇拝」を発見した

しかし日本を旅する地と定め、日本の祈りの風景を深く細かく追求していくと、ぼくたちの古代からの祈りはとても石や樹や水だけに留まるような単純なものではないという直感が、ぼくを支配するに至った。日本には石や樹や水だけではないもっと複雑な祈りの形態が、まだ各地の至る所で隠され続けているのだ。

中尊寺金色堂、遠野、盛岡!世界遺産で民話でレトロな岩手県の旅

そのひとつが「生殖器崇拝」である。ぼくが岩手県遠野の人里離れた山奥の小さな神社に迷い込んでいると、木製の勃起した男根たちが神殿にいくつも並べられている風景を見つけて驚いた。初めてそのような風景を見たぼくは不思議で奇妙な習慣だという印象を持ったが、これは民話の多く残る遠野に特徴的な原始的なものなのだろうと心の中で納得した。

しかしその後日本を深く旅し続けてわかったことは、日本人は今でも日本各地で男根を神として祀り、崇拝しているという事実だった!奈良県でも、長崎県でも、大分県でも、栃木県でも、群馬県でも、岩手県でも、秋田県でも、福島県でも偶然発見し、もはやこれでは日本の限局的で特殊な風習とは言えず、日本という国自体が広く生殖器崇拝の文化を持っている国だとみなすことができるだろう。旅して偶然発見しただけでもこれだけあるのだから、きちんと調べたならば日本各地に生殖器崇拝が残っているに違いない。

 

・男根崇拝や生殖器崇拝がエッチで原始的で奇妙な習慣だというのは本当か?

人間にとって生殖器とは、外部へと露出すべきではない隠すべき部分だとされている。もしも生殖器を堂々と世界へ向けて丸出しにするような人間がいたなら、その人は異常者だとして警察に逮捕されるだろう。クレヨンしんちゃんの”ゾウさん”などは、5歳の幼稚園児でありかつアニメであるから笑ってゆるさている行為であり、現実世界であのような奇行はゆるされまい。生殖器は他人に見せるべきではない、隠すべきものだという社会的常識の中でぼくたちは生きているからだ。

しかし性欲という本来人間に備わった何よりも強力な欲望が肉体成熟の後に発現し、生殖器を見たい、触れたいという衝動に駆られるように人間は作られている。生殖器を隠すべきだという社会的常識と、生殖器を隠してほしくないという生命にとって根源的な衝動という真逆な2つの観念に心を支配されながら、人間は矛盾に引き裂かれるようにして傷つきながら生きていく他はない。

けれど体裁的には隠されるべきだという生殖器が日本では石や木によってわざわざ作られ、巨大で立派な男根が子孫繁栄や縁結びの神様として祀られ、祈られ、拝まれ、堂々と世界へと露出されているという事実は驚嘆に値する。これはただ人間が服を着ることを知らなかった原始的な時代の信仰の名残として、野蛮な風習だと簡単に片付けられるものなのだろうか。変態的でエッチだと笑いものになるべき神々なのだろうか。

 

・仏像や神殿に祈りを捧げることはまともだというのは本当か?

ぼくたちが普通、日常生活において、お祈りするのは何に対してだろうか。大抵の日本人は、神社にお祈りしたり、仏像にお祈りしたり、少数の人々はキリストや十字架にお祈りすることを思い浮かべるに違いない。神社や仏像やキリストにお祈りするということを、ぼくたちは何の恥じらいもなく堂々と実行できる。そしてそのように祈る自分自身をまともだと信じて疑わない。

しかし神社にお祈りしたからといって、本当にそんな神様がその神社という建物に住んでいるのだろうか。ぼくたちは神様を見たこともなければ聞いたこともない。なんだかよくわからないけれどとりあえず神社という建物があるから、ありがたがって祈っているというのが本当ではないだろうか。

仏像というものもそうだ。ぼくたちは出会ったこともなければ話したこともない、見ず知らずのお釈迦様という人物に対して祈りを捧げている。ぼくたちは仏像がお釈迦様だと信じて疑わないが、よくよく考えてみれば本当にそうなのだろうか。会ったこともなければ見たこともないのに、どうしてそれがお釈迦様だとわかるのだろうか。仏像というものはお釈迦様の死後500年経ってから初めて、ガンダーラという地域で作られ始めたという。500年前のお釈迦様のお顔やお姿が、誰にわかるというのだろうか。

ぼくたちは会ったこともなければ直接お世話になったこともない、お釈迦様という人物の本当の姿であるはずのない”仏像”に向かって必死に祈りを捧げている。そう考えてみれば祈りというのはかなり奇妙な光景である。

キリストが十字架に架けられている像に祈りを捧げることも同様だ。普通にニュートラルになんの先入観も知識もなく見たならば、それは出会ったこともない見知らぬおじさんが、見知らぬ異国の十字架で処刑されうなだれている姿である。それって結構不気味で怖い像ではないだろうか。ぼくたちは出会ったこともなければお世話になったこともない、そしてこれから先も決して出会って交流するはずのない、はるか遠くの異国の見知らぬおじさんが処刑される姿に祈ることで、本当に幸せになれるのだろうか。

建物や人間の像に祈るという行為は、実はかなり怪しい不思議行為ではないだろうか。

 

 

・人間が生殖器崇拝を行う絶対的で確かな理由

それにひきかえ生殖器に祈るということはどうだろう。ぼくたちの生命は、生殖器によって作られ、生殖器からやってきた。これはまぎれもない事実である。男性器から射出された生命の根源が女性器に植え付けられ、そこからぼくたちの肉体や心や生命が誕生したというのは疑いようのない明らかな事実なのだ。ぼくたちのあらゆる生命の根源である生殖器を崇拝するという宗教形態は、実はものすごくまともで現実的ではないだろうか。

ぼくたちは神から生まれた訳ではない、仏に育てられたわけではない、キリストに抱かれたこともない。それなのになぜ彼らを信仰するべきなのか、根本的にはよくわからない。確かな理由はない。たまたま日本という国に生まれたから日本の神々やお釈迦様に祈っているものの、もしもフランスに生まれたならばキリストに祈っていることだろう。理由はなく、信仰はただの偶然なのかもしれない。人間にとって信仰は自ら進んで選び取るものではなく、大抵は生まれた国や時代に左右されるだけのくじ引きだ。

しかし生殖器を祀り、祈り、拝むには確かな理由がある。ぼくたちのあらゆる生命は生殖器から生まれてきたからだ。今人生を生きていることも、幸せを感じることも、悲しみに打ちひしがれることも、全ては生殖器から始まった現象だ。生殖器崇拝には揺るぎない根があり、確かな手応えと生命の熱量が感じられる。

しかも生殖器信仰を行うことは、偶然ではない。生殖器信仰は必然であり、普遍的だ。生殖器から生まれなかった人間が、この世界にいるだろうか。日本人は生殖器によって生まれるが、フランス人はそうではないですよという話が通用するだろうか。日本人だろうが、フランス人だろうが、中国人だろうが、イラン人だろうが、全ての人間は生殖器によって誕生したのだ。

生殖器の神聖と不思議は国によらず、人種によらず、文化によらず、この地球上で満遍なく普遍的であり、どんな国の人であろうと、どんな時代の人であろうと、真に等しく祈りを捧げられるのは、実は生殖器ではないだろうか。仏教も、キリスト教も、イスラム教も達成し得ない、国と時代をことごとく超越する威力を、生殖器信仰は持っているのではないだろうか。

 

 

・ぼくたち人類は自らの故郷への祈り「生殖器信仰」に立ち返るべきだ

そう考えてみると生殖器信仰はあらゆる祈りの中で最も神聖さを帯びてくる。人間は自らの祈りや宗教がよそとは違うからといって、憎しみを抱き戦争を引き起こし続けている。顔つきが違うから、肌の色が違うから、言語が違うから、文化が違うから、民族が違うからと言っては、異なっている部分ばかりに焦点を当てて物事を考え、人間は自分とは違うものを憎み非難、否定し続けている。

そんな取るに足らない些細な違いをむやみやたらと羅列して憎み合うよりもむしろ、究極的に同じものやあらゆる人間に揺るぎなく通底する共通項を探し求めるべきではないだろうか。どんなに観察し合い、詮索し合い、論理的に相違点を見出そうと努力しても、ひとたび服を脱ぎ捨ててしまえば、あらゆる人間は同じような生殖器をつけているだけのただの動物だ。そして全ての人間の生命は、ひとつの例外さえなく、その生殖器によって誕生した。そのような野生的で直感的で偉大な真実の前では、あらゆる些細な違いなど霞んで見えなくなるほどどうでもいい項目ではないだろうか。

ぼくたち人間は日本が密かに守り続けている生命の根源、生殖器崇拝へと立ち返るべきではないだろうか。すべての人間は生殖器から生まれたのだから、これからの人類の繁栄や、人生の中で訪れる幸福を願って、すべての人間が生殖器に祈りを捧げる。それはなんの不思議もない極めて自然な光景だろう。

仏教やキリスト教やイスラム教など、ある特定の地域の中でしか人々の心を支配できない宗教など一旦横に置いておいて、すべての人間にとって心から納得のいく絶対的に普遍的な信仰、それこそがあらゆる人類の故郷である”生殖器”に祈りを捧げる道ではないだろうか。すべての人間が自らの故郷に向かって同じように祈りを捧げるとき、あらゆる些細な違いも霞んで消え去り、なんだ結局自分たちは根本的には同じ生き物だったのだと気がつき、お互いを優しく笑ってゆるし合える日が訪れはしないだろうか。

 

 

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