男がハゲていることや毛深いことをバカにしたり見下したりしてもいいというのは本当か?

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男がハゲていることや毛深いことをバカにしたり見下したりしていいというのは本当か?

・日本語の「ハゲ」とは何か?
・男がハゲていることや毛深いことをバカにしたり見下したりしてもいいというのは本当か?
・ハゲツルピンカツラおじさんと毛深い脱毛男子の共通点
・絶対的な雨傘

・日本語の「ハゲ」とは何か?

頭の全部または一部に髪の毛がなくツルツルピカピカしていることを、日本語では悪口や嘲りの意味合いを込めて「ハゲ」と表現することがよくある。「ハゲ」と呼ばれて喜ぶ人がいるはずもなく、日本語で「ハゲ」と言われるからには必ず馬鹿にされていたり蔑まれている場合しかないと断言できるほどに、人の口から言い放たれる「ハゲ」という言葉は悪意に満ちている。

「ハゲ」という侮蔑語は基本的に男性やおじさんに使われることがほとんどであり、女性の頭に髪の毛がない状態は病気なのだろうか大丈夫だろうかと心配される傾向にある一方で、おじさんの頭部における無毛は老化や自然現象の一種として他者から気にかけられることもなく「ハゲ」という悪口で片付けられることが多いように見受けられる。

先日も髪の毛がちゃんとフサフサと生い茂っているように見えるおじさんが実はカツラを付けていることが発覚し、一部界隈はその話で大いに盛り上がった。ぼくもそのおじさんをよく知っていたのでまさかそんなことがあるなんてと信じられないような気持ちで、笑いを堪えることができずにいたが、一通り笑った後で我に帰りふと疑問に思った。なぜあのおじさんに実は髪の毛が生えていなかったこと、そしてそれを隠すために実はカツラだったということが、なぜこんなにも面白いというのだろうか。

 

 

・男がハゲていることや毛深いことをバカにしたり見下したりしてもいいというのは本当か?

ぼくたちは幼い頃からテレビやアニメの影響で、おじさんの頭に髪の毛がない状態=ハゲている=おもしろ可笑しくからかっても笑いものにしてもいいものという観念が、知らず知らずのうちに脳内に染み付いている。しかしこれは本当に正しいのだろうか。本当にぼくたちはおじさんの頭に髪の毛がなくハゲツルピンの状態であることを、指をさして嘲笑ってもいいのだろうか。

そもそもハゲツルピンになりたくてハゲツルピンになったおじさんがこの世にいるのだろうか。髪の毛の手入れをするのが楽だからハゲツルピンになりたいと願う変わり者の男性は別として、ほとんどの男性は本当はフサフサの髪の毛のまま若々しくかっこいい自分自身でありたかったのだけれど、自然な老化や元来の体質によって仕方なく髪の毛が抜け落ちてしまったのではないだろうか。

本当はハゲツルピンになんかなりたくないのに、自分の意思に反してどうしようもなくハゲツルピンになってしまった男性のことを、ぼくたちは揶揄してもいいのだろうか。それはまるで本当はインドに生まれたかったのに日本に生まれてしまったとか、本当は女に生まれたかったのに男に生まれてしまったとか、本当はキリンに生まれたかったのに人間に生まれてしまったとか、それくらい自分の力ではどうすることもできない人智を超えた宿命的なレベルの話ではないだろうか。確かに生活習慣を見直すことでハゲることをある程度は抑制できるのかもしれないが、どんなに努力しても男はハゲる時はハゲるのだろう。

なぜ自分の頭の毛が次々に抜け落ちていくのか、そしてなぜ自分の頭がツルツルピカピカになっていくのか、絶望と失望の中その確かな理由を説明できる男はいるまい。今はハゲツルピンのおじさんだって若い頃には自分の頭の毛が完全に抜け落ちてしまうなんて予想だにしていなかったに違いない。ハゲツルピンとは一部の男性にとって自分ではコントロールすることができない一種の避け難い運命なのではないだろうか。自分の努力ではどうすることもできないハゲツルピンという現象に戸惑ったり悲しんでいるおじさんに向かって、それを嘲笑うのは思いやりの心に欠けた人間として最低の行為ではないだろうか。

そのように考えていくとその知り合いのおじさんがなぜハゲてしまったのだろうと疑問に思う前に、なぜ自分には今フサフサの髪の毛がきちんと備わっているのだろうと自分自身の頭部の事情の方が不思議でたまらなくなってしまった。自分だって男性である以上、女性よりハゲツルピンになる可能性は高い傾向にあるのだろう。自分だってちょっとした手違いで別の運命を辿ってたならば、簡単にあの知り合いのおじさんのようにハゲツルピンになっていたに違いない。あのおじさんはもしかしたら自分自身だったのかもしれないと感じる時、ぼくは今たまたま頭部に髪の毛がフサフサ生えているという自らの運命に感謝した。

 

 

・ハゲツルピンカツラおじさんと毛深い脱毛男子の共通点

ぼくが非常に需要だと感じるのは、そのおじさんがただ単にハゲツルピンだったということではなく、ハゲツルピンであることをカツラという小道具によって隠そうとしていた点だ。カツラを使っているからには、そのおじさんは自分の頭部に髪の毛がないことやハゲツルピンであることを後ろめたい、恥ずかしいと思っているのは明白だ。もしくはハゲツルピンのままだと女にモテないから、モテるためにカツラを付けているという説も浮上するだろう。いずれにしてもハゲツルピンであるという本来の自分を否定し、恥ずべきものとして隠蔽しているという事情に変わりはない。

またハゲツルピンとは一見真逆のように感じられるが、毛深いのが悩みで脱毛している男子も実は根本的にはハゲツルピンカツラおじさんと同じなのではないだろうか。すなわちどちらも本来のありのままの自分自身をあるべき姿ではないと否定し、それを無理矢理隠すことによって、理想的ではあるが偽物の自分を演出し世間の評判を得ようと躍起になっている。ハゲツルピンカツラおじさんはハゲている自分を恥ずかしいと否定し、ハゲているという本来の自分をカツラで覆い隠すことによって、髪の毛がフサフサであるという理想的ではあるが偽物の自分自身を作り出している。毛深い脱毛男子は毛深い自分の肉体は気持ち悪いものだと否定し、毛深い本来の自分を脱毛という技術によって誤魔化すことにより、女受けがいいとされるツルツルの肉体という理想的ではあるが偽物の自分自身を取り繕っている。

頭には毛を豊かに生やせと言われ、一方で肉体には毛を生やすなと命じられ、一体世間は男の毛が好きなのか嫌いなのかどちらなのだろうか。どちらも同じ毛であるのに生えている場所によってせっせと生やしたりせっせと抜かなければならないという、男とは何と忙しい生き物だろうか。

 

 

・絶対的な雨傘

ぼくが気がかりなのはハゲツルピンカツラおじさんも、毛深い脱毛男子も、どちらもその行動が自分自身を否定し、嫌うことから始まっているという点だ。誰も彼らに「ありのままのあなたでいいよ」「本来のあなたが一番素晴らしい」と、そのままの彼ら自身を受け入れ称賛してやることがなかったのだろうか。きっとそのような機会がなかったからこそ彼らは雑誌や電車の広告に流されるまま、高いお金を出してカツラを作成したり脱毛に通ったりしたのだろう。もしくは女にモテないのは自分自身の毛に原因があると解釈した本能が、このままでは安定して子孫を残せないと危機感を抱き、生殖器に突き動かされるままに自らの毛の事情に変革を起こした可能性は否定できない。

しかし本来の自分自身を否定し、嫌うことから始まる行動のその先に、本当に救いなんて現れるのだろうか。本来の自分自身を否定し、嫌うことを土台とする生命に本当の意味での未来なんて訪れるのだろうか。人間には様々な事情があるので、本来の自分を肯定してくれる存在に出会えないという悲しい運命は仕方のないことだろう。しかしたとえこの世知辛い浮世のただ中で他人から肯定される機会を得ることができなくても、その中でただ自分だけは自分を肯定してやることができるのではないだろうか。世界中のすべての人が悪意を以てぼくを否定しても、ぼくは天に向かって絶対的な傘を広げ、否定の豪雨が降り注がないようにぼく自身を必死で護るだろう。だからこそぼくは今、ここに生きることができている。

誰もが絶対的な美しい傘を抱えることが難しいこの世だというのなら、傘を持っているぼくが迷妄を彷徨う彼らに何度でも言ってやりたい。「ありのままのあなたでいい」のだと。「本来のあなたが一番素晴らしい」はずだと。たとえそれにより人間の悪意が、ぼくに降り注ぐことを妨げられない運命になろうとも。

 

 

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