殺しや盗みが罪であるというのは本当か? 〜どうしようもない悪を抱えて〜

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悪いことをすれば罰が当たると言うけれど…。

殺しや盗みが罪であるというのは本当か? 〜どうしようもない悪を抱えて〜

・たやすく悪に傾く人間
・人間の世界を抜け出して
・ぼくたちは誰もが皆、命の泥棒
・混沌に埋もれる生命の摂理
・自作詩「悪こそが」

・たやすく悪に傾く人間

ぼくたちは子供の頃から、嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるとか、泥棒をしたら牢屋に入れられるとか、悪いことをしたら地獄に落とされるとか、とにかく悪行を重ねればその報いとして悪いことが自分に降りかかるという風に教えられる。

真言宗のお経の中にも、十善戒として不殺生 (ふせっしょう)、不偸盗 (ふちゅうとう)、不邪淫 (ふじゃいん)、不妄語 (ふもうご)、不綺語 (ふきご)、不両舌 (ふりょうぜつ)、不悪口 (ふあっく)、不慳貪 (ふけんどん)、不瞋恚 (ふしんに)、不邪見 (ふじゃけん)として、十の悪事を戒める下りがある。

いつの時代も、人間の心は油断すれば悪にたやすく傾くものであり、だからこそ時代を貫く仏教のお経で人の心を戒めているのだろう。

 

 

・人間の世界を抜け出して

悪いことをすれば自分に悪いことが降り注ぐというのは、人間社会ではたしかに本当であるようだ。嘘をついたら信頼を失くし良好な人間関係を築きにくくなるし、泥棒をすれば刑務所に入れられて自由に生きることができなくなるし、殺人を犯せば逮捕されて死刑になることもあるようだ。

しかしそれもすべて人間の支配する世界に限られたごく狭小な範囲の話である。人間たちが人々の悪事を抑え社会の治安を維持し自分たちの身を守ろうとして作り出したただの決まりごとに則った結果に過ぎず、それが悪事というものと真実との関連を表現しているとは決して限らない。

ぼくたちは人間として生きているので人間社会がこの世のすべてだと思ってしまうが、ちょっと意識を外に向けてみれば、象には象の世界があるし、雑草には雑草の世界があるし、ミジンコにはミジンコの世界があるというのはごく当たり前のように認識できる。そしてそれらの世界では、人間の決まりや法律がまかり通らないということは周知の事実である。ぼくたちは悪事を、人間社会を抜け出したもっと広い視点から見つめ直す必要がある。

 

 

・ぼくたちは誰もが皆、命の泥棒

たとえばぼくたちは鶏肉を食べる。気軽にスーパーマーケットで鶏肉を買った際には気づきにくいが、明らかにぼくたちは自分が生き延びるために間接的に鶏を殺しているのである。それは牛肉であっても、豚肉であっても、人参であっても同様だろう。

ぼくたちは生き延びるために、毎日なにかを殺してそれを摂取している。まさに命の泥棒である。ぼくたちは自分が生き延びることの方が、鶏が生きることよりもはるかに重要だと傲慢にも考えらえるから、鶏を殺してその命と肉を盗み、摂取して生きながらえていくのである。

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・混沌に埋もれる生命の摂理

そのようにぼくたちは普段からごく普通に何の悪びれもなく、殺しと盗みという悪事を含んだ「食事」という行為を執り行うわけだが、その悪事の報いとして、なにか悪いことがぼくたちの身に降り注いでいるだろうか。ぼくたちが殺しと盗みの先に与えられるものは、痛ましい罰ではなくなんと「生き延びる」というぼくたちにとって望ましい結果だ。

ぼくたちは食事をするからこそ生き延びることができる。ぼくたちはたくさんの殺しと盗みという悪事を含む食事という行為によって、この世界にもっと長く生きてもいいですよという恵みを与えられてしまうのだ。悪いことをしているのに罰を与えられずにいいことが与えられてしまうなんて、これでは幼い頃に聞いた話と違うのではないだろうか。

生きていくための素朴で悪気のない食事という行為が殺しや盗みという明らかな悪であるなんて、それならばぼくたちの生命の本質は悪にあるというのだろうか。人間がたやすく悪に傾くというのも、人間の本質が悪にあることに起因するのではないだろうか。

生命の摂理というものは、人間が自分たちの社会秩序を乱さないために作り出した善悪や道徳など軽々と超越して、善悪の境のない、罪と善行の区別もない、宇宙の法律に則って運営されているのかもしれない。ぼくたちが人間社会の中で罪だと指さすものや、悪だと蔑んでいるものたちは、人間の世界を退いてしまえば、何の罪もない透明な炎なのかもしれない。罪を逃れられずに苦しみながら生きている人や、どうしようもなく悪へと染め上げられてしまった人でさえ、人の浮世を通り抜ければ神聖な摂理なのかもしれない。

悪を憎む賢い言葉たちは人の世にあふれている。それならば、悪を慈しむ言葉はどうだろう。

 

 

・自作詩「悪こそが」

たとえあなたが悪でも
ぼくはあなたを愛するだろう
あなたが悪とを指をさす
あらゆる心を燃やし尽くして

あなたの悪を抱きしめるだろう
この世では生きられない悪
生まれてはいけなかった悪
どうしようもなかった定めとしての悪

すべての悪を愛し続けよう
正しいということは
救いから最も遠い
そう悪こそが 悪こそが

天国へ行けると思い込む人々
どれだけの他人を陥れたの
おのれの正しさを保つために
知らずにナイフを握っていたよ

地獄へ落ちてしまうと嘆く人々
傷つき果てた罪のそばの人々
富のかけらもなく倒れこむ人々
導かれなさい 安らかに

 

 

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