中島みゆき「愛よりも」と夜会「花の色は…」を考察!いつも清く正しく生きている人間が正しさの意味を理解できるというのは本当か?

 

正しく生きるだけでは、決して正しさの意味を理解できない。

中島みゆき「愛よりも」と夜会「花の色は…」を考察!いつも清く正しく生きている人間が正しさの意味を理解できるというのは本当か?

・いつも清く正しく生きている人間が正しさの意味を理解できるというのは本当か?
・相対的な正しさと間違いの世界
・正しさの中だけにいたのでは正しさの意味は理解できない
・悪人こそが阿弥陀如来に救われるという親鸞聖人の教え「悪人正機」
・悪を推奨する歌詞を持つ中島みゆき「愛よりも」
・中島みゆき夜会「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」における楽曲「愛よりも」の扱い

・いつも清く正しく生きている人間が正しさの意味を理解できるというのは本当か?

人間というのは必ずどこかで間違ってしまう生き物なので、正真正銘・完全完璧に清く正しく生きているような人物はこの世にいないと思われるが、それでもものすごく真面目で、自分の中で可能な限り誠実に、清く正しく生きようと努力している人もこの世にはいるかもしれない。

それでは人として正しく生きるとはどういうことか、正しさの意味や理解は、当然清く正しく生きているその人物に質問したならば、適切な答えが返ってくるのだろうか。

 

 

・相対的な正しさと間違いの世界

ぼくにはそうは思えない。正しくしかこの世を生きていないような人間に、正しさの意味などわかるのだろうか。

正しさや間違いとは、相対的なものである。何もここからここまでが「正しい」の領域で、ここからここまでが「間違い」の領域だと絶対的に決められているわけではなく、人間というものはその場しのぎのなんとなくの感覚で、これは正しいとかこれは間違いだろうとぼんやり裁いているだけだ。ただぼんやり何となく決めつけているだけだから、当然その場の状況や人間の種類によって正しさも間違いも大いにうねるように変化し、移り変わる儚い観念である。

人間の世界というのは大抵そのようにできているが、相対的に正しさがあるからその反対に間違いが発生し、善があるからこそその対極に悪が発生している。すなわち正しさと間違いというのは元々はひとつであり、元来のひとつのものを人間が無理矢理意識によって「正しさ」と「間違い」に分け隔てただけなのだ。つまり正しさとは究極的な間違いでもあり、間違いとは正しさの別名でもある。

 

・正しさの中だけにいたのでは正しさの意味は理解できない

人間の正しさを本当に理解しようとするならば、正しさだけの世界に自分の身を置いてはいけないのではないだろうか。正しさの中でしか生きられない人間が、正しさの意味などわかるはずがないのではないだろうか。

普通「正しさ」の意味を理解しようと思ったならば、「正しさ」そのものに触れまくることが最も適切で最速な方法だと信じ込み、「正しさ」の世界に精神を埋没させようと考えるだろう。正しさの意味を理解したいと考えるならば、ものすごく単純に考えれば、清く正しい人間になれさえすればいいのだと感じてしまうのも無理はない。

しかし既述したように「正しさ」とか「間違い」と表裏一体の相対的な概念だ。すなわち真に正しさの意味を理解したいと努めるならば、正しい世界ばかりではなく、間違いの世界さえ深く究極的に知る必要がある。精神を、悪や間違いの中に徹底的に染め上げたときに初めて、人間は正しさの真の意味を、矛盾するように理解できるのではないだろうか。

たかが正しさの世界の中で生きただけで正しさの意味を理解できると考えているならば、それは大きな間違いだ。真の意味で正しさの感触に触れたいならば、大いに間違い、大いに悪人になる必要があるのではないだろうか。清く正しい人間になりたいというのなら、清く正しく生きようとする真っ当な努力以外に、人間の過ちや間違いの感触を知り、究極的に醜い悪人になることも忘れてはいけないのかもしれない。

 

・悪人こそが阿弥陀如来に救われるという親鸞聖人の教え「悪人正機」

悪人は地獄へ落ちるというのは本当か? 〜悪人正機という思想〜

「歎異抄」によると鎌倉時代の親鸞聖人は、悪人こそが阿弥陀如来に救われるという「悪人正機」の思想を提示していたらしい。悪人”でも”救われるという説ではなく、悪人”こそが”救われるという点がポイントである。もしかしたら親鸞聖人も、人生に置いてどうしようもなく悪へと傾かざるを得なかった悪人こそが、善というものをたかが善人よりもより深く理解していることを見抜いていたのかもしれない。

 

 

・悪を推奨する歌詞を持つ中島みゆき「愛よりも」

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”嘘をつきなさい 物を盗りなさい
悪人になり
傷をつけなさい 春を売りなさい
悪人になり

救いなど待つよりも罪は軽い”

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中島みゆきの「愛よりも」の歌詞は衝撃的だ。嘘をつけ、泥棒をしろ、人を傷つけろ、売春しろと、この世のあらゆる悪を刺激的に推奨した後で、それらの罪は”救いを待つ”という罪に比べればはるかに軽いのだと告げる。

「救いを待つ」という行為が、この浮世で語られている悪よりもはるかに罪深いというのは注目に値する。抽象的な歌詞であるがゆえに決して断定はしにくいが、神頼みで何も行動を起こさずにただぼんやり待っているだけならば、悪へと飛び込んでいってでも自発的に行動して行くことの方が望ましいという積極的な精神的態度がうかがえる。またあらゆる悪の中を泳ぎあらゆる悪を知り尽くした先にこそ、相対的ではない絶対的な人間の正義や真理に近づけることを示唆するものかもしれない。

 

 

・中島みゆき夜会「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」における楽曲「愛よりも」の扱い

中島みゆき「愛よりも」の楽曲は、彼女の音楽劇「夜会」の演目「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」のクライマックスでも披露され、その光景はDVD作品で見ても心の底から圧倒されるほどの大迫力の名場面である。楽曲「愛よりも」の前には次のような中島みゆきの大迫力の長ゼリフもある。

”銀河は秋を告げ冬を待ち春を迎えて
旅人は忘れ草に絡めとられ宵待ち草は萱原に埋もれても
会おうがための約束ならば 会うを待つ間に恋死にに死んでなどなるものか

来る、来ない、来る、来ない

待ち死んで後の世の人に美徳と誉め称えられてみたところで
待ち人に会えずして何の手柄が嬉しいものやら
人待ち歌は待ち人に宛ててこその人待ち歌
夕告げ鳥に誉め称えられたとて何の足しにもなりはせぬ

来る、来ない、来る、来ない

辿り着き得ぬ人の思いを 試しながめて歌詠むような女に 人待ちを名乗られたくはない

必ずと疑わぬ目に時など映る隙があろうや
必ずと疑わぬ耳に時など響く隙があろうや

一途という名の地図を辿り
橋占に問うよりもその橋を渡って
待ち人の急ぐ その それ、そこの道の先まで
会いに出かけるまでのこと!”

このセリフから読み解くに中島みゆきの夜会「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」のテーマのひとつには「女は待つべきだというのは本当か?」「古代より女性が男を待つ姿は健気だと賞賛されているが、本当に女性は待っているだけでいいのだろうか?」という問いかけがあるように感じる。女性だって既存の価値観に縛られておとなしく健気に待つだけじゃなく、自分から積極的に会いに行ってもいいではないかとついには会いたい人に会いに行く、女性の覚悟と決意と溌剌さを感じながら夜会「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」は幕を閉じる。

夜会「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」のクライマックスに既存曲の「愛よりも」が適応されたのは、まさにこの”救いなど待つよりも罪は軽い”という歌詞が存在していたからではないだろうか。会いたい人がいるのにおとなしく待つだけの態度でいることは、この世で最も罪深いことなのだと。この世のあらゆる悪よりも罪深い”待つ”という行為を打ち砕き、待つという行為と待たないという行為の間にある”時間”を取っ払い、積極的に会いに行こうという呼びかけが歌詞の奥底から心へと伝わってくる思いがする。

 

 

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