高度に発達した自我を持ってしまった人間が、蟻や蜂のように社会的生物の部品として生きられるというのは本当か?

 

人間は社会的動物である。

高度に発達した自我を持ってしまった人間が、蟻や蜂のように社会的生物の部品として生きられるというのは本当か?

・人間は社会的動物である
・人間以外の社会的動物と驚くべき犬の役割
・蜂や蟻は社会的組織を形成している
・なぜ人間は本能に運命付けられた労働をつらいとか苦しいと感じるようにできているのか
・人間以外の生物は社会的労働をつらいと感じるのか
・中島みゆき「秘密の花園」
・燃える本能のままに突き進む”鮭の遡上”の物語
・人間以外の生物も自我を持っているのだろうか
・発達した強烈な自我を持ってしまった人間が、蟻や蜂のように社会的生物の部品として生きられるというのは本当か?

・人間は社会的動物である

人間は社会的動物だ。みんながそれぞれ自分自身の役割を持ち、お互いに助け合い補うことで生活が成り立っている。医者には病気の人を治癒する役割があり、学校の先生には子供達を教育する役割があり、スーパーのおばちゃんにはレジ打ちする役割があり、それぞれが自らの役目をそれぞれ必死に遂行することで人間の社会は成り立っている。それでは人間以外でも、社会的動物は存在するのだろうか。

 

 

・人間以外の社会的動物と驚くべき犬の役割

社会的動物とは、群れを作って生活する集団がそれぞれの役割を持っていることだ。それを踏まえて考えてみると、人間の先祖と言われているお猿もボスを頂点とした群れという社会を形成しているし、犬もそれぞれ個体が役割を持っているらしい。リーダーの犬や、用心棒の犬や、吠えて危険を知らせる役割の犬など。

なんと犬の社会的役割は、赤ちゃんの時代の母犬の母乳を吸う際のおっぱいの位置で決まるというから驚きだ。犬のおっぱいというのは真ん中の出が最もいいらしく、他を押しのけてでも真ん中のおっぱいに吸い付ける犬はリーダー格になる運命となるらしい。真ん中の隣のおっぱいに吸い付く犬は異変が生じると用心棒として、ルールを守れと威嚇する係になるという。そして端っこのおっぱいに行けば行くほど、犬の群れの中で順位が下がるという。

ペットショップにいる犬はどの役割を持っているのか、ぼくたち人間には一見しただけでは全くわからないのだ。ペットショップでおとなしいと思って購入した犬が、実はリーダーの犬で成長するたびに自分の偉大さを発揮させ、飼い主よりも自分の方が偉いと思ってしまう犬かもしれないというから興味深い。

 

・蜂や蟻は社会的組織を形成している

また動物だけじゃなく昆虫でも、蟻や蜂が社会を形成しているということはよく知られている。蜂や蟻の社会はメスのみによって形成されており、少数のオスは巣の中でダラダラ生きた後、女王と交尾してそのまま死んでしまうらしい。1匹の女王と無数のメスの働き者によって、蜂や蟻の社会は形成されているらしい。「アリとキリギリス」の話でも、蟻が立派な働き者であるというおとぎ話が現代にまで伝えられている。

 

・なぜ人間は本能に運命付けられた労働をつらいとか苦しいと感じるようにできているのか

動物や昆虫も社会を形成してお互いに助け合いながら生きているのだから、人間だって同じ社会的生物として彼らと同じように、社会の部品として徹底的に人間集団の中の労働に従事し、その一生を終えることがふさわしいのだろうか。

一見すると人間は社会の部品として労働するということを、楽しくないけれど生活のために我慢してやっているような、耐えて苦しんでいるような印象を受ける。インターネット上の見知らぬ人々の意見を見ていても、仕事が嫌だとか、つらいとか、仕事に行きたくないという意見はよく流れてきて大いに共感されシェアされているのに、同じような熱量で仕事が楽しい、面白い、やりがいがあるなどという意見はあまり流れて来ないし共感もされていないように見える。

”仕事=つまらないけれど生活のためにやっている我慢すべきもの”という方程式は人々の根底で常識として共有され、それを元にして人々の交流が進んでいるようにも見受けられる。しかし人間が社会的動物としてそれぞれ自分の役割を持ち、労働に従事するような種類の生物としてあらかじめ決められてこの世に生まれてきたのならば、労働なんて息をするほどに当然の行為であり、労働を苦しんだりつらいと思わないように心が作られていて当然ではないだろうか。

どうして本能によって世界で自らの役割を持ち、労働することがあらかじめ決められてこの世に生まれてきたのに、その労働が苦しいとか、嫌だとか、我慢すべきものと感じるように人間の心は発達してしまっているのだろうか。よくよく考えればかなりの欠陥ではないだろうか。

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どうせ本能により労働に従事し、人間集団の部品か奴隷のように働かされるとあらかじめ決まっているのだから、せめて労働というものを、楽しいとか喜ばしいという感情までもたらせとは望まないにしても、つらいとか苦しいとか悲しいとか感じないように人間の心は作られて当然ではないだろうか。どうして人間はその一生のほとんどの若く健やかでなんでもできるパワフルな時間を、労働という人間集団の都合のよい部品になる時間に費やされるように運命づけられているのに、人間の心は労働をつらいとかめんどくさいとか我慢の時間だと見なすようにできているのだろう。

労働をつらいとか苦しいと感じるということは、その人はその一生の若くて健やかでなんでもできる素晴らしい時代を、つらいとか苦しいとか感じながら生きていかなければならないということだ。せっかくこの世に尊い生を受けたのに、果たしてそんな人生でいいのだろうか。

 

・人間以外の生物は社会的労働をつらいと感じるのか

それでは労働を嫌だと思っているのは人間だけなのだろうか。人間と同じ社会的性質を持っている生物たち、すなわちお猿や犬や蜂や蟻も、実は自分の役割を果たすこと、すなわち労働を嫌だと思って嘆いているのだろうか。

ぼくの知る限り、そんな生き物は見たことがない。俺は働きたくなんかない!と憂鬱になっているお猿を見たこともないし、自分に与えられた役割を全うするのはもういやだ!と嘆いている犬も見たことがない。蜂とか蟻とかは、最も社会的生活を一生懸命に営んでいるように見えるが、彼らがこんなことはもうしたくない!と仕事を投げ出している姿も見たことがない。みんな黙々と文句も言わずに、ただ一生懸命に労働して自分の役割を全うしているのみである。もしかして無意識のうちに、本能の赴くままにただ猛然と生き抜いているだけだから、人間のように苦しいとか、憂鬱だとか、嫌だとか感じることもないのだろうか。人間と彼らとの間には、どのような違いがあるというのだろうか。

どうせやらなければならないと生物学的に決定された労働ならば、人間のように嫌だとか、苦しいとか、つらいとか心が感じない方がいいのではないだろうか。蟻や蜂のように、自らに課せられた労働の運命を、何の苦しみを悲しみも感じずに、本能の羅針盤だけに従って燃えるように突き進んで進めていく方が、人間なんかよりもよっぽど合理的だし賢明ではないだろうか。本当に人間は、生き物の中で一番偉いのだろうか。

 

 

・中島みゆき「秘密の花園」

”痛みを抱えた動物たちだけが向かう
誰にも教えてもらわずに迷わず向かう
賢いはずの人間だけがたどり着けずにまだ迷って
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・燃える本能のままに突き進む”鮭の遡上”の物語

中島みゆきの夜会「24時着0時発」に導かれ秋の北海道・知床半島へ鮭の遡上を見に行ってきた

 

・人間以外の生物も自我を持っているのだろうか

もしかして動物とか昆虫とかは人間と違って自我を持っていないので、そもそも苦しいとかつらいとか感じ取ることができないのだろうか。

人間だけが強烈に発達した自我の観念を持っているから自分らしく生きたいという願いが自然と発動し、人間的集団の利益や平和のためにせっかく生まれてきた自分という個体の自由や表現や命の時間が奪い取られ犠牲になることに我慢がならず、”社会的動物として生まれてきた人間”としての自分と、”自我を大いに発達させた個人としての人間”の自分との間に大きなギャップが生じ、引き裂かれたような矛盾したような思いにとらわれ、それによって労働とか、社会の部品や奴隷となることにひどい苦痛を感じてしまうのではないだろうか。

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しかし動物や昆虫が自我を持っているかどうかなんて、どうやったらわかるのだろう。自我を持っているということは、自分を他者とは異なる自分だと認識できるということだ。動物や昆虫は、自分を自分と果たして認識できるのだろうか。なんとなくのイメージだとできなそうな気がする。

ぼくは昔文鳥を買っていたが、鏡を見た文鳥はそれが自分の姿だと気づかずに、ずっと鏡の中の自分自身をくちばしでつついたり攻撃したりしていた。このときぼくは、文鳥は鏡に映った自分を自分だと認識できない程度のそんなに賢くない動物なのかと感じた。鳥といえば生物の中でも高等な部類に属し、かなり賢そうなイメージだがそんな鳥でも鏡の自分は自分とわからないようだ。調べてみるとこれは鏡像認知と呼ばれているらしく、あの賢そうな犬でさえ鏡の自分を自分とわからないらしい。鏡像認知できるのはチンパンジーとかイルカとかシャチとか、やはり動物の中でも飛び抜けて賢そうな生物たちのようだ。しかし鏡像認知があるからと言って自我を持っているということになるのかどうかはよくわからない。

 

 

・発達した強烈な自我を持ってしまった人間が、蟻や蜂のように社会的生物の部品として生きられるというのは本当か?

自我というものは自分と他人とは異なる存在だと否定した上で、自分と他人との間に境界線を設けることにより出現する現象のことだろう。そのような境界線が存在しない世界は、あらゆる神話が伝えているように世界の始まりのカオス(混沌)の世界であり、無意識の領域であり、そのようなカオスや無意識を脱出してぼくたちは自我を備えた生活を営んでいる。そのような自我を手に入れたことで人間は独特の発達を遂げてきたが、同時に他の生物にはない独特の苦しみや悲しみにも苛まれていることだろう。全ての人間の苦しみの根源は、元をたどれば自我なのではないだろうか。

動物や昆虫に自我があるのかどうかはよく知らないが、もしもちょっとあったとしても人間ほど高度に自我を発達させた生物は地球上にはいないだろう。人間は強烈な自我を持ちだからこそ成し遂げられたことも多いが、苦しみはさらに大きかったのではないだろうか。

動物のように本能の羅針盤の指し示すままに命の限り燃えるように、自らの役割を全うし労働できるなんてどんなに素晴らしいことだろう。逆に社会的動物であるにもかかわらず、強烈な自我を発達させてしまったがために、自分という個人の幸福にこだわってしまい、個人の幸福など踏みにじり犠牲にして集団の利益や平和を求めてやまない人間集団と、どうしても自らの幸福を追求してしまう自我との間に亀裂が生じ、その矛盾に引き裂かれるようにして苦しまなければならなくなった人間は極めて不幸かもしれない。

本能や遺伝子が伝えてくる通り、どうせ社会的動物として労働を全うしなければならない運命に人間があるのならば、一生の健やかで若々しく最も素晴らしい時間のほとんどを捧げる労働という行動を、もっと苦しいとかつらいとか我慢だとか感じないように心ができている方が確実に望ましい。しかし実際にはその逆の出来事が起き、ほとんどの人々は労働を嫌だ嫌だと思いながら、早く時が過ぎればいいのにと我慢しながら人生を送り、それではまるで呪われた人生ではないだろうか。

強烈な自我が人間にもたらした呪い。蜂や蟻のように自我を持たずに、自分は自分だなんて思いもよらずに、ただ本能の炎に従って、自分も他人もないのだと、個人も集団もないのだと、ただ境界線のない混沌とした無意識の世界を、うねるようにダイナミックに海を裂くようにして、泳ぎきり命尽き果てるならどんなにか幸福だろう。真実は、ぼくたち人間は愚かで可哀想な生き物ではないだろうか。ぼくたちは強烈な自我を与えられたまま、矛盾の中を引き裂かれるように呪いの世界に生き、そしてどこへとたどり着けるというのだろう。

 

 

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