人間社会に愛想は絶対に必要!男は度胸、女は愛嬌というのは本当か?

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愛想をふりまかないなんて考えられない!!!!!

人間社会に愛想は絶対に必要!男は度胸、女は愛嬌というのは本当か?

・男は度胸、女は愛嬌というのは本当か?
・愛想は人間同士のコミュニケーションを円滑にする働きがある
・愛想は無料だし、特別な技術も能力も必要がない
・愛想によって何も喪失しないのに、愛想は社会に福音をもたらす

・男は度胸、女は愛嬌というのは本当か?

「男は度胸 女は愛嬌」という言葉がある。男にとって大切なのは決断力があり物怖じしないことで、女にとって大切なのはにこやかでかわいらしい振る舞いだという意味だ。ぼくはこの諺を聞いて、本当にそうだろうかと思ってしまう。度胸があり堂々とした男が魅力的であり、また愛想のよい人懐っこい女性が好かれやすいというのは、まぁ確かにそうだろうと確かに思うが、ぼくが思うのは、男にだって愛嬌は必要ではないかということだ。男であろうと女であろうと、人間には必要最低限の愛嬌や愛想が必要ではないだろうか。

 

 

・愛想は人間同士のコミュニケーションを円滑にする働きがある

ぼくは今どこの病院にも組織にも属さないフリーランスの医師として、コロナワクチンのスポットバイト飲みをしながら生計を立てている。コロナワクチンは全ての国民に接種することになっているので本当にさまざまな年代、さまざまな地域、さまざまな性格の人々に対して医師として問診をすることになった。医師も人間なので問診していてこの人はなんだかイラっとするなぁとか、逆にこの人と話していると楽しいなぁと感じることは多々ある。その好き嫌いが何に由来するのかと思い返してみれば、やはり愛想があるかないかではないだろうか。

愛想があるというのは人間同士が円滑なコミュニケーションを取るための非常に基本的な条件だ。ぼくが関西人だからかどうかはわからないが、愛想のない人は意味がわからないし何がしたいのかわからない。せっかく人間同士が巡り合って会話したり意思疎通しようという場面で、少しでも相手を安心させようとか楽しい気分にさせたいとか気分を害さないようにしようとかいう気遣いから来る”愛想”を全く発揮させずに、ずっと無愛想な態度をする人の思考回路は理解し難い。もしかして人間が信じられないとか、人間と会話するときには極度に緊張するとか、もしくは注射前だから余計に表情が強張っているとかそういう理由なのだろうか。

どうせ問診したり会話しなければならないことは最初から決まっているのだから、それだったらいっそどちらもが気分よく心地よく問診を終了できるように、お互いに気を遣って明るく朗らかに愛想よく振る舞おうと努力すべきではないだろうか。それが社会的動物として助け合いながら生きる人間の基本的なマナーではないだろうか。しかし世の中には男か女かに関わらず一切愛嬌をふりまかない無愛想な人間が存在するのだと、ぼくはコロナワクチンバイトをしていて思い知った。無愛想な人間はどこまでも無愛想だし、荒々しい態度の人は最後まで荒々しい態度のままだ。

ぼくも嘘は嫌いだが、人間には嘘をつく必要がある場合もあるのではないだろうか。楽しくなくても楽しそうに振る舞ったり、明るい気分じゃなくても無理に明るく振る舞ったり、それによって相手が安心したり気分よく接種を終われるというのなら、嘘であろうと建前であろうと最低限の愛想をふりまくことは接種業務や社会活動を円滑に進めるために必要なことではないだろうか。

 

・愛想は無料だし、特別な技術も能力も必要がない

ぼくが必要な時に愛想を振り向かない人が理解できない最も大きな理由は、愛想をふりまくことなんて何の苦労もなく簡単にできるし、それに無料だということだ。愛想を振り撒くのに何か大変な努力が必要だとか、特別な技術を持ち合わせていないといけないだとか、ものすごくお金がかかったりするというのなら、愛想をふりまかない人間のことも少しは理解できるが、愛想なんてタダなのだからいくらでもふりまいてやればいいではないか。

愛想をふりまいて損することなんてひとつもなく、思えば愛想は相手を幸せにできるし、それによって自分も幸せになれるし、作業は効率よく円滑に進むしで、はっきり言って愛想をふりまかない理由などないではないか。そう考えれば愛想というのはコストパフォーマンスが最強でしかも誰にでも簡単に繰り出せる最高のツールだ。なぜこれほどまでに便利で簡単で無料な愛想という道具を、持ち合わせない人間がいるのか不思議でならない。女は愛嬌などと言っている暇はなく、女であろうと男であろうと、人間は全員愛想を義務教育レベルで身につけさせるべきではないだろうか。

 

 

・愛想によって何も喪失しないのに、愛想は社会に福音をもたらす

お金を払えば、自分の手からお金はなくなってしまう。おまんじゅうをあげれば、自分はおまんじゅうを失ってしまう。この世には与えれば喪失するもので溢れ返り、だからこそ人間たちは騙し合ったり奪い合ったりしている。うっかり与えてしまえば奪われてしまうという恐怖に怯えて、人々は与えるということに戸惑いを感じているのかもしれない。

しかし愛想は違う。愛想は、与えても何も失わないのだ。それどころか愛想は、与えれば与えるだけ相手を幸せにし、自分も幸せになる、社会も幸せになるというまるで魔法のようなツールだ。何もかもがうまくいくのに、愛想を与えたところで誰も何ひとつ失くさないというのがポイントだ。

愛想はすごい。もしかしたらそれはキリスト教でいう「愛」に近いものなのかもしれない。愛は与えてもなくならない、何も喪失しない、それどころか誰も彼もに福音をもたらす。西洋社会ではキリスト教の教えに基づいて愛の観念を育み、東洋の世界では愛の代わりに愛想というシステムが根付いたのかもしれない。

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