シベリア鉄道の中ではWi-Fiが繋がっておらず、インターネットで時間を潰すことができない。ぼくたちがシベリア鉄道でできることと言えば、寝て、食べて、ロシア人とおしゃべりすることくらいである。そんな中で、時間を有効活用できると思われることのひとつに読書がある。
東洋と西洋の悟りが異なるというのは本当か?
・ぼくがシベリア鉄道に持ち込んだ4冊
・トルストイの西洋的な幸福
・ブッダの東洋的な悟り
・東洋と西洋の悟りの違い
・人はみな深いところでひとつに繋がっている
・ぼくがシベリア鉄道に持ち込んだ4冊
ぼくはシベリア鉄道にこの4つを持ち込んだ。
①人生論/トルストイ
②人はなんで生きるか/トルストイ
③美しい星/三島由紀夫
④宮沢賢治詩集
上のトルストイの2つの本は既に読んでしまっていたのだが、非常に感動した本であるというのと、とてもロシアらしいということで、今回ロシアまで持ってくるに至った。やはりトルストイの人生論は、何度読んでも読み応えのある、人間にとっての“幸福”とは何かを考える上に置いて、非常に示唆を与える内容となっている。ぼくは人生論を真剣に再読していくうちに、人々が辿り着くべき境地という観点からして、西洋と東洋で対照的な部分があるのではないかと考えるに至った。その内容をここでご紹介しようと思う。
・トルストイの西洋的な幸福
トルストイによると、人間の幸福とは、個人の幸福を追求していっても行き詰まりに遭うという。誰もが自分自身の幸福だけをただ動物のように追い求めていたとして、それを誰もが同じように行えば、やがては自分の幸福を求めて争いや憎しみが生まれてしまうだろう。それに自分のことだけを考えて自分だけを愛してしほしいと、誰もが望んでいたのならば、そんなことは到底不可能な理想である。世界中の誰もが自分を最も愛してほしいと、誰もが望んだところで、そんなこと叶えられるはずがない。誰もが自分自身をいちばんに愛しているからである。このようにしてまるで動物のように自分の幸福だけを追求してもジレンマに陥り逆に不幸な思いを抱くだけだとトルストイは指摘する。ではどうすればいいのか。
人間には他の動物にはない「理性」というものが存在する。その理性にしたがって、幸福というものを考えるならば、動物的な自我の欲求にばかり惑わされていては、上記のように誰もが決して幸福にはなれないどころか不幸に陥るだろう。この状況を抜け出すためにできることはひとつしかない。動物的自我の上に、人間の理性をおいてコントロールし、他人へとただ与えることなのだ。誰もが自分よりも他人を愛し、自分よりも他人に対し与えることができるならば、それだけが唯一人間の幸福が達成できる道に他ならないだろうと、トルストイは強調する。
そのように自らを理性に従わせることによって、人間は動物的な自我のさなかにあった際の果てしない3つの苦しみ、すなわち個人的な幸福を求める人間どうしの生存競争の苦しみ、生命の消耗と飽満と苦痛しかもたらなさいみせかけの享楽の苦しみ、死の苦しみからまったく脱却できるだろうと考えられる。この状態はまるで、東洋で言えば人間にとって悟りを得るに近い状態にあるだろうと思われる。では、我々東洋の民族にとって、悟りを開くとはいったいどのようなことだと考えられているだろうか。
・ブッダの東洋的な悟り
トルストイの観点では、自分よりも他人を愛すること(隣人を愛すること)、自分よりも他人に対して与えることによって、人間の幸福が達成されるだろうと説かれた。それに対して、ブッダは悟りを開くためには、次のようなことが大切であると説いている。これは、ブッダの最後の旅の詳細を記した大般涅槃経(大パリニッバーナ経)に書かれている教えである。
“この世で
自らを島とし
自らをたよりとして
他人をたよりとせず
法を島とし
法をよりどころとして
他のものをよりどころとせずにあれ”
ブッダの教えは徹底的な孤独のにおいが漂っている。他人や人間のことをよりどころとするな、自分自身と、仏教の法だけをたよりに人生の旅路を行けとブッダは説いている。この文章がぼくは好きで、よく心で繰り返し思い出すものである。この他にも、ブッダの言葉の中には、ひとりでゆけ、愚かなものを道連れに旅をしてはいけないなど、ひとりもしくは孤独もしくは孤高とでも言えるのだろうか、そのようなひとりきりでこの人生の中で修行し、悟りを開くことの重要性を強調する。思えばブッダとて、自らの妻や子を捨てて、孤独に成り果て、徹底的な孤独の中で悟りを開いたのだ。悟りを開くということは、徹底的な孤独の中に身を投じること、そして真の自分自身と向き合うことが何よりも重要であるし、東北アジア民族のぼくとしても、この考えば最も腑に落ちるものである。
・東洋と西洋の悟りの違い
西洋の幸福(悟りにも似たもの)が、他人との繋がりをより深く強調しているのに対し、東洋の悟りでは、徹底的な孤独の先にしか悟りは開けないという考えを持っていることは、対照的なようで非常に興味深い。トルストイの考え方には、聖書の言葉が多数引用されており、当然キリスト教の考えが根底にあることは見て取れる。
キリスト教の中では、人間はあらゆる動物の最後に神様に似せて作られた高等な種族であると教えられるように、トルストイの思考の中でも、人間にしかない、他の動物にはない“理性”というものが非常に強調され多用されている。この人間にしかない“理性”に追随することによって、人間は他の動物とは異なる次元へ飛躍できるのだと説明されている。
それに対して、仏教ではどうであろうか。仏教では人間を他の動物と区別して、人間が高等だとは強調されない気配がする。むしろ人間の愚かさ・醜さを説きそれをどのように正すのかという教えも多いだろう。また輪廻転生の思想もある。人間は死んだあと幾度も生まれを繰り返すという思想である。この中では、自分が次の一生で、人間に生まれるか、動物に生まれるか、はたまた虫に生まれるかわからないというのである。したがってチベットの人々は、生きとし生けるものを殺したりできない、それは生まれ変わった自分の家族かもしれないしという思いがあるようだ。このように、仏教では人間が高等というよりはむしろ、あらゆる生きとし生けるものを平等に考え、愛するという考えが一般的なようである。
・人はみな深いところでひとつに繋がっている
とはいえ、自分よりも他人を愛するという物語は仏教の中でも見て取れる。たとえばブッダがブッダとして生まれる前のいくらか前の前生の話として、お腹を空かせたトラの子供に自分の肉体を捧げて食べさせてやるというのがある。これこそが究極の自分よりも他人を思いやる行為であり、トルストイの人生論とも繋がるところがある。しかもこれは、トルストイの言うように、自分よりも他人を愛せという人間限定の話ではなく、自分よりも動物を含めた他のものを愛するという次元まで引き伸ばされ、トルストイの思考をより拡張させているようにも見受けられる。やはり動物を人間よりも下と見なさない、もしかしたら生まれ変わった自分の姿でもあるかもしれないという、東洋的な観念の現れであろうか。
それに徹底的な孤独の中で悟りを開いたブッダでも、そのあとは布教伝道の旅を亡くなるまで続け、人々との繋がりを保っている。ただ人々が悟りを開ける手助けをするように、生きるという苦しみとうまく付き合えるように、教え諭していたのだ。それはまさに、自らを犠牲にし人々に与えるという姿勢だろう。
洗練された魂の次元のおいては、一見東洋と西洋に違いが見られるような気がしても、実は深いところでは一致し、同じ川の流れの水として、人々の心を流れているのかもしれない。