与えられる人間に価値があるというのは本当か? 〜損得勘定で動く人間の正体〜

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

人生は、取引や投資じゃあるまいし。

与えられる人間に価値があるというのは本当か? 〜損得勘定で動く人間の正体〜

・与えられることは誰もが嬉しい
・与えられる獲得、与える喪失
・与えられることで自分に価値があると思い込む人間
・真の価値は与えるという人の心にある

・与えられることは誰もが嬉しい

他人から何かを与えられたりしてもらったりするというのは、誰だって嬉しい。それは「与える」という尊い行為が自分に降り注ぎ、その気持ちを享受するとともに自分自身は何かを獲得するからだ。この「与える」という行為に何かしらの裏の意図や見返りを求める気持ちがなければないほど、「与える」行為はより一層清らかで尊いものに感じられる。

与えられる側が何かを獲得するのに対して、与える側は何かを喪失するかのように見える。例えばAさんがBさんにお饅頭を与えたらAさんは自分が食べられるはずだったお饅頭を喪失するし、AさんがBさんに電車の席を譲ってあげればAさんはBさんのせいで電車の席を喪失する。またAさんがBさんのために車を運転するという行為を与えたならば、Aさんは多くの集中力と体力とエネルギーとガソリン代を喪失するだろう。

与えるという行為には一見いつも獲得が出現し、与えられるという行為には一見常に喪失が芽生えるように感じられる。それゆえに利害や損得を見据えて、与えられることばかりを目指そうとする人間が一定数存在する。

 

 

・与えられる獲得、与える喪失

確かに論理的に考えて、与えられるということは合理的でお得だ。対して与えるという行為は常に喪失を促してしまう損な行為である。普通に考えてみれば、子供や赤ちゃんのように常に与えられることを待ち望み、他人からの恵みを享受するだけの人生を送ることが賢明であるかのように見える。与えられるものを常に遠慮なく受け取り、もらえるものはもらっておこうと居直り、その代わりとして見返りを「与える」こともなく、与えられ続け獲得し続ける人生は幸福であるかのように見える。

一方で与えるという行為は、資本主義の現代では愚鈍な行為であるように見える。金や価値を蓄えることが人生の目的だとすり替えられてしまったこの世の中では、なるべく多くの価値を獲得し、それを利用して株や投資で自らの持つ価値をさらに増幅させ、可能な限りの価値を自らの内側に蓄えることが人々に偽性の優越感を与えている。人生においてはなるべく多くの価値を蓄えなければならないのに、どうして喪失へとつながる与えるという愚かな行為などできるだろうと人々は考え、人間たちは与えるという行為から敢えて退いていく。

 

 

・与えられることで自分に価値があると思い込む人間

「与えられる自分」というものに価値を見出す種類の人間も存在する。どれほど他人から与えられたかどうかを自らの人間としての価値の尺度とし、なるべく与えられるように与えれられるように人の間で立ち回り、さらには与えることが自らの価値を喪失させるものだと思い込んでは、与えられてばかりいるのに与えるという行為を可能な限り制限し、自らの虚栄の価値を保ち続けようと努力する。

たくさん与えらえる自分というものにすがりつき、人々からの恵みを心の中で並べて眺めて楽しむことが生きがいになっている。こんなにも与えられているのだから自分はきっと価値のある人間に違いないと信じ込む。しかしその心は、与えるという他者からの尊い行為を自らの価値の踏み台とし、他者からの恵みを自分の価値を押し上げるための単なる道具に過ぎないと疑いもせずに思い込む、人間としての醜さであふれている。

 

 

・真の価値は与えるという人の心にある

本当に与えるというのは愚かな行為で、与えられるということが合理的で価値ある行為なのだろうか。確かに与えるという行為が喪失を示唆し、与えられるという行為が獲得を意味すると単純に見なすならば、言うまでもなく与えられるという行為は自分にとっての価値ある利益となるだろう。

しかし人生においてなるべく多くの物質や富や人からの恵みを蓄えたところで、それが一体何になるというのだろうか。人間たちは理由も知らず、教えられた通りに与えられ続け、蓄え、小賢しくその価値を増殖させ満足するが、その価値の蓄えをどのように使えば幸福へと導かれるのかという羅針盤を自らの内側に持っていない。逆に幸福へと続く通路においては、蓄えた価値や富など取るに足らない偽物なのではないだろうか。ぼくたちは本当は必要のないものをいつの間にか両手いっぱいに握らされ、重く動けなくなり幸福へとたどり着く前に息絶えてしまうのではないだろうか。

与えられることを切望し続け、逆に人々に与えるという行為を拒否し、他者をただ与えられるための道具に過ぎないと見なしたその心は、幸福の国へその足を踏み入れる前に肉体と同じく腐って落ちるろう。そしていつしか、この世の中では愚鈍だったはずの喪失ばかりしていた魂は、喪失の先に得た身軽な魂で易々と幸福の国へとたどり着く。

与えるという行為は、実は喪失ではなかった。与えることが喪失のように見えていた人々の瞳がただ汚れて曇っていただけだった。与えるという行為は与えられるという行為よりも、はるかに獲得を出現させた。それは与えるという行為を信仰する心にしか感受されない、素朴で独特な尊い感覚。富を蓄え、増殖させ、逃さないようにすることが人生の目的となっている心には、決して広がることのない感覚。

与えられるという虚像の価値を乗り越えて、与えられることばかりを信仰してしまう現代の瞳の開かない心たちを踏み越えて、ぼくたちは与えるという境地へと達しよう。奪われたこと、盗まれたことを恨むよりも、どんなに奪われてもなくならない、どんなに盗まれても自分からは消えない、尊いものの存在に気付こう。それが自らの奥に確かに眠っていることを。

シベリア鉄道に乗る人々から教えられた「与えること」の本質

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

 

 

関連記事