無職は悪いことであるというのは本当か? 〜無職のメリットと職を持たないからこそできること〜

 

職を持たないこそ叶えられる願いがある。

無職は悪いことであるというのは本当か? 〜無職のメリットと職を持たないからこそできること〜

・無職はひらすら悪のイメージに染め上げられている
・ぼくは旅に出るために無職になった
・時間という余白のある風景
・おばあちゃんと一緒にいられる尊い時間

・無職はひらすら悪のイメージに染め上げられている

「無職」と言えば悪いイメージで染め上げられている。無職であると言えば蔑みの視線は生み出され、無職でないという状態に促進されるべきだという流れが世の中を支配している。職を持たないことは悪であり、生きる上であるべきではない否定すべき姿であり、この世にいるべきではないという気配を漂わせることさえ世の中は厭わない。しかし「無職=悪」という思想のその根源に何が横たわっているのかを誰もが知らない。それを正しいと思って疑わず、みんながそう思っているのだからそう思っていれば傷つけられることはないだろうという浮世の風景が、今もただ目の前に広がりゆくのみである。

無職というのは働かないという意味だ。労働をしないことを、この世では悪だと見なされる。労働とは他人の役に立つということだ。自分の生きる貴重な取り返しのつかない人生の時間を自分のためではなく他人のために捧げ、その見返りとして尊い生きる時間にはよほど及ばないほどの金銭を受け取りながら居直り、人生は細々と営まれる。

他人の役に立つという選択肢を一旦退き、自分のために生きる時間を自分の人生の中に一定期間儲けたからとて何がおかしいことがあるだろうか。むしろ自分の極めて健やかでなんでもできる貴重な若い時代というものを、自分のためではなく他人のために費やし続け、その代償として少ない給料を与えられそれが自分のためになっているのだとごまかされていることの方が不自然と言うべきではないだろうか。

自分を慈しみ、自分のために大いに生きる時代を人生のうちに設けることは悪であると言うだろうか。自分のことしか考えていないと非難されるべきだろうか。自分自身を大切にして、自分のために生き抜いたその先に、矛盾するように他人へと大きく貢献し役に立つ世界が広がっているとするならば、それは素晴らしい生き方ではないだろうか。どうしてシステムはそのような方角へと向かずに、自分という個体を犠牲にして集団を成り立たせるという企みしか巡らせないのだろうか。

お金を生み出すことが最たる目的になっている資本主義の社会では、お金を稼がないことは悪だと考える。記憶力も、物事を思考する能力も、学生時代の学問もお金を生み出すことに帰着してこそ意味があるものだと見なされる。お金を生み出さない生命に意味はなく、それゆえに働かない者は世の中に不都合な存在だと裁かれる。しかしお金を稼いだ後に何を成し遂げるのかその志を深く心に刻んでいる者は少ない。お金というのは生きる手段であり、自らの根源から発せられる志の単なる道具にしか過ぎないのに、お金というものが人生や社会の目的となり果て、人々の心から志は見失われる。

自らの内側から確かに発せられる志の声を聞く耳としての受容体を失って、何のために生まれたのかわからなくなった生命たちは迷子になっている。世界から押し寄せる思想の流行の波に飲み込まれ、自らの生命や民族が祈ってきた道すじを見つけられずにいる。

 

 

・ぼくは旅に出るために無職になった

ぼくは旅に出るために職を手放した。自らの根源の炎がそれを望んでいたからだ。それ以上でもそれ以下でもないし、論理もなければ打算もない。自らの炎にただ従って突き進んで「行動」するという時期が、人生には必要だと感じたのでそれを実践しているまでだ。

そのための費用を蓄えるために3年間の労働を行なった。他人のために自分自身の若い時代を費やし、人を救い人の役に立ち、感謝されるというその期間はやりがいもあったかけがえのない時間だったが、この労働のために生まれ、この労働のために生きているのだという直感的な実感は少なかった。それでもその期間中に、自分の人生の時間のほとんどを費やし他人へと与えたことは意味深い体験だったし、尊く感じている。

職を手放せば旅をすべきだという自らの直感を叶えることができる。自らの直感に従って生きるという時代は、直感に従わない時代よりもさらに意味深いものだ。せっかくこの世に生を受けて生まれたのだから、すべての生命はこの直感的な時代を一度は享受すべきではあるまいか。無職は悪だという世の中の常識に絡め取られて動き出せずにいることよりも、その常識の中には人間の生命にとって最も重要なものが含まれていないことを確かに見透かし、野放しで獣のように突っ走って行動してく自らを体現してみるのも悪くない。

自分自身の純粋な直感を労働の中にすべて封じ込めることができるならばそれは幸運なことだかが、そうはいかないのが現実ではないだろうか。労働とは自分という個体の都合よりもむしろ、所属する集団の利益を主に追求していく流動体だからだ。無職になることには、自らの直感に向かって思いの限りぶつかっていける野性的な奔放さを手に入れられるという利点がある。

 

 

・時間という余白のある風景

ぼくは余白のある風景が好きだ。服屋さんなどでも、大量に商品が隙間なく並べられているような店では全く買う気にならないのに対し、余白を空けて並べられている店ではいいものがあれば買ってもいいかなと思ってしまう。人間がたくさんいて混雑しているような場所も疲弊する。時間に関してもこのことが言えるのかもしれない。

職を手放せば自分の思い通りにできる時間が増える。忙しくて自分が今何をすべきなのか、どのように効率よく作業をこなしていかなければならないのかと考えるのもアドレナリンが出て楽しくて好きだったが、性分としてはこの時間に余白のある風景の方が、心地よく人生を送ることができているのだろう。

時間があるから考えるための時間が増えるというのは適切ではないだろう。忙しくても常にぼくは人生について思考する。ただ多忙な際に思考した結論と、時間の余白のある中での思考から導き出された結論は、やや趣が異なるのかもしれない。そんな自分の多面性を認識するという意味でも、人生に多忙な時期と余白のある時期を設置することは有益であるのかもしれない。

 

 

・おばあちゃんと一緒にいられる尊い時間

ぼくが職を離れて最もよかったと思う出来事は、おばあちゃんと一緒に過ごせる時間が与えられたことだ。ぼくは両親が共働きでその間はおばあちゃんが家に来てくれていたから、小さな頃からおばあちゃん子だった。しかし大学、就職のためにはるか遠くの沖縄へ移住したために、大切なおばあちゃんと過ごせる時間はめっきり減ってしまっていた。

おばあちゃんとは危うい存在である。もうあと何年生きられるのかそんなこと誰にもわからない。その中で、どれだけの時間を共に過ごせるのか見当もつかなかった。はるか彼方の南の島に生き続けていたならば、本当に本当に限られた時間した一緒にいられることはできなかっただろう。

職を持っていなければ、人生の多くの時間をおばあちゃんの家で自由に過ごすことができる。これがぼくが職を手放したからこそ実現できた風景だ。まるで幼い頃におばあちゃんの家に遊びに行ったような感覚で、今おばあちゃんの家で過ごすことができる。こんな時間が人生の中で再び訪れるとは思ってもいなかったので、思いがけない尊い生活となった。いつまでも元気でいて欲しいと願うけれど、永遠に元気であることは人間である限りありえない。最後かもしれないのんびりした時間を共有することができたこと、幼い頃のようにおばあちゃんの家で過ごせたことを、心から嬉しく思うしそんな時間が設けられたこの生命を誇りに思う。

 

 

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