都会では車がいらないというのは本当か? 〜集団を超越せよ〜

 

都会で車はコスパが悪いらしい。

都会では車がいらないというのは本当か?

・車を持つ者、持たざる者
・誰だって自分を可愛がってあげたい
・集団を超越した何か

・車を持つ者、持たざる者

ぼくはスペイン巡礼として、800km32日間を友人と2人で歩いていた。32日間も一緒に歩いていると色々な話をする。そのひとつとして車の話をした。

ぼくはスペイン巡礼の前に旅した紀伊山脈・車中泊の旅が忘れられないほど素敵だったので、今まで車に愛着なんか持っておらず乗れればいいただの移動手段だと思っていたものの、最近初めて車を大切に思う気持ちが芽生え始めたのだった。ぼくが車の免許を取り車を持っているのはとても当然の成り行きで、ぼくは10年間沖縄に住んでいたので、電車のない車社会の沖縄では車の免許と車は普通に生活していく上で必須条件だった。

一方友人は大阪出身で大阪育ちで、車も車の免許も持っていない状態だった。大阪だと沖縄と違い電車や地下鉄などで便利に移動できるので、免許も車も必要ないらしい。日本で自動車の免許を取るためには合計30万円かかるらしく、また車を買うのも維持費も高いし、大阪だと駐車場代も高いし、免許も車も欲しいものの大阪で暮らすには車はコストパフォーマンスが悪すぎるということだった。

ぼくは初めて車に愛着が湧き出した時期だったので、車があると公共交通機関とは違って、自分の好きな時間に自分の好きな場所に行くことができるということや、バックパッカーとして旅するのと全然違って好きなだけ自分の荷物を入れて持ち運ぶことのできた感動について、すなわち車の利便性について彼に語った。一方彼は、彼にとって車を持って生活することがどれほどコストパフォーマンスが悪いことかを合理的にぼくに語って聞かせてくれた。

そしてこの会話は、不思議な面白さを持ってぼくの心の中に残っていた。

 

 

・誰だって自分を可愛がってあげたい

思えばこれは当然のように成立する人間の会話だろう。ぼくは車を持っている、そして車のよさを強調する。車を持っている不都合よりもむしろ、実際に車を買って、車を使って生きることの楽しさに焦点を当てて会話を展開していく。せっかく高いお金を払って車の免許証をとって、高いお金を払って車を購入したのだから、自分が高いお金を払っただけの見返りを得られた生活をしていると、潜在的に思い満足したいからだ。自分に暗示をかけて、自分が損をした生き方をしていると思い込みたい人間などいないだろう。

一方車を持たない彼は、もしも車を持ったならば起こる素敵な出来事を思い描いて話すよりもむしろ、車なんて持たなくてもいい理由や車を持たないことにより得られている経済的な恩恵、または車が必要になった場合にはレンタカーやカーシェアを利用すればいいのだという自分の車を持たなくても不都合はないという論理を展開し、車を持たないという生活がいかに自分にとってふさわしいものであるかということを主張する。車を持たない人にとっては、車を持ちたいと無為に願うよりはむしろ、最初からそんなものいらないのだという立場に立ちながら合理的に生きて行く方が、心を消耗しなくて済むからだ。

誰だって自分を可愛がってあげたい。誰だって自分の髪を撫でて癒してやりたい幼児だ。自分の人生を否定するものなんか退け、自分の人生を的確に肯定して、自分という人間が滑らかに人生を歩んでいけるように手助けしてやりたい。自分の生き方を否定して生きて行くなんて、それこそ無駄が多いではないか。

 

 

・集団を超越した何か

日本に帰国してからも別の友人と車について話す機会があった。やはり車を持つ人は車を持つことの素敵さを熱弁したがるし、車を持たない人は持たないことの合理性を追求している。結局人間というものは、自分の人生の状態に合わせて自分の思想や考え方が決められていくのだろうか。自分の髪を撫でてやれる方の意見に、自分を可愛がってやれる方の意見にすがりつくことで、自分自身を生きやすくしていくのだろうか。

国や歴史を見ていてもそうだ。日本という国に生まれたからには、日本という国の悪い点よりも優れた点の方が受け入れやすいし、それを選び取り心に宿していく。歴史的観点でも日本が善良であるという立場の方が、日本人にとっては馴染みやすいものだろう。そしてその立場に立ったとすれば敵は誰かと、人間は詮索し探っていく。

「車を持っている」という集団、「日本」という集団。人間は自分がどの集団に属しているのかをいちいち鑑みながら、自分の思考体系を変容させていく。自分の集団が世界にとってふさわしく、都合のいいように思想の偏りを変化させ、優れた集団に属するという自分自身の価値を高めようと躍起になる。しかし集団を入れ替えてしまえばたちまちに、彼らの思いや価値観も移ろいでいくことだろう。たまたま属している「車を持っている」という集団、たまたま生まれ落ち所属している「日本」という国、そんな偶然たちに、自分の思考や価値を任せてよいのだろうか。

人間の集団を超えた、自分の本来の思考はどこにある。人間の集団によらない、自分自身の価値はどこにある。所属し続けたならば一向に見えない。ほくたちは、ぼくたちの正体がわからない。だからこそぼくたちには、旅に出る価値がある。集団を超越した何かを曇りなき眼で見定める覚悟がある。集団を抜け出してしまえば、匿ってくれる者はいなくなる。所属していなければ、所属している者たちの冷たさが降り注ぐ。それでも、傷を負ってでも、重き荷を背負ってでも、ぼくたちには旅に出る価値がある。集団を超越した何かを、曇りなき眼で見定める覚悟がある。

 

 

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