地球を守りたいのではなく、自分を守りたいだけではないだろうか。
地球を守るために環境問題に取り組まなればならないというのは本当か? 〜守りたいのは地球ではなく自分〜
・「地球を守ろう」と正しそうに叫ぶ人間たち
・地球を守りたいのではなく自分を守りたい人間
・人間の心の悲鳴が地球の悲鳴に誤って転換されている
・46億年の聡明な地球の運営
・正しい「環境問題」によって搾取される民衆
目次
・「地球を守ろう」と正しそうに叫ぶ人間たち
地球温暖化やゴミの問題、オゾン層の破壊や、海洋や大気の汚染問題、植物保存などの環境問題に関して言及するとき、よく人は「地球を守ろう」と言う。
「地球を守ろう」と言えば、なんだか人間が救世主のように思えてカッコいい。正しい行いをしているのだというような正義感もわく。地球という無知で弱い立場の存在があって、人間という知性がある地球を守ってやるほど立派で特別な生物がいて、その人間が地球を守ってやろうという構図だ。なんだか優しく慈悲深いように聞こえる「地球を守ろう」という言葉だが、よくよく考えてみればこれほど傲慢な言葉もあるまい。
地球が人間に守ってもらうほどに愚鈍で軟弱な存在であるという思い込みがそもそもの思い上がりの間違いである。地球の年齢と言えば46億年だ。それに比べて人間の歴史なんてたかだか500万年ほどである。地球が人間に手助けなどしてもらわなくても何十億年も環境の変化に柔軟に対応しながら存続してこられたことは、火を見るよりも明らかである。逆に言えば人間の方が、地球の歴史からすると一瞬で消えてしまうだけの雑魚な生物かもしれないのだ。
・地球を守りたいのではなく自分を守りたい人間
さらに言えば「地球を守ろう」とか「緑を守ろう」という言葉のカラクリ自体が気にくわない。「地球を守ろう」とか「緑を守ろう」と言ってしまえば、気高く強い自分が何かしらか弱いものたちを守っている慈悲深い正義のヒーローというような印象を抱いてしまうが、よくよくそう叫ぶ彼らの精神を観察していると、守りたいのは地球でも緑でもなく、人間という自分自身に他ならない。
人間という生物が好き勝手に暴れて、資源もエネルギーも使い放題にして、そしていざ環境のバランスが崩れて、あれこのままだと俺らヤバいんじゃね生き延びられないんじゃね?と気づいた時に、自分たちの命を守りたいという防衛本能が働いたのだけれど、人間独自の見栄や虚栄心の部分で、自分が自分を守りたいと叫ぶのは美的観念的によろしくないので、それならば自分たちがヒーローのような存在になれる「地球を守ろう」という言葉を小賢しく発明したに過ぎないのではないだろうか。
地球を守ろうも、緑を守ろうも、川を守ろうも、海を守ろうも、動物を守ろうも、結局は人間という自分自身を守りたいという自己防衛の思いに帰着する。みんな本当は「地球を守り」たいのではなく「自分を守り」たいだけなのだ。それを見栄えよく、体裁よく「地球を守ろう」と物申しているけれど、結局は人間という脆弱な存在が、地球と環境に命乞いをしているに過ぎない。「地球を守ろう」「緑を守ろう」「動物を守ろう」という言葉の怪しさがここにある。
・人間の心の悲鳴が地球の悲鳴に誤って転換されている
さらにさらに言えば、地球は今、人間に守ってもらわなければならないほどの状況に陥っているのだろうか。本当に地球は悲鳴をあげているのだろうか。汚れた海や、大量の森林伐採、地球温暖化を目の当たりにして、人間たちうろたえ、迷いに満ちながらどのように人間が生き延びていくかを模索しているけれど、一方で当の地球はと言えば、別にこんなこと屁でもないよ、取るに足らないことだよと気にも留めていないのではないだろうか。
人間によって汚れた海を見て「ああ!地球が悲鳴を上げている!」と感じる人は、自分という人間がこのままの海では魚も獲れないし海で楽しく泳げないし、人間にとって好ましい状況ではなく、人間の心が悲鳴を上げているだけなのに、それが「地球が悲鳴を上げている」っと盛大に勘違いしているだけに過ぎない。実際に地球は悲鳴など決して上げていないことだろう。これは森に関しても、川に関しても、動物に関しても同じことではないだろうか。人間の生存にとって非常に都合が悪いことを目の当たりにして、人間の心が悲鳴を上げていることを、地球が悲鳴を上げていると勘違いするなんて、かなり間抜けな思い違いではないだろうか。
・46億年の聡明な地球の運営
地球はといえば、汚れた海や、川や、森や、悲しい動物たちを見て、ああ46億年の長い歴史から見れば地球というのはいろんなことがあったから、こんなことは全然想定内の範囲!一瞬だけ栄えている人間という種族がほんの一時的に暴れて生態系や環境が一瞬崩れているに過ぎないが、もうすぐ人間の繁栄も終わって元に戻すから大丈夫大丈夫!人間がなかなか消えずにバランスが崩れ続けるのであれば、意図的に人間なんて簡単に消せるから大丈夫大丈夫!と呑気に構えているような気がしてならない。
地球温暖化だってそんなに重大な問題なのだろうか。地球にはこれまでも氷期と間氷期があり、暑いのと寒いのを交互に繰り返しているのだから、地球が暑くなって何が問題だというのだろう。それはただ、地球が暑くなることによって自分たち人間が地球に住みにくくなるのではないかという恐れから来ているのではないだろうか。地球にとっては痛くもかゆくもない正常な運営を、人間のどうしようもない恐れと引き換えに地球を“異常”に仕立て上げてしまってはいないだろうか。
自分たちの仕業で自分たちの未来を嘆いてうろたえているのは人間だけだ。そのうろたえさえ、おかしな虚栄心に満たされながら。
普通に考えてみれば人間だって地球の一部なのだ。人間だって環境の一部なのだ。人間だって自然の一部なのだ。自分が人間であるあまり、人間という存在を特別視し、過大評価するのことがそもそもの間違いであって人間は海や山や鳥や虫や木の葉や星や石と、何の変わりもありはせぬ。ひとつの変わりもありはせぬ。
大自然や地球の営みが人智を超えたところで人間の思いなど無視して運ばれているように、まさに人間がやたらと気にしている環境問題も、人間の知らないところで地球が勝手に賢く運営してくれているだろうから、無知な人間は大人しく何もできないたかが自然の一部として、未来への不安や迷いなど捨てて心健やかに生きることの方が賢明ではないだろうか。
人間が大問題だと心さまよっているものたちは、地球にとっては取りに足らない、いつでも起こり得る微小な変化なのだ。46億年の無常な地球運営の中で、人間が大問題だと信じ込んでいる現象以上にもっと大変なことが、地球の歴史上もっとたくさんあったのではないだろうか。それらの無常を乗り越えて、46億年の地球の今があるのだ。地球に比べて寿命の短い人間はそれを全く知らないから、自分の目の前で起きているほんのささいな出来事を対策すべき重要な問題だとして見なして提示してしまうが、地球からすれば人間はものすごくどうでもいいことに対して深く考えとめどなく迷いそして死んでいくおかしな生物だと見なされているかもしれない。中途半端な理性を持つのはかわいそうなことだと、それならばいっそ動物のように生きればいいのにと。
・正しい「環境問題」によって搾取される民衆
気にかかるのは「地球を守ろう」という聞こえのいい言葉が、民衆からのお金の搾取へと繋がっていることだ。そのような事例は人間社会の中でたびたび散見されるが、最も身近な例と言えばレジ袋ではないだろうか。
「環境問題に取り組む」「地球を守ろう」といういかにももっともらしい正しそうな理想概念のもと、今まで無料だったレジ袋代を民衆に要求する取り組みは始まった。「地球を守ろう」「自分たちの子供の未来を守ろう」と言われてしまえば、民衆は何も言えずに従うしかない。何も言い返すことができずに、今まで負担する必要のなかったレジ袋代を搾取される日々である。
しかしこの一見正しそうに見えるレジ袋の取り組みはかなり怪しい。これってただ企業がこれまで無料だったレジ袋を有料にすることで、何もしなくても客からいきなり追加でレジ袋代を請求できるという小賢しい錬金術ではないだろうか。「地球を守ろう」といういかにも正しいとしか言えない言葉を掲げることによって民衆の反発を抑え込んだだけの、ふてぶてしい金儲けの手段に過ぎなかったのではないだろうか。
「環境問題」とはもしかしたら人間の未来を守りたいという正義感ではなく、企業や権力者がただ単に“正しさ”という盾を保ちながらお金を小賢しく大いに稼ごうとするために民衆に植えつけられた、経済の道具であるかもしれない。