値札が付いているのが普通というのは本当か? 〜売り手の権力・買い手の無力〜

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日本で暮らしていると、すべてのものに値札が付いている。

値札が付いているのが普通というのは本当か?

・売り手の決定する固定された価値
・買い手も参入できる変動する価値
・売り手の権力/買い手の無力
・買い手の権力の自然発生
・価値は彷徨う
・価値の研究と自らの感性
・自作詩「時の宝石」

・売り手の決定する固定された価値

そしてその値段はほとんど変動することがない。ぼくたちは日本で値札が付いている商品に対して、値切ったり安くしてと頼むことはほとんどない。ただ大人しく値札の通りに料金を支払って商品を購入するのみである。これは言わば、その商品の価値の決定権が、完全に売る側にあることを意味する。買う側にとっての価値が何円であろうともそれが買い物の値段に反映するということはほとんどなく、ただ売る側が指定した値段を受け入れて、それが自分の感性にとって適切だったりお得な値段であれば購入するし、異常に高ければ購入しないだろう。

しかしぼくたちはその商品の価値を決定づけることを完全に売り手に任せ、自分にとってのこの商品の価値がいかほどかという思考を、自分自身の中でほとんど行わないのではないだろうか。けれどそれは仕方のないことである。自分にとっての価値がいくらかを自分自身で算段して見たところで、値段は自分自身で決めようがないのだから、自分の中で価値を考えるだけ無駄というものだ。しかしこの、その商品が自分にとってどれほどの価値かを思考する能力は、異国を旅すると途端に必要となってくる。

 

 

・買い手も参入できる変動する価値

ヨーロッパや北米では、日本と同様に売り手が完全に物の価値を決めた値札が貼り付けられており、日本と相違はないが、東南アジアや中東、アフリカなどに行くと、値札が付いているということが少ない。日常生活で値札が付いているのが通常であるぼくたちにとって値札が付いていないのは不安になってしまうが、しかし逆に考えればこれは、自分自身でその商品の価値を決定し、自分自身の感性から来る価値で商品を購入するチャンスである。

 

・売り手の権力/買い手の無力

考えてみれば売り手だけが商品の価値を決定し、それに値札をつけて価値を固定し、買い手がなにひとつ価値決定に参入することができないという状態は、異常なことであるかもしれない。なぜなら買い物というのは、売り手と買い手がいて初めて成り立つからだ。売り手の価値の決定づけと、買い手の完成から来るその物の価値と、それを擦り合わせて一致した時にはじめて買い物が成立する。言わば売り手と買い手はその商品の価値の決定づけに関して平等であるべきである。

しかし、値札が付いて価値が固定化された文化では、売り手の方が買い手よりも価値決定において多大なる決定権があり、そして買い手の権利はもはや0に等しい。買い手は売り手に対して非常に不利な状況にあると言えよう。ぼくたち買い手はは売り手の指し示す固定価値にひれ伏し、そして買い物をするしかない。しかしそれが日常であるあまりに、ぼくたちはそれがおかしいということすら見落としてしまうのだ。

 

・買い手の権力の自然発生

これが値札のつかない国々、固定されない価値の国々へと行けばどうなるだろう。ぼくたち買い手自身も、その商品の価値を決定付けることがゆるされる。売り手も最初はかなり高い値段でふっかけて来るが、そのかわりこちらがいくらなら買うのかという、こちらの価値観を問うてくれるのだ。買い手の権利がここで自然と発生し、自分の感性から来るものの価値を再考する可能性が出てくる。

 

・価値は彷徨う

この商品がどれほどの価値があるのか、自分自身で決めることはぼくたちは苦手だろう。そんなこと日常生活でしたことない、ただ売り手の示す価値にひれ伏して生きて来ただけなのに、急に自分で価値を決めろと言われたのでははっきり言って戸惑う。

その国全体の物価が日本と比べてどうなのかもいまいちよく分からないし、その国の中でその商品がどれほどの価値を持つものかを、異国人の自分が判断することは難しいからだ。日本ならばキャベツはこれくらい、玉ねぎはこのくらい、チョコレートはこのくらいなどという感覚を養っているだろうが、異国ではその観念は通用しない。

 

 

・価値の研究と自らの感性

ぼくたちは研究するしかないだろう。その国全体の価値の高さ、そしてその国でのその商品の価値を分析するより他はない。

てっとり早いのはスーパーマーケットだ。その国の価値の大きさを大雑把に知ることができる。また信頼できる地元の人に、これは普通いくらくらいなのと尋ねてみるのもいいだろう。そしてその研究結果をもとに、自分の感性と絡み合わせた上で、買い手として主張する値段を決めれば適切な買い物が可能になるだろう。

そのようにして慣れていけば、案外こちらが価値付けをできる買い物も楽しくなってくるものである。そして自分が価値決定に参入できる権利を自然と持つことに違和感を感じなくなったときにふと、日本ではなぜ自分の価値観がまったく値段に反映されることはないのだろうと疑問を抱き始めるかもしれない。

 

 

・自作詩「時の宝石」

美しいモザイク模様のバザールに
並べられた色とりどりの宝石
本物と偽物の区別もつかずに
立ち止まったペルシアの街角

本物だろうと偽物だろうと構わない
あなたが好きで選んだものならば
それが本物になるんだ
通りすがりの友人が教えた

そうだね 本物だ偽物だと
誰が決めるのだろう
この命に価値があることやないことを
誰が裁けるだろう

まるで時を要らないもののように
通り過ぎることを願っていた
間違った時代を通り抜けて
時がぼくの宝物になる時が来た

幼い頃に知っていたように
時がどんなに美しい宝石かを
もう一度思い出して 朝の光が注がれる
そうだ今日から夏休みだった

 

 

 

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