この世をふたつにわける者たちへ。
あらゆる出来事が政治へとつながっていくというのは本当か?
・すべてのものは差から生じる
・政治は世界を2つに切り裂くナイフ
・あらゆるものは政治へと飲み込まれる
・悲しき者の切なる願いは思想では裁けない
・すべてのものは差から生じる
人間は物事を差や相対によって意識する。すべてのものは差から生じる。本当はたったひとつのこの世界を、いちいちすべてに関して2つに分け隔てて、境目を生じさせて2つにかき分けて、ぼくたちはすべてを認識する。その認識をもとにして、ぼくたちは意識のある人生を生きていくことができる。
ぼくはぼくであなたではないのだと。ぼくは男で女ではないのだと。ぼくは日本で異国ではないのだと。ぼくは人間で動物ではないのだと。ぼくは生きていて死んではいないのだと。あらゆる分裂によってぼくたちは自分を形成する。意識を保つ。
けれどぼくたちがこの世に生まれてきた時、ぼくたちが目の前に見た世界はたったひとつだった。自然な成長とともに、勝手に誰かがぼくたちに、世界を引き裂く方法を教えてしまった。ぼくたちはそれに従った。
けれど本当は覚えている。この世界は引き裂かれてなんかいないのだと。引き裂かれ、パーツになり、部分になり、部品になり、なにかの小さな役割を果たすために、ぼくらは生まれてきたわけじゃない。ぼくたちはこの世のすべてで、すべてのことを担いながら、それがたとえ重くても、ただすべてのために、すべてを背負いながら全体で生命を生き抜いていくのだと、感じた頃のその世界を決して忘れてはいない。
特には正常な分裂された人間社会を生きながら、そして時にはひとつだった世界を夢の中や無意識において思い出しながら、ぼくたちの生活は営まれていく。
・政治は世界を2つに切り裂くナイフ
政治というものは気色が悪い。それは、政治が無慈悲で濃厚な境界線を以てこの世界を2つに分断させてしまうからに他ならない。
人間が意識を保つためには世界を切り裂くナイフが必要なのは仕方のない事実だが、そのナイフを最も鋭利な状態で、最も人と世界を傷つけるような状態で残酷に隠し持っているのが政治という切り裂きではないだろうか。
政治的な思想は最も濃厚に人間社会を分断する。人間の世界を分裂させる。本当にあるのかないののも定かではない国という幻について憎しみは燃え、怒りは滾り、ぼくたちは争いの波に飲み込まれてしまう。
本当はわかり合える人々が敵に見えてしまう。どうしても相容れない存在だと思い込んでしまう。誰もがわかりあえるものや許しあえるものを保つことをゆるされたこのひとつの尊い世界において、ぼくたちは世界は2つに分かれているのだと憎しみ合い、できることならばもうひとつを消し去りたいと残酷な願いを宿してしまう。
・あらゆるものは政治へと飲み込まれる
大人の世界ではおかしなことに、あらゆる直感的な危機感も野生的で根源的な願いも、すべてが政治という枠組みの中に絡め取られて巻き込まれてしまう。人を傷つける道具にされてしまう。どうして人間が生命の底から自然と発せられる願いや祈りに対してまで、まつりごとのステージに立たせて憎み合う道具にされなければならないのだろう。人ならば誰もが心から生命について等しく思う事柄でさえ、政治という分裂の観念に励起されて人の世に憎しみは増産されていく。
・悲しき者の切なる願いは思想では裁けない
原子発電所とは、本当に政治的な出来事なのだろうか。沖縄の美しい海が埋められていくことは、本当に思想に絡め取られて語るべきことなのだろうか。沖縄という碧い島やそこに住む人々の美しい心は、イデオロギーによって裁かれるべきものなのだろうか。それらによって2つに分裂させられているぼくたち人間の姿は、生命としてふさわしいものなのだろうか。憎み合い攻撃する姿は、本当に美しい生き方なのだろうか。
住む場所を失った人々の深い悲しみや、故郷の美しい海が失われていく喪失感という、生命としてごく自然な心のふるえや怒りが、関係のない大きな集団の利益や損得の介入によりかき乱され、打ち消され、本来見るべき観点を完全に見失っているような気がしてならない。
まつりごとや思想という穢れが取り祓われた時になってはじめて、ぼくたち人間が生命の底から何を願い何を祈っているのかを自分自身の心から感受できるのではないだろうか。ぼくたちが本当に必要なのは、利益や思想や政治という曇りガラスを通して見つめた世界ではなく、もっと自らの根源から沸き起こる美しい清流のようにいつまでも枯れることのない切なる願いの正体を知ることではないだろうか。
政治というこの世界を2つに切り裂くナイフの極致からぼくたちは一旦退き、少しだけ人間でいることを休止して、生まれる前のひとつの世界を眺めてみないか。優しい世界を思い出さないか。