昔からとても不思議だったこと。
同じ民族が思想により2つに分断されるというのは本当か? 〜資本主義と社会主義〜
・世界には資本主義と社会主義がある
・家族という人間の最初の集団における分裂
・与那国島における自衛隊への思想からの分裂
・民衆の思想と国家の思想は必ずしも合致しない
・生まれる前から持っていた純粋な思想の炎
目次
・世界には資本主義と社会主義がある
小学校の時に、世界には資本主義と社会主義の国があるということを社会の授業で学んだ。資本主義とは自由に競争してお金儲けをしていいこと。それゆえ経済は発展するが、貧富の差が拡大する。社会主義とは、お金儲けしても国が管理するのでみんな平等、その代わり競争がなくなり経済が停滞するという短所があるという。
日本は資本主義、アメリカも資本主義、ソ連は社会主義、中国も社会主義。この国は〜主義と覚えればいいだけだと簡単だが、なんと同じ民族なのにその主義により分断されてしまった国もあるという。
例を挙げれば、朝鮮半島の資本主義の韓国と社会主義の北朝鮮、ドイツにおける資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツ、そして今ぼくのいるベトナムにおける資本主義の南ベトナムと社会主義の北ベトナム。
日本人のぼくにはこれが不思議で仕方なかった。いくら思想が違うと言っても、同じ民族なのにそれだけで国がふたつに分裂してしまうことなんてあるのだろうか、国ってそんなに簡単に別れてしまうものなのだろうかと、実感が湧かず疑問に思っていたのだ。
・家族という人間の最初の集団における分裂
国というもので考えると、スケールが大きすぎるから実感が湧かず理解できないのかもしれない。国といえども所詮はただの人間の集団だ。ここは縮小された身近な人間の集団について考えて、それを国家に適応させてみるのがいいだろう。
ぼくたちの周囲で身近な人間の集団で最小でわかりやすいものといえば「家族」ではないだろうか。家族といえば、お父さんがいて、お母さんがいて、兄弟がいるようなのが一般的である。家族という人間の集団が、思想によって分断するというのはあり得るのだろうか。
たとえばお父さんとお母さんとで、思想の違いがあったとする。お父さんが家族で山に住みたいと主張し、それに対してお母さんがみんなで海に住みたいと言えばどうだろう。普通は夫婦で相談し、議論し、山に住むか海に住むか決めるだろう。議論しても決着せず、どうしても合意できない場合でも、子供もいるしとどちらかが我慢、譲歩し、家族みんなでどちらかに暮らす道を探すだろう。しかし、お父さんが絶対に俺は山に住みたいんだ、お母さんもどうしても私は海に住みたいんだと言った場合には、思想の分裂により、離婚することもあるかもしれない。こう考えてみると、最小の人間の集団である「家族」でも思想による分断の可能性がある以上、それを組み合わせて大きくなった「国家」という集団でも思想による分断があり得そうな気もする。
しかしこれがもしも、ぼくが山に住みたいんだと主張し、妹が海に住みたいんだと主張して喧嘩しても、家族の分断は起きないだろう。そんなくだらない兄弟喧嘩をしていても、黙りなさいと親に一喝されて終了である。集団の分断は、お父さんやお母さんといった集団内の権力者のうちでの思想の分裂によってのみ引き起こされる事態であるかもしれない。
・与那国島における自衛隊への思想からの分裂
それでは中規模の人間の集団、たとえば市町村などはどうだろう。そういえばぼくは中規模の人間の集団が、思想によって分断されている場面をこの目で実際に見たことがある。それは日本の最西端の島、与那国島でのことだった。
ぼくは医者として地域医療を学ぶために、1ヶ月間与那国島に移住していたのだった。与那国島では今現在、自衛隊が派遣されており、素朴なその島の中でも新しい大規模な基地を確認することができる。その自衛隊の派遣を巡って、最近島民は対立した歴史があるらしい。自衛隊の派遣を巡って島民は2つに分裂し、自衛隊派遣に賛成派と反対派に分かれてしまったようだ。そして同じ島民であるにもかかわらず、あいつは自衛隊賛成派だから反対派は喋ってはいけないと言って対立してしまうほど、思想の違いで仲が悪くなる例もあったらしい。
やはり思想の違いによって人間の集団が分裂するというのはあり得そうだった。同じ民族であろうとも、同じ島民であろうとも、そんな根本的なことさえ関係なく人間を無残に分裂させてしまうほどの力を、思想というものは持っているらしい。思想というものは、強力で恐ろしく、また不思議なものだ。
・民衆の思想と国家の思想は必ずしも合致しない
しかし思想による人間の分裂が起こった時、たとえばそれが小規模な人間の集団ならば、すべての民衆が自分の思想通りのグループに属せそうだが、その規模が国家という大きなものになると、民衆の思想は国の思想と合致するのだろうか。
たとえば小規模集団の「家族」の例であれば、家族が夫婦の思想により分断した時に、ぼくが山に住みたいという思想を持っていればお父さんについていき、妹が海に住みたいという思想を持っていれば彼女はお母さんについていき、誰もが自分の思想通りの生活を営むことができる。
しかしたとえば朝鮮半島が無残にも思想によって38度線で分裂した時に、本当に民主主義思想を持った民衆が全員韓国へと移住して住み、社会主義思想を持った人々はちゃんと北朝鮮へと移動し、誰もが自分の思想通りに生き延びられたのかと疑問に思うのだ。しかし、普通に考えてそのようなことはありえないことだろう。朝鮮半島はただ地理的分断されただけであり、もしも南朝鮮に住んでいた社会主義思想の人がいてもそのまま韓国人にならなければいけなかったし、北朝鮮に住んでいた民主主義思想の人も韓国には移り住めずにそのまま社会主義国家で生きていくしかなかっただろう。
民衆というものは自由な思想を持っているが、それが自分の住んでいる国家と合致しているとは限らない。自由だったはずの民衆たちの思想は、権力者の作り上げた国家に次第に染められ、だんだんと国家の思想に染められていくのかもしれない。民衆の思想はいつの時代でも、どんな国においても、より大きな権力を帯びた思想によりないがしろにされ、支配され、司られ、変容していくものなのかもしれない。
・生まれる前から持っていた純粋な思想の炎
自分の遺伝子のうちから奏でられる、生まれる前から携えていた、透明で純粋な思想の炎があるとすれば、それはどのようにして発見することができるだろうか。もしかしたら今持っているすべての思想は、大きな力によって支配されているだけのものに過ぎないのかもしれないと認めざるを得ないこのような人生で。ぼくたちは、ぼくたちの純粋な思想を、どのようにして取り戻すことができるのだろうか。そのようなものがあるのか、ないのかもわからずに。