やりたくないことや嫌なことから逃げるのは悪いことだというのは本当か?

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やりたくないことや嫌なことから逃げるのは悪いことだというのは本当か?

・やりたくないことや嫌なことから逃げるのは悪いことだというのは本当か?
・逃げる行為は生命を維持するために必要不可欠な機能
・「逃げる」という言葉の奥に隠されている悪意
・エヴァ「逃げちゃダメだ」、かもめ食堂「やりたくないことはやらないだけ」
・全ての人間にとって「いるべき場所」「やるべきこと」なんて本来はどこにもない
・ぼくたちを支配する「いるべき場所」「やるべきこと」の正体
・いるべき場所へと帰る「神聖な魂の旅立ち」は、決して逃げとはならない
・中島みゆき「国捨て」

・やりたくないことや嫌なことから逃げるのは悪いことだというのは本当か?

ぼくたちは幼い頃から、やりたくないことでも我慢してやらなければならないと教えられる。例えばやりたくなくても毎日宿題しなければいけないし、面倒でも毎日学校に行かなければならないし、気持ち悪くても学校のトイレ掃除をしなければならないし、痛くて嫌でも予防注射をしなければならない。さらに大人になれば、本当はのんびりゆっくりと好きな人たちとだけ暮らしたいのに、社会に出て様々な人間関係に苦しみながら、朝から晩まで労働しなければならない。

とにかく人生はやりたいと感じることだけやっているだけではダメで、やりたくないこと、嫌なことを我慢してこなすべきだと教えられる。さらに言えばやりたいことをやっている人は堕落した人間であり、やりたくないこと我慢してする人、嫌なことを耐え忍んでやっている人が立派な人格だと見なされる傾向がある。みんながやりたくないこと、嫌だと感じることを我慢して一生懸命に頑張れる人が、報われていい人生を歩む結果になると信じられている。勉強などはその典型であり、みんなが嫌だと感じる勉強を我慢して必死にこなせば、高学歴になり、立派な会社に入れ、高収入や安定した生活をゲットできるとぼくたちは教えられる。

しかし本当にそうなのだろうか。ぼくたちがやりたくないこと、嫌だと感じることを我慢してこなすことは、本当にそんなに立派な生き方なのだろうか。ぼくたちはやりたくないこと、嫌だと感じることをするために生まれてきたのだろうか、やりたいことをやることは、やりたくないことを我慢してやった後のご褒美でしかないのだろうか。やりたいことをすることは、そんなに悪いことなのだろうか。

 

 

・逃げる行為は生命を維持するために必要不可欠な機能

ぼくたちは本能や直感によって、これから逃げなければならないと感じるものが存在する。例えば変に酸っぱいものや液体でジュクジュクした食べ物は腐敗しているかもしれないと口から吐き出したくなるし、ムカデやヘビなどを見ると一目散に逃げ出したくなるし、ナイフを持って暴れている変なおじさんがいると絶対にそこを立ち去りたくなる。もちろんそれはお腹を壊したり、毒に晒されたり、ナイフで殺されたりすることを防ぎたいと言う防衛本能が働くためだ。すなわち「逃げる」という行為は、本来自分の命を護るための警告という役割を果たしているのではないだろうか。

そう考えると逃げるという行為も生物としての合理的な生き残りの手段であり、思考停止した世の中において一辺倒に悪いものだと認識されていること自体が誤りではないかとすら思えてくる。ぼくたちは生物として生き続けているのだから、危険な場所や生命に悪影響をもたらすものから逃げて、生き残る方角を選択して何が悪いのだろうか。

 

・「逃げる」という言葉の奥に隠されている悪意

確かに宿題くらいで死ぬ人はどこにもいないので、宿題から逃げるのはよくないことかもしれないが、例えば学校でひどいイジメに遭っているとか、人間らしからぬ労働環境で働いている人にとっては、自分の生命を護るためもしくは維持するために、むしろ逃げるという行為が必要な場合もあるのではないだろうか。

「逃げる」という言葉には、おかしな悪意が組み込まれることがよくある。例えば「火事から逃げる」というのはその文面通り火事から逃げるということしか意味しないのだが、一方で「学校から逃げる」「労働から逃げる」と言えば付加的な意味で潜在的に、いるべき場所から逃げていること、本来はそこでいなければならないのにいないこと、みんなが我慢している場所からその人だけ我慢できずに抜け出すことをも表すようになり、さらにはその逃げた人をダメな人、悪質な人、出来損ないだと非難するような悪意すら確かに感じられる。

しかし本当に人間にとって、いるべき場所なんてあるのだろうか。学校や労働が、全ての人間にとっているべき場所なのだろうか。みんなが我慢してそこにいるのだから、自分もどんなに不幸な思いをして死にそうになりながらでもそこにいるべきなのだろうか。みんなと同じでないと生きてはいけないのだろうか。いるべき場所なんて、その人自身の直感でしかわからないのではないだろうか。思考停止してここにいるべきだと教え込まれた場所に、全ての魂を収めるべきだろうか。それぞれの魂には、それぞれのいるべき場所があって、それは他人が決めつけるものではないのではないだろうか。全ての人にとっているべき場所なんて、世界のどこにもないのではないだろうか。

「逃げる」という言葉の奥に隠されている「人間がいるべき場所」なんて、嫉妬と洗脳と思い込みによって作られたまやかしだ。ぼくたちは自分の魂のいるべき場所を、自分自身で見極める権利と義務がある。その場所から魂が出て行くことを自分自身で「逃げる」と表現しても許されるのかもしれないが、直感的な自分の居場所は自分自身にしかわからない以上、他人が他人を裁いて「あの人は逃げている」と噂することは決して許されない。ぼくたちのいるべき場所は、それぞれの魂によって全く異なるからだ。あなたが自分の魂は山にいるべきだと直感するからと言って、全ての魂は山にいるべきだと思い込むのは傲慢であるし、あなたの居場所が山でも彼にとっての魂のいるべき場所は海であるかもしれない。

 

・エヴァ「逃げちゃダメだ」、かもめ食堂「やりたくないことはやらないだけ」

アニメエヴァンゲリオンの主人公、碇シンジの「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!」というのは有名な名言とされている。彼しかエヴァンゲリオンに乗れる人はいないので、使徒を倒し世界を救うためにどんなに怖くてもエヴァンゲリオンに乗った彼の責任感と義務感と勇気は称賛に値するが、その結果として彼は最終的にことごとく精神崩壊を引き起こし、最後の最後には自分が自分ですらなくなっていく。果たして逃げなかったことは、彼にとって最も幸福な選択となったのだろうか。

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映画かもめ食堂の主人公、さちえさんの言葉でぼくが最も印象深かったセリフは「いいわね、やりたいことをやっていらして」という会話に対する返答で、「やりたくないことはやらないだけなんです」という言葉だ。やりたくないことはやらないだけ…そんなことは当たり前じゃないかと思えてしまうけれど、いざ人生を生きているとこれがどれほど難しいことか実感してしまう人も多いことだろう。誰もが生活やしがらみや人の目を気にして、やりたくないことまでやって人生の大切な時間を浪費してしまうのが人の世の風景だ。「やりたくないことはやらないだけなんです」というのは、とても簡単な言葉に聞こえて、実はこの世で最も難しいことなのかもしれない。

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・全ての人間にとって「いるべき場所」「やるべきこと」なんて本来はどこにもない

ぼくたちは誰しも、やりたくないことから逃げてはいけないという思い込みに縛られすぎではないだろうか。本当は誰だってかもめ食堂の映画のように「やりたくないことはやらないだけなんです」と言い切って生きてみたい。けれど生活のためにお金を稼がなければならない、他人との人間関係やしがらみから抜け出せない、本当は自分はここにいるべきじゃないとわかっているのに他人の目が気になって留まってしまうなど、様々な理由からやりたくないことをやってせっかく与えられた人生の大切な時間を「早く時間が過ぎればいいのに…」と感じながら自分自身の心を騙しつつ有耶無耶に過ごしてしまう。

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しかし全ての人間にとっているべき場所、やるべきことなんて本来はどこにもないのだ。それは自分自身の魂が直感で感じ取ることであって、他人の目や思い込みなんて介入する余地のない次元の話だ。それぞれの魂にとっているべき場所、やるべきことは決められており、それはすなわちそれぞれの魂にとっているべきではない場所、やるべきではないこともそれぞれに決まっていることをも意味する。そしてそれは、自分自身にしか感受できない問題だ。

だから本来は「逃げる」という行為すらこの世には存在しない。自分らしく生きられる健全な魂の状態を維持するために、誰もが自分のいるべき場所を求めて、いるべきではない場所から旅立つだけのことだ。いるべきではない場所から旅立った魂の姿を見て、他人が激しい思い込みの意見で「いるべき場所から逃げた」のだと裁くことは思い上がりの甚だしい傲慢な態度だ。それぞれの魂にはいるべき場所といるべきではない場所があり、それはその人自身の直感にしかわからないのだから、魂の旅立ちはその人自身だけの神聖な問題であり、そこに他人が自分の思い込みや嫉妬や社会の常識という名の洗脳を介入させてもいい余地など全くない。

 

 

・ぼくたちを支配する「いるべき場所」「やるべきこと」の正体

ぼくたちは他人から「いるべき場所」「やるべきこと」をむやみやたらと押し付けられて、他人によって心を消耗させられてしまう。しかしそれは他人や社会がぼくたちを都合よく支配し、コントロールしてやろうとする手段に過ぎない。他人や人間集団や権力者に都合のいいように個人の「いるべき場所」「やるべきこと」を勝手に設定し、魂がいるべきではない場所からいるべき場所へと飛翔する個人の幸福を根こそぎ奪い去っては、いるべきではない場所に魂と肉体を縛り付け、本来は自分自身のために使うための大切な人生の時間と労働力と心を、他人や人間集団や権力者へと還元するように彼らは無理矢理仕向けてくる。

その支配システムによって勝手に作られた「いるべき場所」「やるべきこと」から勝手に抜け出すことを、人間たちは「逃げる」と呼称し、蔑み、見下し、非難しようと企む。そして蔑まれ、見下され、非難されたくない民衆たちは、安定したおとなしい生活を平穏に営むために「逃げる」ことを回避する。しかし心の底では本当は逃げ出すことが自分の魂にとって正しいとわかっているものだから、勇気を持って逃げ出した者たちをズルいと妬み、恨み、誹り、自分も我慢しているのだから誰もが我慢すべきだとさも正しそうに声高に主張する。しかしそれもこれも実際のところ、自分に逃げ出す勇気がない奴らの嫉妬というくだらない理由である。

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・いるべき場所へと帰る「神聖な魂の旅立ち」は、決して逃げとはならない

ぼくたちはもっと正直に逃げ出すべきだ。自分の魂がここにいるべきではない、ここに留まるべきではない、これをやるべきではないと確かに直感するならば、他人の目など気にせずに、世の中のことなどふり返らずに、空気など一切読まずに、自分自身の神聖な思いだけを頼りとして、いるべき場所へと魂を飛翔させるべきだ。

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そしてたとえそれが「逃げる」と世の中で呼ばれようとも、世の中を抜け出したその魂はそれを決して自分自身では「逃げる」とは呼ばないだろう。本来いるべきではない場所から本来いるべき場所へと旅立つことは、神聖な飛翔であり、魂が故郷や使命へと帰り着く神聖な行為であり、それは「逃げる」などという否定的な悪意を込められた言葉で塗り固められるような事象では決してない。それは「神聖な旅立ち」であり、「真理への帰還」であり、「揺るぎない飛翔」であり、浮世の穢れを祓い落とす「魂の浄化」だ。それを「逃げる」などという浅薄な悪意に満ちた表現で言い表せるはずがない。

ぼくたちはあまりに言葉によって心を縛り付けられ過ぎている。「逃げる」ことは悪だと洗脳され過ぎている。魂の直感に従って、いるべきではない場所からいるべき場所へと飛翔すれば、その行為はもはや「逃げる」という言葉には決してならない。そしてその感覚を、飛翔した者だけが知っている。

 

 

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・中島みゆき「国捨て」

空ゆく数多の翼には
憧れ抱かせる光がある
この世の全ての翼には
ただひとつだけの使命がある

ただの裏切りと歴史は示すだろう
国を捨てながら逃げた臆病者

私の願いは空を飛び
人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び
幸せにする翼だった

 

 

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