見下すという行為自体が、その人の程度の低さを表している。
能力や地位や順位が低いからといってその人を見下していいというのは本当か?
・とてつもなく奇妙で怪しい傲慢な敬語と尊敬のシステム
・1つ数字が違うだけで人は偉くなったり見下されたりする
・学年トップであれば学年全ての人を見下してもいいのか
・人間のあらゆる面を総合すれば人間は皆等しく立派である
目次
・とてつもなく奇妙で怪しい傲慢な敬語と尊敬のシステム
ぼくはこの国の敬語という制度がかなり怪しくて大嫌いだ。何だか人間を、自分の意見を持たない、上からの命令をきちんと聞く、逆らわず大人しい従順な部品へと変貌させるために植え付けられた言葉の奴隷制度のように感じられてならないのだ。
ぼくは敬語を使用するのもその怪しい制度に否応なしに巻き込まれた感じがして嫌いだが(もちろん人間社会で抹消されないために使うことは使うが)、相手に使われるのも大嫌いだ。大抵先輩と後輩の関係があると日本社会では自動的に敬語は使用されるが、例えば自分が先輩だとして相手の後輩が自分を敬うということを表現する敬語を用いているのに、こちらからは敬語を使わなくていいという感覚が理解できないのだ。
相手から敬意を払われたのであれば、こちらからも敬意を返すべきではないだろうか。相手から敬意を払われたらこちらの方が偉いのだと開き直ってふんぞり返って、こちらだけ敬語を使わないなんてなんと傲慢な性格だろうか!しかし日本社会では先輩から後輩に敬語なんか使っていると奇妙だととらえられるから、ぼくも仕方なく“傲慢な“先輩のような言葉遣いで対応して敬語を使わずにいる。
しかし自分が先輩だからといって、本当の後輩に相手を見下したように敬語を使わなくてもいいのだろうか。
・1つ数字が違うだけで人は偉くなったり見下されたりする
大体先輩とか後輩だとかいう仕組み自体が奇妙で仕方がない。どうして年が1つ上だったり、学年が1つ上だったり、勤務年数が1年上だったりするだけで、自動的に敬語を使われるべき目上だと見なさなければならないのだろうか。人間の価値をそのような年の数字で決めているところを見る限り、民族と社会の思考停止がはっきりとうかがえる。人間の価値というものはそのような数字に依存するものでは決してないだろう。
数字が1つ下なだけで突如としてその人を見下したりできるという文化は、傲慢な欠陥であるとぼくは感じる。数字が1つ下であるということがその人の人間的価値を下げることには決してならないし、そのような画一的な数字で人間というものをとらえようとする仕組みがそもそもの間違いなのだ。数字が1つ下であっても、その人が自分よりも優れている点は山のようにあるはずだ。
・学年トップであれば学年全ての人を見下してもいいのか
このように人間は数字とか順位に支配されて驕り高ぶったり卑屈になっていく。例えば学校という場所は主に勉強をするところだ。だから勉強できる人、順位が高い人が最も偉いということになる。それでは勉強の順位が最も高い人は王様のようにあらゆる人間を心の中で密かに見下すことは可能なのだろうか。
ぼくは中学高校とずっと学年1位だったが、そのような考え方はおかしいと見抜いていた。なぜなら自分は勉強が得意でその点では学年の誰よりも優れていることは明白であっても、別に人間というものは勉強という面だけで決まるわけではないからだ。人間というのは頭がいいとか、足が速いとか、力持ちだとか、ゲームに詳しいとか、歴史に詳しいとか、サーフィンがうまいとか、運転が得意とか、イケメンだとか、美しいとか、人を楽しませられるとか、人を癒せるとか、もっと様々な無限の面があって初めて成り立つ多面体だ。だから勉強という面では最も優れていたとしても、それは単なる人間の一面であり、他に自分が勝てないことが他人にたくさん潜んでいることにきちんと気がついていたのだ。
自分より順位が下であっても、自分よりある歴史的人物のことについてものすごく詳しく知っていたりとか、ある一つの地域についてものすごく造詣が深かったりだとか、ポケモンのことをめちゃくちゃ知っていたりとか、ガンダムにとてつもなく詳しかったりだとか、そういう例はいくらも出てくるので、順位という数字に精神を支配されることは最初から間違いなのだ。
・人間のあらゆる面を総合すれば人間は皆等しく立派である
しかし大抵の思考しない人間は数字ばかりを気にして数字を信仰しながら、この人は自分より上だとか、こいつは自分より下だとか次々に裁いていく。そして自分より数字が下だったり、自分よりある物事の能力が低かったり、自分より社会的に地位の低い人を見下して、ぞんざいに扱ったり、その一面だけの強さをふりかざして低き者をうちのめしたりする。
けれどはっきりと言ってしまえばそのような種類の人間はレベルが低いので心に留めておくだけの価値もないだろう。真実はこの世には上も下もないのだ。少し考えればわかるこの事実に気づかずに、社会の常識だけに従って数字を用いて人を見下すことを覚え、ふんぞり返って傲慢になっているような人に構っていられれるほど人生は暇ではない。
あるひとつの物事の能力が相手より長けていたところで、相手の方が高い能力を持っている分野は当然のように無数にあるのだ。ひとつの社会的地位がその人より優れていたところで、それ以外ではその人より劣っている部分であふれているのだから、人間に上下などないのが事実である。あらゆる人とあらゆる事項に関してそのことが言えるわけだから、この世には自分より上の人もいなければ自分より下の人もおらず、人間は誰もが等しいと言える。
そのようなちょっと考えればすぐにわかる事実さえわからずに、世の中で言われるているしきたりや常識だからと思考することなしに数字や地位や儒教の比較システムを信じ込んで、他人を見下してばかりいる人生は相対性の津波に愚かしく飲み込まれて絶対的な幸福を手に入れることは決してできないだろう。この文章の中でも「他人を見下している人間は人としてのレベルが低い」と見下しているような文章を書いてしまったが、彼にも容易く他人を見下す性格という短所がある一方で、そろばんが得意とか、走るのが速いとか、モノマネが上手とかよくわからないがとにかくたくさんの他の優れた長所があるはずなので、彼の人格全てを否定できるはずはないのだった。