和歌山県民は「ざじずぜぞ」が言えない!!!!!
紀州弁の不思議!和歌山県民は「ざじずぜぞ」が言えないというのは本当か?
・和歌山県民は「ざじずぜぞ」が言えないというのは本当か?
・和歌山県民は「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまう不思議
・和歌山県民は全員が「ざじずぜぞ」を言えないわけではない
・消えゆく方言の運命
・絶景多すぎ!和歌山県の旅の記事
目次
・和歌山県民は「ざじずぜぞ」が言えないというのは本当か?
和歌山県民はザ行、すなわち「ざ」「じ」「ず」「ぜ」「ぞ」を言えないという事実が、マツコデラックスの「月曜から夜更かし」というテレビ番組で紹介されたらしい。ぼくはそんな番組見たことないのでよく知らないが、ついに和歌山県民の言葉の秘密が全国に暴露されたのかと思うと複雑ながらも笑える心境である。
しかし和歌山県民以外の人からすれば「ざじずぜぞ」が言えないなんて意味不明だろう。じゃあ和歌山県民はザ行のつく言葉を喋ることができないのだろうか。「れいぞうこ」とか「ぞうきん」とか一切言えないのだろうか。そんなんじゃ日本語自体喋れないではないか!
そうではない。なんと和歌山県民は「ざじずぜぞ」と発音するとき、なぜか「だぢづでど」になってしまうのだ!
・和歌山県民は「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまう不思議
これは和歌山県民のうちのお父さんがそうなのだが、いつもいつも「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまう謎の現象がナチュラルに発生してしまうので、会話を聞いていて面白い。例えば「れいぞうこ」のことは「れいどうこ」と言うし、「ぞうきん」のことは「どうきん」と言うし、「ぜんぜん」は「でんでん」と言うし、「ぞうさん」のことは「どうさん」になってしまうのだ!
これを昔ならば「お父さん!れいどうこじゃなくてれいぞうこやで!」といちいちつっこんでいたが、「和歌山弁ではだぢづでどになってしまうねん!」という謎の理屈を返され、指摘しても全然なおらないのでもはや家族内で誰もつっこむ人はいなくなってしまった。
確かに「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまうのが和歌山県民の言葉の習性ならば仕方のないことだろう。周囲を見ていても特に年配の人は「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまう傾向があり、何となく癒される方言である。
なぜ「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまうのかと彼らに聞いても、彼らにもよくわからないという。まさに身に染み付いている習性というべきものだろう。
・和歌山県民は全員が「ざじずぜぞ」を言えないわけではない
それでは和歌山県民がすべて「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまうかというと、決してそんなことはないと思う。和歌山県の若者はほとんどが「ざじずぜぞ」を「ざじずぜぞ」ときちんと発音するだろう。
また年配の人でも、お父さんは「ざじずぜぞ」を言えないが、同い年くらいのお母さんは「ざじずぜぞ」を普通に言えるので、育ってきた環境によるのかもしれない。お父さんもお母さんも同じ市内出身なので地理的な差はなく、おそらく家庭環境で異なってくるのだろうか。
和歌山県というのは山深く交通の便も悪いので地域差も大きいように感じられるが、やはり他の都道府県に接している北の方よりも、南の方が独特な方言が色濃く残っているようだ。またどこの地域でも言えることだが年配の人の方が、若者よりも濃厚な方言を話す傾向にあるだろう。
・消えゆく方言の運命
「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」に変わってしまう方言を聞いていると、和歌山にいるんだと実感できてとても癒される。しかしぼくの知る限りでは和歌山県の若者は全員「ざじずぜぞ」をきちんと「ざじずぜぞ」と発音するので、やがて「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になる方言文化もなくなってしまうのかもしれない。
テレビやインターネットなどの強力な影響を受けて日本各地の方言が「標準語」へと統一化され、地域特有の言語である貴重な方言が消滅してしまうのはさみしいことだが仕方のない運命なのかもしれない。方言とは、これまでのその地域の文化や思いが詰まっている重要な財産ではないだろうか。
「標準語」と名付けられているから偉大に聞こえるがそれも単なる関東の一方言なので、標準語という名前や巨大な支配力に惑わされずに、たかが一方言なのだから標準語を含めあらゆる日本の方言は平等であるという認識を持ち、日本各地の人々が自らの方言に誇りを持つことによって、方言は保存され守られてゆくのかもしれない。
しかし和歌山県民の若者であるぼくも「ざじずぜぞ」を「だぢづでど」と発音できる気が全くしないので、このようにして方言は消えて行くんだなぁと実感する限りである。
・絶景多すぎ!和歌山県の旅の記事