人間はすべてのものを「差」から認識する。
「差別反対!」という呪文は民衆を分裂させていく!差別をしてはいけないというのは本当か?
・すべてのものは「差」から生じる
・人間が差別化するのは避けられない宿命
・差別のなくならない人の世で、お互いに差別し合いながら丁度よい均衡点を見出せ
・中島みゆき自身が名曲「糸」について語ったこと
・「平等」か「差別」かと問われ、人間は本能で「平等」を選び取らない
・「差別反対!」という言葉は社会を分裂させていく
目次
・すべてのものは「差」から生じる
すべてのものは「差」から生じる。人間は世界のあらゆるものを「差」によって認識している。例えばここにリンゴがあるのだとわかるのは、「丸くて赤い物質」と「丸くて赤い物質ではないその他の空間」に明らかな差を感じるからこそ、ぼくたちは丸くて赤い物質を認識し、それをリンゴだと名付けるのだ。例えばそれがみかんでもバナナでもテレビでもお猿でも孔雀でも月でも太陽でも、ぼくたちはあらゆる物質を「差」を利用して認識する。
これは物質ではなく概念の場合も同じで、例えば「私」という感覚を認識するとき、「私」では決してないところの「あなた」という人格を発見し、「私」と「あなた」の間に明らかな「差」を感じるからこそ、ぼくたちは「私」とか「あなた」とかいう概念を出現させることができるのだ。
また人間社会を生きていても、あらゆる物事は「差」によって位置付けられ、認識される。例えば学校の成績などは、定期テストの点数の合計を数えられその「差」を見出すことにより学生たちに順位をつけ、人間たちを相対的に比較し、判断している。このようにしてこの世でたったひとりのかけがえないぼくたちの命は、お互いの「差」によって勝手に相対化され、勝ったとか負けたとか優れているとか愚鈍だとかいう競争に巻き込まれ、本来の価値を失っていく。
・人間が差別化するのは避けられない宿命
人間にとってのすべての認識が「差」によって引き起こされるというならば、ぼくたちが心の中で「差別化」を図ることは必然な流れだということができる。ぼくたちが人間として様々な認識を持ちながら生きていく以上、「差別化」することは避けられない宿命である。
「差別」という言葉はとても怪しい。それは「差別」というだけですぐに「悪」だと決めつけられてしまう前提が人間社会にはあるからだ。「セクハラ」や「パワハラ」と同じように、その言葉が出て来ただけですぐさま「悪」だと即決できるような言葉がこの世にはいくつも存在している。しかしそれは自分で考えることを許されない思考停止の言葉であり、そのような「悪」の言葉を乱用するような人間や世界たちには注意しなければならない。そしてそれらの「悪」の言葉が本当に洗脳されている通りの「悪」であるのか、自分自身で0から思考し確認する機会を持たなけれなならない。この記事はまさにそのひとつの「差別」についての機会だ。
話を戻すと人間として生きていく以上、様々な物事を「差別化」するのは避けられない宿命だ。それなのにその宿命としての「差別」が人間社会の中では即決で「悪」だと見なされているなんて、どう考えても思考停止のおかしな状態である。
・差別のなくならない人の世で、お互いに差別し合いながら丁度よい均衡点を見出せ
例えば身近な差別と言われているものに「男女差別」があるが、人間が「男」と「女」という2つの言葉を発明し使用している以上、差別しているのは当たり前ではないだろうか。「男」と「女」には明らかに「差」があるからこそ、「男」と「女」の言葉が生まれてきたのだ。
「男女差別はいけない」という言葉には「女が男を差別してはいけない」という意味合いは薄く、「男が女を差別してはいけない」という強い主張だけが濃厚に漂ってくる場合が多い。しかし「男」と「女」という2種類の異なった生き物が共存する人の世で、本当に女性だけが男性から差別されていて、男性は女性に差別されていないのだろうか。
ぼくが人間社会を観察するに、男性も大いに差別を受けていると感じる。例えば温泉に入っていると女性の従業員が堂々と男湯に入ってくるという場面に遭遇する。温泉に入っている男性たちは自分の裸体を異性に見られて気まずく落ち着かない、もしくは不快な思いをしている人もいるだろう。これが男女逆なら大問題に発展するに違いない。しかし男性たちはこの落ち着かない差別化に文句も言わずに、耐え忍んでいる。おそらく何も言わないのはそんなことで「男女差別だ!」と騒ぐことは男らしいことではないという風潮があるからだ。しかしこの風潮もひとつの男性への差別かもしれない。
ぼくは映画館に滅多に行かないので最近知ってびっくりしたが、レディースデーがあるのにメンズデーというのがない映画館が非常に多い!こんな状況に映画好きの男性たちは怒らないのだろうか、とても不思議である。これが男女逆なら絶対に女性たちは怒り狂うだろう。このような明らかな男性に対する悪質な男女差別があるにもかかわらず男性が騒がないのは、やはり男性が「男女差別だ!」と騒ぐのはみっともないという都合のよい植え付けがあるからだろうか。ぼくは映画館において男性がこんなひどい仕打ちを受けているなんて知らなかったので驚いたが、「男女差別反対!」と正しそうに謳っている世の中がこんな状態を許しているのはもっと不思議だった。
沖縄の神の島、久高島には女性しか立ち入れない聖域が広大にあった。古来より琉球諸島の神事は女性によって任されていたからだ。その伝統的な文化が今も根付いていることにぼくは感心したが、もしもこれが男女逆だったらどうなっていたのだろうと考えてしまった。やはり差別だと怒る女性も出てくるのではないだろうか。和歌山県の高野山は長い歴史ずっと女人禁制を守ってきたが、明治時代に男女は平等だといって撤廃されたようだ。高野山の伝統的な女人禁制は撤廃されたのに、沖縄の女性だけの伝統は今でも残されているというのは、どのような理由があるのだろうか。
このように男性も大いに差別を受けており生きづらさを感じているが、ぼくは特にそれが問題だとは思わない。なぜなら「差」を認識し差別化することが人間の避けられない宿命だからだ。この差も文化だと受け入れれば、特に問題ないように思われる。「男」には「男」の特性があり、「女」には「女」の特性があり、そこに「差」を見出すことにより運命的に、男性は女性をどうしようもなく差別し、女性は男性をどうしようもなく差別し、そのようにしてお互い差別し合いながらもいい特性を出し合って協力して生きてきたのが人間の歴史ではないだろうか。
「差別反対!」という言葉の怪しいところは、差別をゼロにしようとしているところだ。しかし散々言っているように「差」を見出すことにより生きている人間に「差別」はなくならないし、ゼロにはならない。「差別」をゼロにすることで人間社会に平和をもたらそうとするなんて人間の本質を突いていない幻想である。重要なのはお互いが生じさせている差別化の概念をぶつけ合わせ、議論させ、衝突させ、徹底的に戦い合わせたその後で納得のいく地点で折り合いをつけ、どの程度の差別化をお互いに発現させるのかを見つけあい、その差別化は「差」を持つ人間の運命として、もしくは文化や情緒として受け入れ、その差別化の均衡の中で生きていくことだ。それこそが本当に分かり合えた状態、平和な状態ではないだろうか。
・中島みゆき自身が名曲「糸」について語ったこと
中島みゆきはあの有名曲「糸」についてインタビューで次のように語っている。
かたっぽだけじゃ、できることに限界があるっちゃねぇ、っていう歌だわね。男には男の特性が、女には女の特性があって、どっちが上とか、どっちが劣るとかいうことじゃなくてね、それぞれの特性のいちばんおいしいところを合わせて、はじめて物事ってうまくいくんじゃないかってつくづく思うんで。それは「EAST ASIA」から「糸」まで、アルバムの曲全部通して言ってることかな。
最近は、女が強いとか、やっと女が権力を得てきたとか、いろいろ言われているけれど、今まで女が下だったとか、そういうことじゃないんじゃないかと思うの。どこまでいっても違うもんは違う。違うからお互い触発されることもあるし、お互い必要なこともある。最終的に男と女がまったく同じものになったら理想的というんじゃないんじゃないかいお客さん、てのがあるよね。
・「平等」か「差別」かと問われ、人間は本能で「平等」を選び取らない
ぼくが最近学んだことは、人間には「本能で守ろうとする道徳」があるということだ。
「手当て」か「危害を加える」なら「手当て」を、「公正」と「欺瞞」なら「公正」を、「忠誠」と「裏切り」なら「忠誠」を、「権威」と「下克上」なら「権威」を、「清潔」と「不潔」なら「清潔」を、「自由」と「押さえつけ」なら「自由」を、人間は”本能的に”選び取るようだ。
しかしこの本能の道徳から外れたものがある。それは「平等と差別」だ。「平等」か「差別」かと問われ、人間は本能で「平等」を選び取らないという。平等は本能に反していて、平等だとしっかりした統一的集団が作れないというのが理由らしい。この意見はぼくの「差」があるからこそ人間は全てを認識することができるので人間は当然「差別」を心からなくすことはできないだろうという意見と合致していて、なんとなく納得させられた。
・「差別反対!」という言葉は社会を分裂させていく
「差別反対!」という正しく聞こえる言葉のもうひとつの怪しさは、人間を分断させる点にある。みんながお互いに認め合いながら均衡のとれた差別化の中でたくましく生きている中へ「差別反対!」というまやかしの言葉を注ぎ込むことで、民衆の間に分断が生まれる。
「男女差別反対!」という言葉を注ぎ込めば、今まで均衡を保っていた男と女の間に亀裂が生じ、分断が始まる。男は女の敵だと洗脳され、女は男の敵だと思い込まされ、今まで息づいてきた「和」の精神に乱れが生じ、人間社会が混乱する。この世には数多くの「〇〇差別反対!」という言葉が存在するが、いずれも民衆を2分割させ、分裂させる効果を持っている。
「差別反対!」という言葉は、人間がお互い仲良くできる住みよい社会にするために提示されるとても正しいもののように感じられる。しかしこの「差別反対!」という言葉が投入されるごとにぼくたち民衆は2つに分断されていることを、一体どれほどの人が感じ取っているのだろうか。「差別反対!」という言葉が発生させるまやかしの正しさに飲み込まれてはいけない。「差別反対!」と主張することで、反対に、人間がお互い仲良くできる住みよい社会からはるか遠ざかってはいないだろうか。全く逆の効果を生じさせる怪しい主張なんて、信頼できるはずがない。
日本人はもともと伝統的な「和」の精神の中で、人間の営みとしてどうしようもなく発生する「差」や「差別化」の均衡を保ちながら、お互いにうまく折り合いをつけながら、安らかに平和を保って来られたのではないだろうか。そこにおかしな西洋的概念としての日本の風土に馴染まないまやかしの「差別」や「平等」という言葉がやってきて、民衆は飲み込まれ、分断され、本来持っていた「和」の精神を乱してはいないだろうか。
本来は分断されていないぼくたちの民族の精神的結束を打ち破り、分裂させ、その結果喜ぶ人々はどこにいるのだろう。ぼくたちはただ惑わされることなく心を落ち着かせ、真理を見抜き、おかしな精神的侵略を無視しよう。