男が女より強いというのは本当か? 〜ひろしはみさえにゲンコツしない〜

 

いつもひろしがみさえに殴られる。

男が女より強いというのは本当か? 〜ひろしはみさえにゲンコツしない〜

・ぼくはクレヨンしんちゃんが大好き
・大人の世界の欺瞞を破壊するしんちゃん
・ひろしはみさえに決して攻撃しない
・強き者、弱き者、あるいはそれを翻す者
・レア画像!ひろしがみさえにグリグリ攻撃

・ぼくはクレヨンしんちゃんが大好き

ぼくは小さい頃からクレヨンしんちゃんが大好きだ。クレヨンしんちゃんを喜んで見る幼いぼくを見て、お母さんはいい顔をしていなかったけれど、そんなことはどうでもいいと思いながら構わず見続けていた。

クレヨンしんちゃんのキャラクター設定も時代によってかなり移り変わっているように見えるが、ぼくが好きなのは妹のひまわりが生まれる前の、ゆっくりのんびり喋るおとぼけなしんちゃんだ。ひまわりが生まれてからというもの、お兄ちゃんになってしっかりしたキャラ設定にしなければならなかったからか何なのか、やたらしっかりしてハキハキ溌剌としたしんちゃんになってしまい、寂しさと残念さを感じる。

今は時代の流れもあり、ぞうさんやケツだけ星人やゲンコツもなくなってしまったと聞くが、本当なのだろうか。ぞうさんやケツだけ星人やゲンコツなしのクレヨンしんちゃんって、どんな感じで面白いのだろうか、想像もつかない。

 

 

・大人の世界の欺瞞を破壊するしんちゃん

ぼくが小さい頃などは、みさえがなりふり構わずにしんのすけやひろしにゲンコツやグリグリ攻撃をしまくっていた。それを見ていて子供に暴力をふるうなんてひどい!とは微塵も思わずにただ楽しく見ていられたのは、子供ながらに人間の本質の中に野性的な暴力の要素がたしかに潜んでいることを見抜いていたからだろう。

大人の世界というものはとにかく嘘くさい。生殖器があるのに生殖器なんてないようなフリをする。排泄をするのにその気配を感じさせないように努力する。人間とは暴力的な要素を含んでいるものなのに無理にそれを抑え込もうとする。欺瞞に満ち満ちた大人の世の呪いを解放し浄化させるように、クレヨンしんちゃんはぞうさんをし、ケツだけ星人をし、ゲンコツをし、大人たちの嘘を暴いていたのかもしれない。そんな心地よい正直さが、子供のぼくは好きだったのかもしれない。

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・ひろしはみさえに決して攻撃しない

ぼくが小さい頃気になったのは、みさえがひろしをコテンパンにやっつけるシーンはいくらでも出てくるのに、ひろしがみさえを殴ったり、傷つけたりするシーンはひとつも出てこないということだった。それはなんとも不思議な光景で、みさえとひろしが対等な関係にある夫婦なら、ひろしもみさえがひろしにするように、みさえをコテンパンにやっつけないのかと疑問に思ったのだ。

しかしそんなことは当たり前のことだと、少し大きくなれば気がつくものだ。みさえがひろしにするように、ひろしがみさえに“暴力”を働かせれば、ひろしが完全に酷いDV男に成り下がってしまうからだ。ひろしは男の風上にも置けない奴だと世の中から非難されることだろう。

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けれどこれは純粋に考えれば少しおかしな現象だ。もしも世の中で言われている通り“男女が平等”であるならば、みさえがひろしに暴力をふるうのがゆるされる風潮があるように、ひろしがみさえに暴力してもゆるされるべきだと考えられるからだ。しかしここには偽物の“男女平等”というまやかしには収めることのできない、野性的直感的な人間の男女観があらわになっている。

皆さんご存じの通り、ひろしは男で、みさえは女だ。ただそれだけのことなのに、人間は無意識にこうレッテルを貼りたがる。男=強いもので、女=弱いものだと。そして、弱いものが強いものに果敢に暴力をふるうのは潔くてゆるされるが、強いものが弱いものに暴力を振るうと「弱いものいじめ」として「最低の行為」に分類される。この不思議な観念がひろしとみさえの関係性にも表れている。

 

 

・強き者、弱き者、あるいはそれを翻す者

しかしそもそも、男=強いもので女=弱いものだというのが、ものすごい思い込みではないだろうか。たしかに生物学的に考えて、男の方が筋肉がつきやすく、女の方が筋肉がつきにくい傾向にあるが、それだけで男女の強弱が決まるものだろうか。そういう傾向があるというだけで、筋肉がつきにくい男も、筋肉モリモリの女もこの世には存在しているのではないか。

しかも筋肉が多いから強いというのも、ものすごい偏見ではないだろうか。人間は肉体だけで生きている生物では決してないだろう。肉体だけ強い傾向があっても、精神が弱いのであれば、それは男が強いと言えるのだろうか。筋肉の量と精神の強さは、筋肉の量と肉体の強さに比べれば、無関係さがより多いと言えるだろう。筋肉がつきやすい傾向があるからと言って、肉体も精神も含めたその存在すべてが強いものであると、世の中に勝手に決めつけられた男が気の毒である。

しかしグダグダ言っても始まらない。男=強くて、女=弱いというのはもはや人界に定着した事実なのだ。それに従って人の世をうまく渡っていかなければ、足元をすくわれて大変な目に遭うだろう。みさえとひろしの例のように、弱いものが強いものに攻撃するのはゆるされるが、強いものが弱いものを攻撃するのは決してゆるされないのが世の中だ。これは人間の世の中のあらゆる事項においておおよそ共通している法則だと言えるだろう。強者が弱者を攻撃した時、そこには世の中の非難が集中して強者に浴びせかけられることだろう。

逆に言えば、それを逆手にとって弱者が得をしようと企むこともある。差別だ、虐待だと言って、自分が有利な立場になるように仕向けたり、損害賠償を命じることで金を得ようとすることもあるだろう。人がありもしない強者と弱者の絶対的な価値観を無理に作り出してしまったがために、そこに人間の業の深い欲望が絡まり付き、世の中は複雑に混乱をきたしている。弱者は小賢しく翻り、たやすく強者になれるのだ。その原理を見落としては、浮世の絡まる糸を理解することは難しいだろう。

 

 

・レア画像!ひろしがみさえにグリグリ攻撃

ここまで言っておいてなんだが、ぼくは一度だけひろしがみさえにグリグリ攻撃をする場面を目撃した。そのレア画像はこちら!

何事にも例外はあるようだ。しかしぼくが見つけられたこのレアな場面はこれ1回切りで、みさえがひろしにグリグリする回数よりもはるかに少ないことから、やはりここには男女と強弱の不均衡が生じていることは免れない事実だろう。

 

 

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