自分を抑制し、我慢できるような“正しい”人間は、我慢しない人間を恨みがちになる。
自粛警察の心理を徹底考察!我慢したり自己制御している人は、正義感が強い善良な人間であるというのは本当か?
・ぼくたちは野生的な食欲を自己制御しながら社会秩序を形成し生きている
・ぼくたちは野生的な性欲を自己制御しながら社会秩序を形成し生きている
・青森県津軽半島の野湯の風景
・ルールを守ることは正しくて、ルールを破る人は悪人であるというのは本当か?
・我慢したり自己制御している人は、正義感が強い善良な人間であるというのは本当か?
・本当は消極的な理由で我慢したり自己制御しているから他人を憎みがちになってしまう人々
・中島みゆき「Nobody Is Right」
目次
・ぼくたちは野生的な食欲を自己制御しながら社会秩序を形成し生きている
ぼくたちは様々な欲望や願いを持ちながら生きている。しかし、自分の中にある欲望や願いを思いのままにすべて叶えながら生きていたのでは、人間社会の秩序が乱れてしまう可能性がある。
例えば目の前の見知らぬ人が美味しそうなソフトクリームを食べており、そのソフトクリームがあまりにも美味しそうだから自分も食べたいという食欲に自分自身が支配されたとする。けれどだからといって獲物を横取りする野生動物のように、いきなり目の前の人のソフトクリームをバッと奪い取ってペロペロと舐め始めたのでは、それを見ている人々は誰もが驚愕してしまうに違いない。
まずソフトクリームを食べていた人は自分のソフトクリームがいきなり奪われたことにショックを受けるし、ソフトクリームを奪われた悲しみよりも何よりも、急にソフトクリームを奪い去るような常識から逸脱したかなり危険な人物がそばにいることに大きな恐怖を抱き、そのままその場所を逃げ去るに違いない。そしてソフトクリームを奪った自分自身は必ず警察に通報され、泥棒か何かの罪で逮捕されてしまうだろう。
いくら目の前のソフトクリームが美味しそうだからといって、食欲の赴くまま動物のように本能だけで行動を起こし、見知らぬ他人のソフトクリームなんか奪い取って食べてはいけないというのが人間の常識的な当たり前の考え方だ。
通常ぼくたち人間はこのような場合どうするだろうか。どんなに目の前のソフトクリームが美味しそうで今すぐ食べたくても、それは見知らぬ他人の所有物なのだからそれを奪い去って自分が食べることは決していけないことだと、理性が働き、自分自身を制御し、我慢することが可能だろう。その場では自分自身を制御し、沸き起こる食欲を我慢し、結局はソフトクリームを食べることを諦めるか、どうしてもソフトクリームのことが忘れられないとしたならば後から自分のお金を使ってお店でソフトクリームを頼んで食べるという結末も考えられる。
いずれにしても自分の本能の赴くままに、他人の食べ物を無断で奪い去って動物のようにムシャムシャ食べることは許されないのだ。それは犯罪だし、常識から逸脱した無法者の行為であり、人間社会の秩序を乱すことにつながる。
・ぼくたちは野生的な性欲を自己制御しながら社会秩序を形成し生きている
例えば結婚している男性が、街中でものすごい美人とすれ違ったとする。その男性はぜひその美人と性行為をしたいという燃えるような欲望を心の中に募らせるが、しかしまさか本能的な欲望や願いの赴くままに、動物のように街中でその美人に襲いかかるわけにはいくまい。街中の人前で性行為をしてはいけないというのは人間社会の中では常識中の常識であるし、結婚しているのに他の女性を性行為をしてはいけないというのも現代の日本では常識中の常識だ。そんなことはクレヨンしんちゃんの野原しんのすけだってご存知だろう。
誰かと結婚したって美人な女性と仲良くなりたいと強く願ってしまうのは動物である男性の正常な欲望だろうと思われるが、だからといって自分の中に沸き起こる性欲のままに行動してしまったのでは、結婚している妻や子供を傷つけたり、世間の信頼を失ったり、はたまた不倫相手も傷つけたりして平和な人間社会の秩序を自分の性欲が原因で乱してしまうことになるので、普通ならば自分自身の欲望を制御し、美人と性行為をしたいという強く衝動的欲求を我慢し、大人しく結婚相手のいる家へと帰っていくことになるだろう。
しかしこの欲求の場合はそう単純ではなく、どんなに社会の秩序を乱してでも、どうしても自らの性欲を満たしたくて我慢できない動物的な男性がこの世に多くいるから、いつの世になってもニュースではそのような話題が頻繁に報じられる結果になっているようだ。思えば男性がなるべくたくさんの女性と性行為したいと願うように本能を植えつけられた生き物だとしたら、一人を選ぶ結婚という制度は男性には合わないのかもしれない。それは男性が悪いというわけではなく、そういうシステムが生まれる前から植え付けられているという定めや運命の問題かもしれない。
・青森県津軽半島の野湯の風景
上記のようなあまりに極端で人間として当たり前すぎる根源的な例ではなくとも、この世には細かくてうるさいねんと思ってしまうほどにどうでもいいルールが数多く存在する。どうでもいいが故にルールを守る人もいれば守らない人もおり、そのせいで人間界ではいざこざも絶えないようだ。
例えばぼくは日本海沿いを北上する旅+太平洋沿いを南下する旅の中で、様々な素晴らしい野生の温泉に出会った。野生の温泉は通称「野湯(のゆ)」と呼ばれているらしく、基本的には無料で、山の中や村はずれのような辺境にポツンと存在する冒険心をくすぐられるロマンある温泉だ。本当に野生的にただお湯が湧き出ている場合もあるが、多くの場合は地元の人々によってきちんと清掃管理されている。地元の人に加えてよそ者の観光客など、様々な人々によって気軽に無料で利用される野湯であるから、自然と独自のルールも増えてくるのかもしれない。
例えば青森県の津軽半島の無料の野湯では「石鹸やシャンプーなどを使用してはいけない」とルールが明記されていた。お湯は直接自然の川へと流れていくので環境汚染しないようにするのが目的だろう。しかしぼくが訪れた他の多くの野湯では自然の川に流れていくが石鹸シャンプー使用可能な場所がほとんどだったので、本当にこんなルール必要なのか、本当に人間が体を洗うためのちょっとした石鹸が環境の汚染につながるものなのだろうかと疑問に思ったが、よそ者が利用させていただく身分なのでもちろん文句は言うまい。
面白かったのは、地元のおじさんたちがそのルールを無視して自由の石鹸やシャンプーを使っていたことだった。おじさんが言うには昔からこの温泉は市民の憩いの場としてあり、最近市で管理されるようになってから勝手に「石鹸やシャンプーなどを使用してはいけない」というルールを押し付けられたが、昔ながらの人々はみんな石鹸やシャンプーを自由に使っていたのだということだった。なるほど確かに昔ながらの習慣を勝手に中止するように命じられても簡単には従えないものかもしれない。老人にもなるとなかなか思考が頑固になることもあるから余計に今までの習慣をどうして変えなければならないのかと怒ってしまうもの無理はない。
正常で真面目な人間の考えでは、ルールはルールなんだから従うべきだ、石鹸やシャンプーを使用する地元の人々は悪者だと見なされるだろうが、ぼくは必ずしもそうは思わなかった。勝手に権力者から押し付けられたルールは、おとなしく素直に従うだけよりも、本当にその押し付けられたルールがふさわしいものなのかしっかりと実際の使用者が吟味し、その思考の結果としてふさわしくないと判断したならば態度で反抗を示すのもまた人間の世の中の当然の風景だと思われたからだ。ぼくは昔からシャンプー石鹸を使っているのだから、今でも禁止された後でもシャンプー石鹸を使っている地元の老人たちを見て、人の世とはこのようなものだろうと微笑ましく感じた。
しかしぼくとは正反対の意見を抱き怒っていたのは、その野湯のグーグルマップのレビューの人々だ。その野湯を訪れたよそ者の観光客の人々は、自分はきちんと石鹸やシャンプーを使用しないようにルールに従って我慢しているのに、地元の老人たちは平気で石鹸シャンプーを使っていて不満だったとわざわざ愚痴をグーグルマップのレビューに記載していたのだ。誰だって温泉では気持ちよく石鹸を使って体を洗いたいに決まっている。よそ者の観光客たちはきちんとルールに従い石鹸シャンプーを使いたいという自らの願いを抑制し、自己制御し、温泉に入ったのに体も洗えないで不快なまま出てきたというのに、地元の老人たちだけ石鹸シャンプーを平気で使っていてズルい、ルールを守れよということだった。
確かにルールを守ったグーグルマップの観光客の不満もよく理解できる。一般的に考えれば、ルールを守らない地元の老人たちは悪者で、ルールをきちんと守っている観光客たちが絶対的に正しいと言える。ルールを守っている人と、ルールを破っている人、どちらが正しく社会の秩序を保っている人ですかと問われたならば、誰もがルールを守っている人だと答えるだろう。正しいのはいつも、ルールを守っている人々だ。にも関わらずぼくの個人的な意見として、グーグルマップのレビューの正しい人々は心が狭いなぁと感じてしまった。
・ルールを守ることは正しくて、ルールを破る人は悪人であるというのは本当か?
まぁぼくの中では本当にどうでもいい出来事なのでその温泉に関してどちらが正しいとかには全く興味もないのだが、感性や好き嫌いの問題として、常にルールを守る”正しい”人というのはどうにも怪しい気がする。「石鹸やシャンプーなどを使用してはいけない」というルールのある温泉で地元の老人たちが石鹸シャンプーを使用しているのを見かけたならば、ルールを破って悪い奴らだ、自分は体を洗うのを我慢しているのにズルいと感じるだけでは、かなり想像力が欠如しているのではないだろうか。
そのような風景を見かけたならばもっと想像力の翼を広げて、昔からこの温泉はここに存在していて老人たちは昔からここで石鹸で体を洗っていた歴史があったのだけれど、最近になって権力者から「石鹸やシャンプーなどを使用してはいけない」という堅苦しいルールを無理矢理に押し付けられて当惑し、温泉で体を洗うという長年大切にしてきた習慣をやめるようにいきなり言われるなんてひどいと反抗して石鹸を使い続けているのかもしれないなぁとかなんとか、いくらでもその経緯を推測してみて、広々とした寛容な視点から老人たちを眺め、人の世の移り変わりや心模様に思いを馳せてみることも悪くないのではないだろうか。
ただ単にルールを守るから自分は正しい、ルールを破っている老人たちは悪人だと冷酷に裁き決めつけられているだけでは、その人生や心には豊かな情緒が生まれないのではないだろうか。そしてぼくが最も心配していることは、自己制御や我慢ができてルールをきちんと守る人はこの世では”正しい人”のはずなのに、その”正しい人”の方が、他者を恨んだり、憎んだり、妬んだり、攻撃したり、謗ったりする傾向にあるのではないかということだ。
自己制御や我慢ができる”正しい人”というのは、自分が正しさや常識という鎧に守られているから強気になり、正しくない人、我慢しない人、自己制御しない人をどこまでも追い詰め、攻撃することが可能だ。しかし自分が”正しい”の領域に入っているからといって、”正しくない”と呼ばれている人々を必要以上に恨んだり、憎んだり、妬んだり、攻撃したり、謗ったりするようでは、本当にそれは人として正しいと言えるのだろうか。正しいか正しくないかというのは、自己制御してルールをきちんと守っているかどうかという単純な一点では決めることができないのではないだろうか。いくら自己制御して、欲望や願いを我慢して、ルールを守って”正しく”生きていても、その結果として他者を恨んだり、憎んだり、妬んだり、攻撃したり、謗ったりする人生が訪れるのだとしたならば、それはまさに正しくない生き方ではないだろうか。
・我慢したり自己制御している人は正義感が強い善良な人間であるというのは本当か?
自分の欲望や願いを制御して、我慢して生きている人々は、自分の欲望や願いに忠実に生きている人々をズルいと妬みがちだ。本当は自分だってそれをやりたいのに自己制御して、我慢して生きているのだから、思いのままにそれを我慢しないでやっている人を見て妬ましく感じることは、人として当然の心模様だと言えよう。
厄介なのは我慢している人々は、正しさや常識を元にして自分は我慢しているのだと思い込んでしまうことだ。ルールを破ることは常識的に考えて悪いことだから我慢する、新型コロナの感染を広げることは絶対に悪いことだからGo To トラベルやGo To イートを自制する、社会の秩序を維持することは正しいことだから自己を制御する…自分が我慢や自己制御しているのは、正義や常識を重んじる人としてふさわしい性格だからだと自負する。確かにそれも一理あるだろうが、本当にそれだけなのだろうか。我慢している人が我慢しているのは、本当に正義感が強いからだけなのだろうか。
本当に芯の通った揺るぎない正義感を持って我慢したり自己制御できている人は、あまり他人のことを気にして恨んだり、憎んだり、妬んだり、攻撃したり、謗ったりしないのではないだろうか。正義感が強いというよりはむしろ、気が小さくて、小心者で、人からどう思われるのかどうかが怖くて、罰を受けたくなくて、なるべく周囲に悪い噂を立てられたくないという消極的で気弱な理由で、他人を気にして本当はやりたい願いや欲望を思い通りに叶えることを躊躇して自己制御してしまっているから、それによるストレスで他人に攻撃的になってしまうのではないだろうか。
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どんなに消極的で気弱な理由であろうと実際に自分の行動は「我慢している」「自己制御できている」状態ではあるので、それならばいっそ正しい行いをしたい、常識をきちんと重んじたいという風に自己制御の理由をすり替えて世間と自分を欺いた方が、”小心者な人間”から”立派な人間”へと自分自身を転換させることができるので、正義感が強い人間であるかのように取り繕って見せかけているだけではないだろうか。それで正しさや常識という鎧に守られて最強の自分になったつもりでいるけれど、実際のところは本当は我慢なんかしたくないのに他人の目を気にして、悪口を言われることが怖くて、度胸がなくて我慢せざるを得ない小心者なだけだから心の中にストレスが溜まり、”正しくない”人々に向かって悪意を放出するのではないだろうか。
・本当は消極的な理由で我慢したり自己制御しているから他人を憎みがちになってしまう人々
ぼくが周囲を観察しているとこのような種類の”正しい”人間って、日本人には割と多いのではないかと感じられる。
日本人は規律正しく、我慢強く、自己制御して秩序を守れる人種であると世界でも言われているけれど、それは正義感や道徳心が強いというよりはむしろ、周囲からどう思われているかを異常なまでに気にするので、悪い噂を立てられたくない、周囲と違った人間になって傷ついたり疎外されたり罰を受けたりするのが怖くて恥ずかしいからという消極的な理由で、我慢したり自己制御したりするのではないだろうか。だからこそ芯の通った正義感や道徳があるわけではない消極的で小心者の自己制御なので、我慢していない一部の自由な人々のことが非常に気にかかり、他人を監視しがちになり、自分が我慢しているのに他人が我慢しないのは許せないと心が不寛容となり、恨んだり、憎んだり、妬んだり、攻撃したり、謗ったりしがちになってしまうのではないだろうか。
しかしそんな性質が功を奏して、互いが互いを気にして、他人が他人を監視して連鎖し、新型コロナウイルスの感性拡大はヨーロッパやアメリカに比べて極端に少なく抑えられているのかもしれない。
こんなことを書くと日本人の悪口を言うひどい人と思われるかもしれないが日本人としての自分自身の心も観察した上で書いていることだし、日本人として生まれ育ったので日本人の心しか深い部分がわからないから一応日本人のこととして書いているだけで、他の国に生まれ育ってその国の人々の心を観察してみても同じ結果となるということは大いにあり得る。しかし他国では宗教の教義が日常に満たされている場合も多いので、神様から与えられた芯の通った善悪の観念を抱きつつ人生を送るという可能性はあるのかもしれない。
・中島みゆき「Nobody Is Right」
もしも私がすべて正しくて とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべての者は 私以外は間違いばかり
もしもあなたがすべて正しくて とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべての者は あなた以外は間違いばかりつらいだろうねその1日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は 軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさが相入れないのは一体なぜなんだNobody Is Right
正しさは 道具じゃない