女人禁制がよくないことだというのは本当か? 〜高野山と大峰山とアトス山〜

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かつて高野山は女人禁制だった。

女人禁制がよくないことだというのは本当か? 〜高野山と大峰山とアトス山〜

・女人堂 〜高野山はかつて女人禁制だった〜
・女人禁制を維持し続ける神秘的な聖域
・男性だけの聖域、女性だけの聖域
・女性が男性の領域へ入ることは許されるがその逆は決して許されない
・血は穢れであるという迷信だけれど人間に通底している観念
・今でも女人禁制を守っているギリシャ正教のアトス山

・女人堂 〜高野山はかつて女人禁制だった〜

世界遺産である和歌山県の天空の仏教都市・高野山の入り口の前には「女人堂」というお寺が存在する。かつて高野山は女人禁制で女性はお参りしてはいけなかったので、女性は高野山の敷地外に設けられた「女人堂」までしか立ち入ることができなかったという歴史を持っている。

この女性が立入禁止とされる女人禁制の制度は、明治政府が明治5年(1872年)、太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によって、欧米列強と肩を並べようとしている近代国家にはあるまじき男女差別だとして禁止されたことをきっかけに解かれることとなった。

今では男性でも女性でも高野山に入ることが可能だ。今の時代しか生きていないぼくたちにとってはそれが当たり前のように見えるが、開山の816年以来ずっと女人禁制を守ってきた高野山にとっては、今という時代はむしろ1000年以上女性が立ち入らなかった地域を女性が堂々と練り歩いているという、いわば異様で不思議な時代とも言えるのかもしれない。(1000年もの長きにわたる伝統ととらえるか、たかが1000年ととらえるかで、見方も変わってきそうなものではあるが。)

 

 

・女人禁制を維持し続ける神秘的な聖域

高野山のようにかつて日本の多くの聖域は女人禁制であったものの、明治政府の禁止とともにそのほとんどが女人禁制を解いたようだ。富士山もそうだし、比叡山もそうだったらしい。

しかしそのような国家権力にさえ抗って、今もなお女人禁制の伝統を守り続けている地域もあるらしい。そのひとつが高野山にもやや近い、紀伊山脈の山岳修行・修験道の聖地である奈良県の大峰山だ。ここは今でも女性の立ち入りを禁止しているのだという。なんだかここまで伝統的なものを守り抜こうとする姿勢は、不思議な神聖さすら感じてしまう。男性として生まれてきたからには一度は登ってみたいと心から思う。

また琉球諸島は歴史上の信仰として女性が中心だったので、逆に男性が入ってはいけない聖域というものが存在する。聖域とは男だけのためにあるわけではなく、むしろ女性だけのための聖域も用意されているのだ。沖縄では今でも男性が入ってはいけない聖域が多くあり、もちろんぼくは入ることができないし入りたくもなく、一生そこに入ることもないのだろう。

 

・男性だけの聖域、女性だけの聖域

奈良県の大峰山に女性が入れないのはおかしい、女人禁制はおかしいと2005年に抗議するプロジェクトが起こったようだが、不発だったとされている。男女平等の観念から来るものだろうと予想されるが、ぼくからすればそんなことする人の気が知れない。女性は入らないでくださいと言われているその領域に、どうしてわざわざそんなに頑張って入りたいと願う人があるのだろうか。別にそこに入らなければ人生で困るということもなければ、そんなに信仰心が厚いわけでもないだろう(そもそも信仰心が厚ければ禁を破って入りたいと思わないのでは?)。人間はどこへだって入れるわけではなく、自分には人生で入れない場所もあるのだということを自覚し、そのような禁止が人生に不思議な彩りや情緒を与えてくれることを知るべきである。

たとえばぼくは琉球諸島の離島で「男性は立ち入り禁止」と書かれている女人だけの聖域を見つけると、そうか沖縄にはこのような伝統的文化が引き継がれているのだからこれを守らなければならないだろうと地元の人々の気持ちを考えて従うだろう。間違っても禁止されているのに敢えて入ってやろうなんて思いもよらないし、「男女差別だ!」と憤って反対する気持ちが起こることも全くない。女性だけと決められた空間にわざわざ禁を破って敢えて乗り込もうとするそんな男性は、デリカシーのない人ではないだろうか。

この世には男性だけの空間、女性だけの空間というものが多数存在する。トイレだってそうだし、更衣室だってそうだし、温泉だってだいたいそうだ。いずれもここは男性だけの領域、女性だけの領域と決められたものであり、そうやって性的に領域を区別することで社会生活は成り立っている。男性はもちろん女性の更衣室や温泉を覗いてみたいと心密かに思っているが、そのような欲望と衝動のままに行動されてしまっては社会が大いに乱れてしまうので、やはりある程度の男女の境界線は人間の世界において必要とされてきたのだろう。

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「女性しか入らないでください」という場所に男性が入らないのは通常であり、「男性しか入らないでください」という場所に女性が入らないのは当たり前の感覚だ。男性と女性にはそれぞれ理屈にはならない直感的な違いがあり、本能的な役割があり、異なった心や肉体があり、それはどのように理念や思想で平等を表現しようとも、どうしても同じ人間なのに異なってしまう仕方のない性質があるのではないだろうか。男女は完全に同じになろうとせず、完璧に平等になろうとせず、こっちはあんたの方が優れているからこっちは任せるけれどこっちはおいらの方が優れているから任せてくれという風に違いを見極めて、別の惑星からやって来た生物同士、上手にバランスを取りながら共存していくしかないのではないだろうか。

 

・女性が男性の領域へ入ることは許されるがその逆は決して許されない

そもそもこの世には男性だけの領域、女性だけの領域が設定されているが、男性が女性の領域に侵入するのは絶対的にゆるされない行為であるのに、女性の方が男性だけの領域に侵入するのは割とゆるされているのは興味深い。どんなに騒がれても男女の観念は同じにはなり得ないことを示している好例だろう。

温泉に入っていても女性の従業員が男湯に堂々と入って来るのでびっくりするが、これがもし男女逆なら犯罪になるだろう。男と女の平等が目指されているのに、性別が逆になるだけで犯罪になったり許容されたりするこのシステムとそれがまかり通っている人の世は甚だ不可解で気がかりだが、これを男性が「男女差別だ!」と叫ぶことは控えられている。なぜならどんなに違和感を覚えていても、男性が自分の裸を女性に見られることで「男女差別だ!」と叫ぶなんて男らしくない、男のくせに器が小さいと見なされるだろうという観念が人々の間にあるからだ。

また男子トイレに掃除のおばちゃんが平気で入ってきたりするのもゆるされているし、男性もみんなありがとうと思っていることだろうが、しかしこれが逆だと果たして世の中でゆるされるのだろうか。更衣室でも同じことが言えそうだが、一般的にいえば女性だけの領域に男性が入ることは決してゆるされず犯罪になったりデリカシーがないと見なされたりする。それゆえに男性は女性の領域に決して入るまいと心を決めているし、もしそのような欲望が密かにあってもインターネット上の動画の世界で心を慰める程度だろう。それに対して女性が男性の領域に入ることは割とおおらかにゆるされており、男がそれについてちょっと違和感を覚えていても文句を言われることもなく、犯罪になることなんてありえない。お互いの性的領域への侵入は、明らかに女性の方が許容されている雰囲気がある。

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このように男性も潜在的で本能的な男女差別で大いに損していることだろう。男女差別では何も女性だけが損しているわけではないということは心に留めておきたい。もしかしてそのようにして女性が男性の領域に侵入することにおおらかな気配が世の中にあるから、男の領域に女が入れるのは当たり前だと傲慢に感じるようになり、男性だけの聖域である大峰山にもなぜ女性は入らせないのかと怒ったりする人が発生したりするのだろうか。

しかし女性だけの聖域に男性が入り込むことはデリカシーがないと感じるのと同様に、男性だけの聖域に女性が入り込むこともひどくデリカシーのないことではないだろうか。男性は強くそれを心得ているので、琉球諸島の女性の聖域に男を入れろなどと訴えて運動を起こしたりはしないだろう。

 

 

・血は穢れであるという迷信だけれど人間に通底している観念

女人禁制とはどのようにして発生したのだろうか。高野山などの仏教地域においては、男性僧侶の性的欲望を促し修行の妨げになるからという理由もありそうだが、世界的に見るとやはり血の穢れの観念が大きいような気がする。血が穢れであり、女性は毎月血を流す性質を持っているからそれを”穢れ”として見なされる傾向は世界中にあり、日本の神道をはじめ、キリスト教やイスラム教やユダヤ教、ヒンドゥー教や仏教にも見受けられる。「タブー」という言葉があるが、この語源はポリネシア語の「月経」であるとも言われる。ここまで来るともはや宗教的観念というよりもむしろ民族的な、人間に通底する思いなのではないだろうか。

血が穢れであるなんてもちろん迷信だ。そして女性が穢れであるというのも当然迷信である。血を見ると普通の人間ならば確かに「怖い!」と恐れを感じてしまうので、その本能的な恐怖や直感的な恐れが「血は穢れである」という観念を生み出したのだろうか。しかしそのような観念が世界中の離れ離れの状態にあるあらゆる人々の間にさえ共通して存在し、受け継がれているということは、単に馬鹿馬鹿しい迷信だと無視することもできないだろう。人間とは動物的に共通してそのように察知し感じるものだという認識のもので注意して世の中を渡っていくに越したことはないように思われる。

 

 

・今でも女人禁制を守っているギリシャ正教のアトス山

ぼくは今でも女人禁制、男子禁制となっている聖域にひどく心が惹かれる。男女平等だからと別々の生き物なのに無理に同じにしようとして何もかも均一化されてしまう世界よりも、男性には男性の聖なる役割があり、女性には女性の聖なる領域があり、お互いに無理に侵入せず、それぞれ完全にわかりあうことはないけれどもそれぞれが神秘的な秘密を持ちながら、それでも性的な力によってつながりあい共存せざるを得ずに、なんとか共に歩もうとしている姿の方が自然で情緒深く美しいのではないだろうか。男女が何もかも明らかにし、さらけ出し、わかり合うなんてありえないのだ。

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ぼくは多様性のある世界が好きだ。高野山に女性が入れるようになって、高野山は男だらけの場所ではなくなり、男女という多様性が生まれた。しかし男女がどちらもいるなんて、世界中でどこにでもある当たり前の風景だ。高野山には男女という多様性がもたらされたが、それによって男性だけの聖域という伝統的な空間は滅ぼされ、男女が共存できるただの均一な世界の一部となってしまった。高野山が男だけだったという伝統が、男女の多様性を妨げてきたことによって、矛盾するようだが、世界において尊く珍しく神秘的な多様性を発生させていたのだった。多様性を妨げることによって、均一化されゆく虚しい世界において、矛盾するように世界の多様性を保ってゆく。

ぼくが絶対に行きたいとずっと思っているのは、ギリシャのアトス山だ。アトス山はギリシャ正教の聖地であり自治権が認められている世界遺産。そこではなんと高野山ですら滅ぼされた伝統の女人禁制が今でも保たれて残っているのだという。そこでは人間はもちろん動物も猫以外は雄しかおらず、人々はギリシャ正教に人生のすべてを捧げお祈りしながら神へと近づく道を模索していくのだという。閉ざされた世界の中で自産自消して人間活動がその場で全て完結するという聖なるアトス山へ、ぼくは絶対に行ってみたい。これは憧れであると同時に、使命感である。

 

 

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