ぼくはイスラム教のモスクが好きだ。
偶像崇拝がよくないというのは本当か? 〜イスラム教・仏教・神道の気配〜
・美しすぎるイスラム教モスクのモザイク模様
・仏教寺の仏像やキリスト教会のマリア像など世界は偶像崇拝にあふれている
・偶像崇拝のない神社の風景
・高千穂の日本古代の神々を求めて
・神とは何か?
・日本の神々が偶像崇拝について教えてくれたこと
・感覚を乗り越えて新たな瞳は与えられる
目次
・美しすぎるイスラム教モスクのモザイク模様
ぼくはイスラム教のモスクが大好きだ。その理由は、イスラム教のモスクの見た目、モザイク模様が美しいからに他ならない。日本に住んでいるとモスクに触れたり入ったりする機会なんて皆無に近いが、異国へと旅したときにふと出会うイスラム教モスクの美しさに、ぼくは即座に心を奪われてしまうのだった。一体どうしてイスラム教モスクのモザイク模様は、こんなにも美しいのだろう。
それはイスラム教は「偶像崇拝を禁止している」からだという。偶像崇拝を禁止しているイスラム教は、仏教の仏像やキリスト教のマリア像のように、具体的な祈りの対象としての物質を作ることができないが、それだと民衆は心引かれることなくモスクへ人が集まりにくい。そこでとんでもなく美しい抽象的なモザイク模様をモスク全体に装飾することにより、多くの人々に宗教への関心を集めさせモスクへと人を呼び込めるのだという。
美しすぎるイスラム教モスクのモザイク模様は、イスラム教の偶像崇拝禁止と無関係ではなかったのだ。
・仏教寺の仏像やキリスト教会のマリア像など世界は偶像崇拝にあふれている
しかしこのイスラム教における「偶像崇拝禁止」という観念は、なんとなく日本人のぼくたちにはわかりにくい。ぼくたちは日本で仏教のお寺に行けば当然のように仏像があるし、その穏やかなお顔を拝見するだけで心が洗われる思いをするものだが、イスラム教の言うように、仏像のような偶像崇拝ってそんなにも悪いことなのだろうか。
ぼくは奈良県飛鳥で日本最古の仏像というのを拝見したことがあるが、おおこれが!とやはり具体的な形を持ったものにはそれなりの迫力があり感動を覚え、さらに”日本最古”という枕詞までつけられるとその具体性の中に悠久の歴史まで感じられ、やはり偶像というものは人間にとって感受しやすいし芸術的な心や知的好奇心がそそられるものだと感じた。
他には日本の中にある数少ないキリスト教会へ行っても、キリストの像や絵があったり、マリア様の絵があったりしてここでも偶像崇拝はゆるされている。やはり人間の形をした「仏像」や「マリア像」などの祈りの対象を設置することで、人々は祈りやすくなり寺に集まりやすくなるので、必然的にこのような仏像やマリア像、キリスト像などが増えていくのは自然な成り行きだろうか。
偶像崇拝が信者を手早くゲットするために作られたシステムだとすれば、確かにやや安直な感じがしなくもない。
・偶像崇拝のない神社の風景
けれどよく考えてみれば、日本でも仏教寺院にはたくさんの仏像があるのに、神道の神社に行っても、神様の形をした像を見ることはない。神社といえば、ただ神様のお家のような神殿が建っているだけで、肝心の神様の姿を像として視覚的に楽しむということやその視覚的なお姿に対して祈ることができない。確かに神社の偶像を持たないそのような性質は少し物足りなく、仏像のような芸術的な美しさや迫力というものを味わうこともできず「神社に行くよりもお寺に行く方が見応えがあって楽しい」と感じてしまうのは事実かもしれない。偶像崇拝の人間の集客力が、ここに現れているのだろうか。
またキリスト教も大まかにカトリックとプロテスタントに分かれており、カトリックの方が偶像崇拝OKだがプロテスタントは偶像崇拝禁止と聞いたことがある。キリスト教においても、全ての宗派が偶像崇拝をゆるしているという訳ではないようだ。しかし教会に行ってキリスト像やキリストの絵がないと、確かになんだかあるべきものがないような感覚に襲われることもあるかもしれない。
・高千穂の日本古代の神々を求めて
やはり具体的な祈りの対象を持てるという点や、芸術的鑑賞さえできてお参りを興味深く楽しめるという点からも、偶像崇拝の方が人間にとってふさわしい宗教のあり方なのだろうか。そう思っていた矢先に、そんな考えを見事に覆すような出来事がぼくに起こった。それは日本で九州一周車中泊の旅をした時のことである。
九州一周というが本当のメインの目的は、ずっと行きたかった神々の故郷・宮崎県の高千穂を訪れることだった。関西から車を走らせて中国地方を抜け、橋を渡って九州に入り、ようやく高千穂を訪れたときには運悪く台風が九州地方を襲いかけていたが、なんとか台風直撃の1日前に高千穂を旅することができた。
やはり日本の神様には偶像崇拝の宗教のように形はなく、ぼくたちはそこはかとなく神様の”気配”を感じ取るしかなかった。高千穂にある天岩戸神社の神主さんに「あれが天照大神(アマテラスオオミカミ)が御隠れになったと言われる天岩戸です」と川を挟んではるか彼方の木の生い茂った見えにくい洞窟について説明してもらっても「ほぉ…あれが…」とぼんやり思うことしかできなかった。ここで天照大神が偶像として実際に出現し「私はここに隠れていましたよ〜!」などと説明して明るく手でもふってくれればインパクトもあるのだが、もちろんそんなことは起きるはずもなく、はるか昔の神々の世の出来事をかすかに夢想するしかなかった。
・神とは何か?
しかし感動的だったのはこの後だった。天岩戸神社のすぐ近くには、隠れてしまった天照大神をどのようにして天岩戸から出そうかと神々が寄り集まって相談した「天安河原」という場所がある。ぼくは徒歩で天岩戸神社からこの天安河原を目指した。
「天安河原」は河原の洞窟が神社になっているらしく、川へと道を下って行く。高千穂は宮崎県の奥深い山の中にあり、川の水は清らかで常に美しい。それを取り囲む天然の水に濡れた木々たち。もうすぐ台風が来るので小雨も降り、霧で目の前が霞んでいる。ぼくはなんだか不思議な幻想的な世界に迷い込んだような気持ちになってぼんやりしてしまった。
ふと立ち止まると、あ、ここに神様がいるような気がすると直感ですぐに感じた場所があった。そして角を曲がってみると、まさにその場所が「天安河原」だったのだ!
ああなんて神々しい気配だろう!この気配こそが「神」なのだ。どのような気配なのかここで言葉で説明しろと言われてもできるはずがない。これはまさに、動物的で直感的な言葉を超越した「神様」の気配だった。この直感的な気配を、2500年以上前の日本のご先祖さまたちも感じ取ったに違いない。だからこそ、ここが神聖な「天安河原」として今に到るまで大切に祀られているのだ。ぼくたち日本民族の神に対する直感は、古代から今に到るまできちんと引き継がれていることを、他でもない自分自身の中に感じ取った。
・日本の神々が偶像崇拝について教えてくれたこと
「天安河原」は薄暗い洞窟だった。もちろん偶像などはなく、洞窟の中にささやかな祠が建てられているだけだった。しかし、それでいい。ぼくはこの「天安河原」で偶像崇拝ではないことの素晴らしさを急激に感じ取っていた。そしてそれと同時に、日本の古代の神々から偶像崇拝のくだらなさをまざまざと教えられたような気がした。
人間たちを存分に集客して信者を増やすために、わかりやすい人型の具体的な偶像を作り出し設置しようなんて、なんと卑しい考えだろうか。神様には、実態がないのだ。神様は具体的な偶像ではなく、直感であり、隠された秘密であり、確かな気配なのだ。ぼくはこの「天安河原」で偶像を持たない日本の神々の正しさや神社のあり方のふさわしさを思い知らされた気がした。
確かに神社には、仏教寺のように興味深く美しい仏像はない。神様の家だと言ってただ建物が建てられているだけであり、見方によってはつまらないと感じる人もあるだろう。外国人などが観光で神社を訪れても、あんまり面白くないと感じる人も多いかもしれない。しかし、それでいいとぼくは思う。日本の神々は、そこに住むぼくたち日本人が安らかに静かに感じ取ればいいのだ。
・感覚を乗り越えて新たな瞳は与えられる
仏像はそこにあるだけで刺激的だ。人間の知覚の約90%は視覚からのものであり、そこに視覚的に仏像が存在するだけでぼくたちにとっては刺激的なのだ。しかしだからと言って人間たちを宗教的に支配するために、刺激的な視覚に頼り人々の注意を引きつけようなんてものすごくくだらない考えだ。
視覚的に具体的であるということは、そこに限界があるということだ。神様の姿が具体的に銅像として目の前に作られてしまった以上、ぼくたちは目の前にある銅像という物質以上のものをそこに感じ取ることができない。銅像はそこに神様の姿を具現化してくれた便利でありがたいものと感じられるかもしれないが、逆にいえばぼくたちの神に対する想像力を極めて制限する”感性の牢屋”のようなものだ。ぼくたちの神に対する感受性は、その具体的な偶像以下に留まることはあってもそれ以上になることは決してなく、宇宙のように自由にどこまでも広がることのできた神への感性が、偶像によって殺されて押し込められてしまう。
そして神は権力者からの支配へと導かれる。人々の神に祈るという純粋で美しき心を、具体的な偶像により制限し、利用し、支配し、やがては人々から自由と野生的直感を根こそぎ奪い取ってしまう。
具体的なものに目を奪われることなかれ。わかりやすいものに立ち止まることなかれ。
ぼくたちは脱出しよう。具体的なもの、わかりやすいもの、視覚的なもの、刺激的なもの、だからこそぼくたちの感性を制限し押し殺してしまうあらゆる支配を免れて、本来あるべき自由な魂を海へ返そう。愚かなものほど騙されやすい、問わないものほど操りやすい、そんな風に嘲笑う人の世を抜け出して、せめてぼくたちだけでも、わからないものを愛そう。日本の奥深くに密やかに佇んでいる薄暗い洞窟におはす神々のように、目に見えなくても感じ取れる力を、目に見えないからこそ尊い感受性を。
感覚なんて抜け出して、何も感じなくなるからこそ、全てを感じ取るという宇宙を。具体的なものを捨て、わかりやすいものを捨て、刺激的なものを捨て、目に見えるものを捨て、最後には感覚までもを捨て去って、人が遂に感覚を乗り越えたその先に、新たな「瞳」はぼくたちに与えられる。