日本人が輪廻転生を信じているというのは本当か? 〜仏教と儒教の狭間で〜

 

まわるまわるよ時代はまわるというけれど…。

 

日本人が輪廻転生を信じているというのは本当か?

・輪廻転生は日本人にとって自然な思想か
・仏教的死生観と儒教的死生観
・仏教的円環と儒教的直線の交点

・輪廻転生は日本人にとって自然な思想か

中島みゆきの代表曲の「時代」ではこのように歌われている。

“まわるまわるよ時代はまわる
別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ”

 

この歌詞は、彼女の音楽劇「夜会」でも度々“輪廻転生”がテーマになっていることから推測しても、歌詞の内容から大きく推量しても、生命の“生まれ変わり”、“輪廻転生”のことを歌っているのは明白だろう。

彼女はこの歌を10代の頃に作ったといい、以前ラジオでパーソナリティの人が中島みゆきに、どうすれば10代でこんな歌詞を作れるのかと問うた時に、彼女はこう答えている。

「生まれ変わりの観念って誰でも自然と持っているんじゃないかしら?」

ぼくはこの言葉に割と違和感を抱いていた。本当にこの日本という国の民族は、そんなに自然と生まれ変わりの観念を持ちながら生きているものだろうか。

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・仏教的死生観と儒教的死生観

少なくともぼくが幼い頃から大人になるまで、仏教的な輪廻転生という観念を日常であまり感じたことがなかった。周囲の人々もそのようなことを信じているなんて聞かなかったし、生まれ変わりの物語を聞いたこともない。かろうじて、それこそ中島みゆきの歌の中で感じ取ったくらいである。

むしろ、ぼくが周囲の日本人の死生観を観察していて見抜いたのは、人は生まれ変わってどこか別の場所で別の人間やら動物になって別の人生を歩んでいる(輪廻転生)というよりも、どこか知らない死者の国へと旅立って、けれどそれは実は生者のすぐそばにあって、生者は死者の存在をすぐ近くに感じているようなイメージだ。

うちのおばあちゃんは仏壇やお墓というものの中に、死んだおじいちゃんの存在を確かに感じて、仏壇を手入れしたりお墓参りしたりしている。仏壇やお墓に、死んだおじいちゃんがいると感じているような雰囲気だ。決しておじいちゃんが輪廻転生を起こして、どこか遠い国で赤ん坊から生きるのをやり直していると感じている風ではない。訪ねれば姿は見えずとも、すぐ会えるという趣がある。

日本にはお盆という風習があって、その時にだけ死者が黄泉の国から帰ってくるということに一応はなっているが、ぼくが日本人を観察するに、日常から死者の存在を仏壇やらお墓などに感じており、お盆だけに先祖の存在を感じているような感じはしない。お盆とは儒教の“形式的な”儀式のような感じがする。

お葬式の仏教的儀式もとても“形式的”なものに思う。もしも仏教的・輪廻転生的に、四十九日で死者がどこかに生まれ変わることを信じているならば、もちろんお盆に霊が帰って来たり、身近に死者の存在を感じたりしないだろう。どこかで生まれ変わって別の新しい人生を赤ちゃんからやり直している人が、わざわざ転生前の家族のもとを訪れることなんてありえない。

たとえば輪廻転生を誰もが心から信じているチベット仏教においては、お墓というものを作らないらしい。人は死んだらどこか遠い場所で新たな人生を生き始めるのだから、もはや残された家族のそばに死者はいられるはずもなく、死者を祀るお墓を作らないということは、輪廻転生的には矛盾しない合理的な考えだと言える。

逆に、もしも日本人が輪廻転生を心から信じている民族だというのなら、お墓を作るという行為は矛盾したものになるだろうか。日本におけるお墓の存在は、おそらく根深い儒教的死生観によるものなのだろう。死者はこの世の見える範囲内に残り留まっているのだ。

いくらお葬式で輪廻転生的な儀式をしたとしても、日本人が本当に信じているのは生まれ変わりの観念ではなく、死んだら大きな川を渡り、向こう岸ではこれまでに死んだ家族がみんな待ってくれており、そこでいつまでも幸せに暮らせるという思想なのかもしれない。そしてその黄泉の国からこの世までは、割と簡単にアクセスすることができる。

しかしそうは言っても“形式的”なものとして、仏教的輪廻転生も一応は日本において若干の存在感を放っていることも事実である。

 

日本という国は、仏教的観念と儒教的観念、すなわちインド的観念と支那的観念が、歴史的に複雑に絡まり合って、混じり合ったり拮抗したりしながら、形式と本質を取り合って、不思議で不可解な死生観を持ち合わせている国だろう。そしてそのふたつの物語を合わせたならば、明らかに矛盾しているのに、その矛盾の中を違和感なく上手にすり抜けて、日本人の精神は死生観を保ちながら生きているのだ。

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・仏教的円環と儒教的直線の交点

輪廻転生が魂の流れを示す仏教的円環だとするならば、儒の死生観は血を運ぶ儒教的直線である。そして日本人はそのどちらをも担いながら、複雑に死生の岸辺に立たされているのかもしれない。

輪廻転生は、スケールの大きい想像力豊かな思想だ。まさにインド的な生死を超えた想像力で、国も超えて、時も超えて、人々の魂を超越的な物語で彩っていく。それに対して儒の死生観は実に支那的な、即物的な思想であり、その想像力は目に見える範囲の物事に限られる。お盆の観念も、位牌も、儒教的死生観に基づく身近なものである。

日本人の死生観は、まさに仏教的な魂の円環と、儒教的な血の直線の交点に存在し、その不思議な存在感を保っている。

けれどぼくの中では、真実は円環に近いような気もする。

 

 

 

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