愛国心を深めれば、ぼくたちは世界を愛せる。
偽物の愛国心と真実の愛国心の違いとは?!日本を愛することは他国を憎むことだというのは本当か?
・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
・日本を愛することは他国を憎むことだというのは本当か?
・日本人は結局どんなに異国を旅しても、日本しか知ることができない
・祖国を究極的に深めた先に立ち現れる世界
・祖国を深めれば意識が国際的な世界へと広がってゆくという男根の一例
・真実の愛国心の驚くべき性質
・究極の自己愛と真実の愛国心は、世界への慈悲の心へと導かれる
目次
・ぼくの「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅
2020年、ぼくは4ヶ月かけて「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅を達成した。
「日本海沿いを北上する旅」では岡山県、広島県、山口県、佐賀県、長崎県、福岡県、大分県、熊本県、島根県、鳥取県、兵庫県、京都府、福井県、石川県、富山県、新潟県、山形県、秋田県、青森県をめぐり、その後フェリーに車ごと乗り込んで北海道函館まで渡り、そのまま北海道の最北の離島、礼文島の澄海岬を「日本海沿いを北上する旅」の最終目的地とした。
そのまま北海道をぐるっと一周し、再びフェリーに乗って青森県へ!青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、山梨県、静岡県と旅を継ぎ「太平洋沿いを南下する旅」を完遂した。
この「日本海沿いを北上する旅」+「太平洋沿いを南下する旅」=日本一周の旅の感動的な体験を通して、ぼくは祖国である日本の奥深さや素晴らしさに改めて気づくことができた。
・日本を愛することは他国を憎むことだというのは本当か?
「愛国心」という言葉があるが、自分の生まれ育った国を好きになり、大切に思う気持ちは人間として当然の感情だと言えるだろう。自分の属するグループを好きになることは、自分の生活における心の安定にも繋がる。自分の属する家族を愛すること、自分の属する村を愛すること、自分の属する県を愛すること、自分の属する国を愛することは自分の心を豊かにしてくれるし、安らかにしてくれる。
その一方で自分の属する国を愛するあまりに、自分の国に不都合な思想を持つ他国や自分の国の悪口を世界中にばらまく他国(中国や韓国など)を嫌い、憎むようになってしまう傾向がある。確かに誰だって自分の属するグループの悪口を言われたら、嫌な気分になるに違いないしそれは仕方がないことかもしれないが、自分の国を愛する気持ちは他国を憎むことによってより一層引き立てられるという愛国心の性質は気にかかる。他国を憎むことによってはじめて、愛国心というのは成立するものなのだろうか。
また自らの国が素晴らしいのだと主張したいがために、わざわざ他国を引き合いに出し、他国の悪い点ばかりを並べ立てその国をひどく見下し、それにひきかえ我が国は優れているのだと比較し、相対的に祖国を持ち上げることでしか愛国心を保てないような人間も一定数存在する。しかしそれって本当に愛国心なのだろうか。他国と相対的に比較することでしか、自らの国への自尊心は保てないのだろうか。本当の愛国心とは、一体どのようなものだろうか。
・日本人は結局どんなに異国を旅しても、日本しか知ることができない
他国を憎むことでしか成立しない愛国心、他国を見下すことでしか得られない愛国心は、偽物の幻想ではないだろうか。それはただ、自分の属する国の価値を高めることでそこに所属している自分の価値も便乗して上げてしまおうという、稚拙な自己愛の遊びではないだろうか。しかし本当の愛国心とは、他国とは関係のないところに生じる絶対的な聖域である。
自分の国を知るという手段には2つがある。それはすなわち、自分の祖国だけじっと深くいつまでも見続けるやり方と、他国を眺めて比較し相対的に自国を分析するというやり方だ。もちろんその2つをバランスよく混ぜ合わせてはじめて自国を知るという過程は成立するが、ぼくが思うのは最近あまりに後者が重要視されすぎているのではないかということだ。
日本は島国であるが故に外国というのが珍しく、それ故に外国に対する恐れと憧れの気持ちが強い。日本のことを知っているよりも外国の知識を知っている方が優れている人物だと思われやすいし、日本語に詳しいよりも英語が喋れる方がかっこいいと見なされるし、とにかく祖国に閉じこもってじっと祖国を地味に観察し続けている人よりも、パーっと景気よく外国へと飛び出して派手に周遊し異国の知識でも身につけることの方が偉大だと見なされる傾向がある。
しかし本当にそうなのだろうか。確かに異国というものを知らなければ祖国を知ることはできない。異国というものがなければ、祖国というものも存在しないからだ。それは他人という存在があってはじめて、自分という存在が成立する過程とよく似ている。けれど日本という孤立した島国に生まれ育って、果たして異国のことなんてどれほど詳しく知ることができるのだろうか。祖国のことですら深く知るためにはかなりの努力と時間を要するというのに、旅行として異国をめぐったり、ちょっとの期間留学したり、異国にしばらく住んだりしたそれだけでは、異国の表層を知ることはできても、異国の深部まで知ることは到底不可能だろう。日本人として生まれ育ったぼくたちが本当に深々と知ることができるエリアは、結局日本だけではないだろうか。
不確かな知識や浅はかで深みのない経験だけで異国というものを認識し、それにのっとって相対的に祖国を判断しようだなんてかなり怪しい行為だ。ぼくたちは異国に対する過剰な憧れや異国を知ることこそが優れているという思い込みをきっぱりと捨て去り、祖国へと立ち返り、祖国を深めることに人生を費やすべきではないだろうか。結局ぼくたちが知ることのできる全てのことは、祖国のことしかないのではないだろうか。どんなに異国のものに表面的に触れたとしても、それは自らの内にある祖国の感性を通して、祖国の記憶をまつわらせてしか吸収されないのではないだろうか。
・祖国を究極的に深めた先に立ち現れる世界
日本という祖国を旅してまわり、完全に理解できる日本語という言語を駆使して、日本という国に存在する様々な文化や感性や思想、そして日本の人々に触れてゆく。日本という祖国の旅を通して、今まで知らなかった意外な一面や見たこともない素敵な側面を発見し、日本に対する造詣を深めてゆく。このような大自然、このような大地、このような人々、このような文化圏、このような感性の中で生まれ育ったことを誇りに思い、自らの祖国をより一層愛し始める。
そのような日本を深める旅の過程では、日本のことばかりに詳しくなって国際的な多様性を見失うのではないかと一般的には危惧されがちとなるが、それは見当違いな心配である。日本という祖国を本当に深めたその先には、視野の狭い偏狭な愛国心ではなく、果てしなく世界へと広がる国際性が花開いているのだ。
日本に詳しくなればなるほど、日本を深めれば深めるほどに、日本という国の素晴らしさを知り日本という祖国に誇りを持てば持つほどに、大きな愛国心を抱けば抱くほどに、ぼくは日本を超越して、意識が世界へと飛翔していくのを感じた。祖国を究極的に追求し深めた先に待っているのは、偏狭な愛国心ではなく、広大な世界に対する愛だったのだ。
・祖国を深めれば意識が国際的な世界へと広がってゆくという男根の一例
祖国を深めれば深めるほどに気づくことは、日本は素晴らしい国だということと同時に、日本を含めた世界はひとつであり、人類は皆同じなのだという悟りである。日本に愛国心を持つあまり、日本人である自分たちは世界でも最も素晴らしく優秀で、他国は劣っているのだという相対的な迷妄を抱くようでは、その愛国心は偽物だ。本当に日本に対する愛国心を育て上げ、日本を真剣に深めていくならばその究極の果てにたどり着くはずだ。日本の民族の感性は、世界の人々の感性と根底ではつながっているのだと。
例えばぼくは大分県の辺境の地、伊美別宮社(いみべつぐうしゃ)というさびれた神社で、石でできた巨大な男根像を発見した。解説によるとこの男根像の下の台の部分は女陰であり、この石像は男根と女陰の結合を示しているというのだ。この解説を聞いて、こんなものがあるなんて日本とは面白い国だ、日本は不思議な風習を残している国だ、やっぱり日本は特別な国なんだと思い込むのは簡単だろう。しかしぼくは知っている。日本中を旅して大分県の辺境で見つけたこのような珍しい男根と女陰の結合像が、世界中にも広がって存在していることを。
それは「リンガ」というものだ。インドやネパールやインドネシアのバリ島などでよく見かけたことから、ヒンドゥー教圏の風習ではないかと思われる。伊美別宮社のリンガは奥に隠されるようにひっそりと佇んでいたが、外国のリンガはそこらへんの街中に点在しており、現地の人々は思い思いに男根にタッチし、祈りを捧げている。男根と女陰の結合(=性行為)から全ての人類が誕生し、今ぼくたちが生きて活動していることも、科学技術の発展も、快適な暮らしも、美しく華やかな文化も、全てが男根と女陰の結合によって引き起こされる現象なのだから、世界中の人々にとってリンガを崇拝するのはごく当然の成り行きだと言えるだろう。
このように日本を愛し、日本を旅し、日本を深めれば、不思議と偏狭な視点を持った日本マニアになるわけではなく、世界の文化へと視点を向け、精神を国際性へと大きく飛翔させることが可能となるのだ!
・真実の愛国心の驚くべき性質
本当の愛国心とは、このような種類のものではないだろうか。すなわち他国を憎み、他国と比較することでしか保てないような軽薄で浅はかな感情は愛国心とは呼べず、むしろそれを持つことで、矛盾するように祖国を超越して世界へと広がり、世界を愛することにつながるものこそが、真実の愛国心と呼べるのではないだろか。愛国心とは、他国を恨んだり妬んだりするために人の心に用意されているのではない。むしろ他国を含めた全世界に慈悲の心をもたらすために存在しているのではないだろうか。
・究極の自己愛と真実の愛国心は、世界への慈悲の心へと導かれる
真実の愛国心とは、そのように考えれば自分に対する愛情「自己愛」とよく似ている。自分を愛することに、理由や理屈が必要だろうか。自分を愛するために、他人との比較や、他人を恨むことが前提条件だろうか。いや、そんな相対性の愚かしい海に心が溺れる前から、ぼくたちはきちんと自分自身を健全に愛することができていたはずだ。赤ちゃんの頃や、幼かった時、ぼくたちは誰がなんと言おうと、誰のことも気にせずに、他人のことなど無視して、他人と比較なんてするまでもなく、ただひたすらに自分自身を愛することができていたはずだ。自己愛は、健全に生きていくための生命の根源である。
うろたえない愛、揺れ動かない愛、不安定ではない愛、相対的ではない愛、すなわち絶対的な愛によってこそ、人間は安らかな心の土台を伴ってこの世を生き抜くことができるのだ。他人を見下すこともなく、他人を蹴落とすこともなく、他人を憎むこともない絶対的で確信できる愛によって、ぼくたちは人生における普遍的な幸福を実現してゆく。究極的な自己愛や、真実の愛国心を保ち続けられる人は幸いである。それは自分自身だけではなく、自分の所属だけではなく、世界全体を慈しむ心を約束されているからだ。