国を愛する人と国を憎む人が対極にあるというのは本当か?

 

誰もが愛されたいと祈っている。

国を愛する人と国を憎む人が対極にあるというのは本当か?

・国家という集団の幻影
・自分の国を愛する人々
・自分の国を憎む人々
・愛する事と憎む事の根本にある願い

・国家という集団の幻影

インターネットという海の中で押し寄せてくる言葉の波を見ていると、そこには2種類の人間がいることに気づかされる。自分の国をひどく愛する者と、自分の国をひどく憎んでいる者とである。自分の国を愛することと自分の国を憎むことは正反対であるように見え、実際にインターネットの海の中でも、自分の国を愛する人々の集団と自分の国を憎む人々の瞬断はぶつかり合い、争い合い、対立し合っている。

そもそもなぜ国民は自分の国を愛する人と自分の国を憎む人とに大別されるのだろうか。同じ国の中に生まれて同じように育ってきたとしても、国に対して正反対の心の態度を取っていくのはなぜなのだろうか。

 

 

・自分の国を愛する人々

自分の国を愛する人々は、自分の国を誇りに思っている。自分の国は世界でも稀有で特別な存在であり、そこに住む人々や技術も優れており、そしてもちろんそこに住んでいる自分自身も特別で優れた存在になり得るのだという潜在的な思いが見て取れる。

自分という個体に自信がなかったとしても、自分という人生がうまく行っていなかったとしても、自分の所属している国家という集団が素晴らしいのだと主張することにより、自分自身の存在の価値が高められているような気分になる。自分という個体がそんなに努力をしていなくても、自分という人生が踏みにじられている時でも、所属する国家という集団が優れていると見なす限りは、自分は惨めな思いをしなくても済むと錯覚してしまう。

そして優れているはずの自分の所属する集団が、変わっていくことよりもむしろ優れたことを維持し変わらないことを求めて、変えてしまおうと企む人々を憎みかける。自らの意識で優れていると見なし作りあげた楼閣に安らかな思いで住み着いているのに、その安らかな安定を破壊され世の中を変えられることをひどく厭っている。

 

 

・自分の国を憎む人々

自分の国を憎む人々は、自分の国を変えなければならないとあがいている。自分の所属している集団が悪質なものから変わるべきなのだと叫び続けていく。自分の所属している国家の愚かな点ばかりを見つめては、自らの集団を愛することを忘れて憎むことが生きがいとなっていく。

その根底には、自分という個体がひどい思いをするのは、自分という人生がうまくいかないのは、自分の所属している集団の悪質に帰着するのだ、自分が悪いのではなく所属している集団の性質が悪いのだという思いで満たされている。人生がうまくいかない時には、人は自分が悪いのだと思うことに耐えられない。自分は悪くないんだ、他の何者かが悪いのだと信じ込みたがり、その発想が自分自身の心を守り、未来を生きていくという行動に反映され繋がれていく。

自分は悪くないのだ、社会が悪いのだ、国家が悪いのだ。そう叫び続ける心の底には、自分という個体を自分で攻撃してなるものかという自己防衛本能が横たわっているのかもしれない。

 

 

・愛する事と憎む事の根本にある願い

国家を愛する人と、国家を憎む人の心は、奥底でひとつに繋がっている。それは、自分という個体をなんとかして愛してやりたいという切実な祈りである。自分がなんとか傷つかないように、なんとかこの苦海とも呼ばれる世の中で生きていきやすいように、ある者は所属する集団をひどく愛し、ある者は所属する集団をひどく憎みかける。

しかしその根底はひとつへと繋がれていく。「愛されたい」という幼子のような、人にとって最も根本的な願いへと帰されていく。自分という個体が愛されていないと惨めに感じるような夜でも、国家という集団に思いを馳せれば、ぼくたちは守られているような気分を抱ける。集団は、ぼくたちが円滑に生きていくための単なる道具に過ぎない。それに気づきもせずに、人々はいつしか国家に振り回され、心をかき乱され、国家に支配される道具へと成り果ててしまう。

国を愛すること、国を憎むこと。それはどちらも、仕方のなく生み出された人間の切なる願いとしての生き方なのかもしれない。本当はありもしない国境線を求めて、本当はありもしない国家の幻影を追って、ぼくたちの意識はいつまでも真実に達することができない。その答えに旅をしていれば自ずと気づかされる。本当にこの世界に、国境線などあるのだろうか。本当に世界でいきている人々に、境界線などあるのだろうか。

部族、民族、風習、言語、容姿、思想、様々な曖昧なものたちに引き裂かれ、今日も人間の世界には苦しみの嵐が巻き起こっている。

 

 

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