流行に敏感な人の特徴と彼らが賞賛されるべきだというのは本当か? 〜容易に広告に洗脳される人々〜

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流行にしがみついていれば自らで選び取る能力がないことも暴かれずに済むだろうか。

流行に敏感な人の特徴と彼らが賞賛されるべきだというのは本当か? 〜容易に広告に洗脳される人々〜

・流行を追い求める人々
・流行の作り方
・容易に洗脳される人々
・流行の先端
・自作詩「最先端」

・流行を追い求める人々

流行というものを必死に追い求める種類の人間がいる。流行とは、人の浮世の流れの中に起こるエネルギーの高い一種の波だ。人間たちが知らず知らずのうちに群がり、貪るように消費していく現象だ。

流行を追い求めたい人間は、テレビを見、雑誌を読み、SNSをチェックして世の中の波の動きを読んだ気分になり、そしてその波の高い位置に自分を置くことで、自分を誇らしい人間であるように見せかけようと必死になる。それにより自らが価値のある人間であることを誇示しようとするのに加え、みんなと同じであるという共有の安心感も抱くことができる。その代償として大量消費の中に絡め取られ、生命にとって不必要なものばかりを渇望していく。

 

 

・流行の作り方

しかし、流行とはどのように作られるものだろうか。そのほとんどが、宣伝費に多くのお金が支払われ、メスメディアなどの大きな権力を使って、民衆たちの中へそれが素晴らしいと植え付けていく過程に過ぎないのではないだろうか。

雑誌やインターネットでは「これが今の流行!」「話題沸騰中!」などという言葉を並べ立てながら、実際のところ、本当に流行っているものというよりもむしろ大きな権力や企業たちが”流行らせたいもの”を流行っているものとして紹介しているだけではないだろうか。その欲深な商業の企みを感じ取れない愚鈍な者たちが、本当に流行っているのだと勘違いして、生命に必要のない偽物を貪って消費は進み、若者にはお金がないのだと嘆きながら生活している。

また最近は若者の中にはテレビを全く見ないという人々も多く、テレビの権力が極端に落ちてきていることから、インターネット上のSNSで影響力のある人々と癒着し、これはいい商品だと紹介するという洗脳も始まっている。物事を自分できちんと考えない人はそれを見て、その影響力のある人は金で買われ空虚で偽性な「オススメ」をしているということに気づかずに、つられて購入してしまうということが起きる。

それはテレビのCMでも同様だが、SNSの場合、その人を応援してくれている人や気にしている人に向けて、まるで自発的に商品を紹介しているような印象を受けさせることができる分、なんだかより悪質な印象をぼくは受ける。誰かに言われて宣伝しているんじゃない、自分が自発的に紹介したいほどいい商品なんだよと思わせたい投稿の裏には、多くの金が流れているに違いない。

 

・容易に洗脳される人々

このようにして金と権力によって無理矢理に作られていく「流行」という虚無は、乗るほど価値のあるものなのだろうか。流行に乗って、流行に敏感だと言われている人々、流行に敏感だと言われたいと願っている人々は、本当に褒められたものなのだろうか。むしろその流行をスルーしている人々の方が、愚かな消費の強制をすり抜けられる回避能力があるものとして、賞賛されるべきではないだろうか。生命にとって不必要なものばかりを、権力や宣伝の思いのままに消費していては、生きる道の荷が余計に重くなり愚かに動けなくなるだけである。

逆に流行だと大きな権力に押し付けられたものたちをスルーできる能力がなく、受け入れ大量に消費し自分の中に取り込もうとする種類の人々は、自分が本当は何が欲しいのかもわからない迷妄の精神の上に成り立っているのではないだろうか。彼らは洗脳されやすく、自らで自らの心の鏡を見つめる能力を養わなければ、もしも大きな権力が暴走し、例えば戦争を起こせと民衆に宣伝したときには、真っ先に洗脳されるのは彼らではないだろうか。

自分で自分の好きなものや欲しいものを理解しておくというのは、生きていく上で重要だ。自分という存在を客観的に分析し、どのような嗜好の傾向があるのかを掴み取り、流行という雑音を超越しても、自分が心から求めているものが何かを把握することができれば、心が迷い欲しいものや好きなものの基準を見失い、流行にすがりついてでしか自分を飾ることができない迷妄の状況を打破できるだろう。

 

 

・流行の先端

大きな権力によって作り出された流行に支配されるなんて惨めなことだ。ぼくたちは欲望にまみれた消費の誘惑に、簡単に流されてはならない。雑誌を眺めてそれを真似して安心しているようじゃ愚かしい。真実の流行の原点は、雑誌などに載せられるずっと以前から誰にも理解されず孤独にこの世へ出現しているはずだ。大きな潮流に流される自分自身に決して憧れずに、大きな潮流を生み出すことのできる宝石のような創造を孤独に生み出すことに憧れを抱こう。

誰かが作り出した流行という集団の中に入り込めば、仲間外れになることはないと安心するなんて卑しい。真に人の心を掴む芸術は、必ず孤独から生まれているはずだ。誰の心の奥底にも流れている深い河は、人間の個体と個体を超越して闇の中を流れていく。ぼくたちの肉体はそれぞれに離れ離れになっていても、ぼくたちは自らの奥底に共有する聖域を隠し持っている。その聖域に響き渡る深き創造を生み出さなければならない。

それは人為的にけしかけられた流行のように、容易く過ぎ去ったりするだろうか。いや、ぼくたちに通底する聖域に共通して響き渡る音楽の美しさを、ぼくたちは時が経っても決して手放すことはないだろう。真実の創造は時をも超越する。たかが時によって脆くも崩れ去ってしまうものを崇め奉ってはならない。

誰の心にさえ染み渡る創造は、多くの人々と交流を持っているからこそ達成できる領域だろうか。多くの人々と触れ合うからこそ、人間にとって普遍的な何かを創り出すことができるだろうか。いや、むしろ真実の創造は深い孤独の底にある。深い孤独の中に身を浸し、自分自身を清らかな鏡でしかと見定めなければ真実の想像は生まれない。

孤独であることと普遍的であることは、矛盾しない。孤独を深めて深めて深めて、孤独を貫いたところに、人類普遍の真理が横たわっているのだ。明るさと賑やかさに惑わされて民衆の中に身を置くのなら、真理の光は遠ざかろう。

愚かしく仕掛けられた流行をなぞるだけならばそれは簡単だ。そして流行に敏感という賞賛とみんなと同じという安堵を浮世の中に見つけるかもしれない。しかし時空という嵐が通り過ぎ流行が無残にも吹き飛ばされた後にさえ残る、人間の魂に通底している真実の普遍は、他人に合わせたことではなく、孤独に自分を貫いた後にこそ見出される理想郷だ。

流行はいつも、真実の普遍の一部から何かを欠落させて不完全な形で発露される。そしてその欠落ゆえに人間たちから見放される。人間たちは欠落や、不必要な添加に群がり、今日も流行を愚かに貪る。いつまでも見捨てられない美しさが、人の世の中にも潜んでいるというのに、彼らはそれを見ようとしない。大きな権力によって真実の美しさは遮られ、代わりに強欲な魂ばかりが売り出される。本当の光を見渡す目を、取り戻すことができたなら。

流行の先端は、いつも孤独と普遍で灯されている。あらゆる流行の風は、異形と反逆の香りがする。流行の先端は広さを持たない数学的な「点」のように、誰もがたどり着けない桃源郷だ。しかしそれを見定めることはできる。大いなる孤独と創造さえ持ち合わせていたならば。

 

 

・自作詩「最先端」

先端を超えたところには
永遠の秘密が眠っている
最も先端の常世に座したとき
中枢の宇宙に生きる己を知る

時代にも先端があり
流行にも先端がある
それを追い求める姿ほど滑稽なものはない
醜く愚かなものはない

されど時代は滑稽ではない
されど流行が醜いとは言わない
時代の最も先端を知るとき
流行の最も先端を掴むとき

人は 矛盾するように不意の旅立ちを命じられ
人の心の根幹へと
中枢へと辿り着くことになるだろう
時代を彩るものたちの

最先端を創り出すことで
普遍なるものが覚醒する
どの時代にも どの国にも眠っていたものが
知らない間に目を覚ます

□最先端という点なんて
あるのかは言及できない
点とは一切広さを持たず
点とは一切長さを持たない
そんな幻のような国が
この世にあるのかは知れない□

■流行を追い求めていてはならない
流行は創り出さなければならない
そうその手で
肉体としての原始的なその手で
自らのその手で■

先端から噴き出す
激しい快楽を伴う青い液体
誰もが先端を夢見ている
誰もが先端を求めている

誰もが先端を触りたがる
誰もが先端を弄ぶ
誰もが先端を舐めたがる

先端のそのまた先に
異郷の景色があることを夢見て

 

 

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