ぼくたちは、知っているということはなにか偉大なことであるように思わされている。人の世の中では、ものごとを知らないということはなにか後ろめたいような、恥ずかしいような感覚を覚えるということもしばしばであるらしい。
ものを知らないことは恥ずかしいというのは本当か? 〜人間が知ることのできるたったひとつの真実〜
・知っているという偉大さ
・知るべきことの無限さ
・知らないという自然
・色鮮やかな世界
・知識と創造性
・人間が知ることのできるたったひとつのこと
・知っているという偉大さ
知っているということは、それを記憶しているということだ。生きてきた人生の時間の中で、それに触れ、それを知覚し、それを認識し、自らの記憶の中に入れ込むことを許容し、またそれを外界に向かって表現できる状態であると言えよう。
たくさんのものごとを覚えている、知っているということは、それだけで立派な人間に見えるひとつの条件のようである。東アジアでは特にこの知っている力、記憶力というものを重視してきたようであり、それは歴史的に東アジアの中心であったところの中国の科挙の制度を見ても明らかだろう。科挙という試験はとかく記憶力のみを重視する試験であり、少しの記憶を用いて発想の力で問題を解決していく応用力重視の最近のテストとは趣きが異なっているようである。
たくさんの物事を知っておりたくさんの記憶がありまたそれをアウトプットする能力を持つならば、それは生きていく上でまた社会の中において非常に便利な機能であろう。発想の力が記憶力と比例して呼び覚まされるものであるとするならば、たくさん知っている人の方がたくさんのアイデアを生み出すことができて創造性も深まるかもしれない。しかしぼくは思うのだ。この無限に広がる森羅万象で生きていく上で、どこまでの記憶が人間にとってふさわしい量なのだろうかと。
・知るべきことの無限さ
ぼくたちはたくさん知っている、たくさん記憶していることがよいと思っているが、知っているということには際限がない。それは世界に際限がないからである。この広い世界の中で知覚し認識し記憶できるものは無限にあるし、また広く見るばかりではなく世界を細かく分類した後にさえ記憶することは無限にある。
世界を大きく広くとらえても知るべきことは無限、細かくミクロな視点で見ても分類される観念も無限、それならばこの世の物事のすべての概念に触れ記憶することなど不可能であるし、すべてを知ることなんて到底できないはずだ。すべてを知っている人間などいないのだ。
・知らないという自然
知らないということは当然なのだ。世界のすべての物事をとらえ切れる人間などいるはずがない。それなのにどうして知らないということは愚かさの基準にされてしまうのだろう。
知らなければその場でただ覚えればいいのだ。知っている人は、たまたまそれに人生で触れてきた人、知らない人は、たまたまそれに人生で触れてこなかった人である。知っていることもたまたまであれば知らないこともたまたまであり、知る機会の有無の問題であり、知らないことで不都合が生じたならばその場で記憶するだけのことである。そこに恥じ入る感情や自分が愚かしいという思いを抱く必要は皆無ではないだろうか。
・色鮮やかな世界
たとえばぼくは日本語を知っているが、アラビア語は知らない。たとえば彼はお茶について知っているが、コーヒーについては知らない。たとえば彼女はファッションについて知っているが、スポーツのことは知らない。
知っていることと知らないことが織り交ぜられていることは当然であり、人は誰でもそうであり、それが豊かな人間性や個性を生み出していく。そしてさまざまな人間の色彩が生まれ、世界が色鮮やかに面白くなっていくのではないだろうか。
・知識と創造性
知っているという言葉にも種類があるように思う。広く満遍なく知っている人間もいれば、範囲は少なくとも深く知っている人間もいる。どちらが知っているという量が多いだろうか。それを測定できるものさしはない。広く満遍なく物事を知っている人は、物知りだと言われがちであるが、深く少なく知っている人は、その物事に関しての無限の分類を知っているかもしれないのだ。どちらが物知りであるかは安易に決定づけられるものではないだろう。
ぼくの主観で言えば、広く満遍なく物事を知っている人はつまらない人が多い気がする。多く広く知っている、ただそれだけなのだ。その種類の人間は、その広い知識を用いて、自らの独自の感性を絡めて、興味深い発想で創造力を働かせる能力が低い場合が多いのではないかと思われる。逆に狭く深く知っている人間は、独自の観点から物事をとらえる能力に優れ、範囲は小さくともその深さは無限であり、話していても思いもよらない創造性豊かな内容を聞き取ることができると感じることが多いのだ。
・人間が知ることのできるたったひとつのこと
そして究極的には、ぼくは人間はなにひとつ本当のことを知ることができないのではないかと感じている。
知っていると思い込んでいる物事も、他の観点から見るとまったく違っていたり、時間が経てば容易く翻ったりしてしまう。知っているとぼくたちが思い込んでいる知識の中に、果たして真実はいったいどれほど含まれていることだろう。国が違っても変わらない、時代が移ろっても普遍な、生まれ変わってもまだ伴う、真実なんていかばかりあることだろう。知っている量が多いことは人間に誇りを与えるようだが、すべての知識というものが幻想のように感じるぼくにとって、それは虚像ではないかと思ってしまうのだ。
そして、人間が生きていて知ることのできるたったひとつのことは“人は何も知ることができない”ことではないかと思っている。