三浦春馬自殺の衝撃!自殺をしてはいけないというのは本当か?
・俳優の三浦春馬の自殺
・日本人の自殺者数は順調に減少している
・自殺はよくないことだと感じる直感
・自殺をしてはいけないというのは本当か?
・俳優の三浦春馬の自殺
三浦春馬という俳優が自殺してこの世を去ってしまったようだ。彼のことをあまりよく知らないが、健やかそうに見える同世代とも言える若い人が自ら命を絶ってしまったというニュースはいつ見ても悲しいものだ。しかしテレビで見かける姿が健やかそうに見えていただけで、自殺してしまうくらいなのだから決して健やかではなかったのだろう。
・日本人の自殺者数は順調に減少している
日本人の自殺者数は1998年からずっと3万人を超えており、先進国内でもワーストクラスだということで問題になっていたが、その数も次第に減少し、2012年には3万人以下となり、なんと2019年には2万人を割ったというのだから驚きだ!
有名人の自殺のニュースを見て、なんて日本は自殺の多いひどい国なんだという印象を植え付けられそうになるが、逆に日本は順調に自殺者数が減少してきているという事実は注目に値する。
・自殺はよくないことだと感じる直感
自殺はよくないことだというのは、殺人がよくないとか、泥棒がよくないとかいうのと同様に人として直感的な倫理観だ。しかし直感的であるがゆえに、どうして自殺がいけないのかということを論理的に説明しろと言われてしまうと、なかなか小難しい問題となる。
作家の五木寛之さんは、子供になぜ人を殺してはいけないのかという質問にしっかり大人たちが答えられなかったことが気にかかり、世界の仏教国を巡って高僧になぜ人を殺してはいけないのかその解釈をそれぞれ仏教的に求めた。チベット仏教の高僧の発言には、殺人や自殺についての言及もあったが、それもひとつの解釈に他ならないだろう。
自殺をしてはいけないというのは現代では常識的なように思われるが、それではどんな時代でも、どんな国でも自殺はよくないことだったのだろうか。
・自殺をしてはいけないというのは本当か?
ぼくがネパールの山奥のチベット寺院を訪れた際に見かけた物語は実に衝撃的なものだった。それはブッダの前世の姿である薩埵王子(さったおうじ)が主人公の「捨身飼虎(しゃしんしこ)」という物語だ。薩埵王子は兄弟と竹林を散歩している時にお腹を空かせた母親の虎とその7匹の子供の虎に出会い、彼らのことを思いやり、自分の肉を捧げて彼らのお腹を満たしたというのだった!
この物語は、自分の生命を犠牲にしてでも虎という他者を思いやり助けたいという、ブッダの慈悲の心の究極を示すものとして現代にまで受け継がれているのだろう。なんとまぁ慈悲深いお釈迦様だことと感動し賞賛しないこともないが、よく考えてみると目の前で人が虎に自発的に自分の肉を差し出している場面など見ようものならかなり恐怖である。自分の生命を他者に捧げるという究極の慈悲の物語だからこそ、なかなか実行できる人もいないので人々に感動的な逸話として受け継がれているのかもしれない。
しかし普通に考えてみればこれは自殺の物語ではないだろうか。慈悲の心を引き起こし、自分を犠牲にして虎の子供達を救った美しい物語と言えばそれまでだが、自分の生命を敢えて消滅させたという点から言えば、自殺としての物語が賞賛されてアジアで現代に至るまで受け継がれてきたことになる。
いくら慈悲の心を伝えるのに的確だったとしても、立派であるとされる尊敬すべきブッダの前世が虎のために自殺をしたとすれば、信心深い仏教徒ならもしかして真似したりする危険性などはないのだろうか。それとも真似しても構わない、仏教徒とはこのようにあるべきだ、自分の肉体や生命や利益さえふり返らず他者のために究極的に尽くして慈悲を発動させるべきだと今でも説かれているのだろうか。
自殺するにしても何か目的があったりとか、志があったりするとこの物語のように人々に賞賛される物語へと昇華される場合もあるのだろうか。それとも明らかに作り話だと誰もが感じるから自殺の物語でも心穏やかに聞き入れられたのだろうか。自殺が常によくない悲しいことだと感じるのは当然のことだが、世界の物語や歴史を見てみると、人間の精神世界というのは実に深く複雑であり、ただ単純にこれは悪いとかよくないことだとか言って片付けられるものではないと感じられることもしばしばである。
たとえば武士における切腹はどうなのどろうか、チベットにおける焼身自殺はなにを意味するのだろうか、第二次世界大戦における特攻隊とは何なのだろうか。自殺について思考するだけでも、人間の世界には、一面的には片付けられない不思議な秘密が散りばめられていることが思い知らされる。その秘密を解き明かしていくことで、人間という生物の心の構造の正体も少しは見えてくるのかもしれない。