旅は道楽というのは本当か? 〜旅の神聖と大いなる力〜

 

世界を旅をしていると好きなことをしていると思われがちだが、あながちぼくはそうとも言い切れないと思っている。

旅は道楽というのは本当か?

・海外旅行は贅沢品
・詩的な旅の炎
・「ぼくの夢は世界中を旅すること」
・ミズイロノタビの正体
・自分とは別の力
・自分自身が器になるとき
・旅の清め
・終の眺め
・能の定め

・海外旅行は贅沢品

海外旅行というのはなにかしら高級なイメージがつきまとっている。ぼくたちが子供の頃に見たドラえもんでも、スネ夫くんが海外旅行に行くという自慢話は庶民の中の富や繁栄の象徴として描かれていることが多い。たしかに日本は島国だし、海外旅行といえば必ずと言っていいほど飛行機にも乗らなければならないし、他の陸続きの大陸の国々と比べても割と高くつくというのは本当だろう。

しかし海外旅行がお金持ちしかできない高価な買い物という概念は既に古臭くなっているだろうと感じる。実際にあまりお金をかけなくても、インターネットを駆使して安価な飛行機やホテルを探し出せば可能だし、日本国内を旅行する方がよっぽどお金がかかるだろうと感じることもある。日本は交通手段だって高いし、宿だってドミトリーでも最安で3000円くらいで、世界で比べても最も値段の高い部類に入るのではないだろうか。その割には、自然が豊かだからか食べ物の値段は標準的であるような気もする。

それでも今なお「海外旅行=高級な趣味」という定着が日本人の中に存在しているのはたしかなことだろう。それゆえ世界を旅していると、贅沢なことをしているとか、自由に好きに生きていると思われがちであるが、実際にはそうとも言い切れないと思うのだ。

 

 

・詩的な旅の炎

ぼくはいくつか旅に出る理由を論理的な記事にしてきた。

ぼくが旅に出る理由1:旅だけが時間の逆行を可能にする

ぼくが旅に出る理由2:旅は永遠へとたどり着く道

ぼくが旅に出る理由3:美しさでつながり合うもの

しかしこんなものは正直意味がないと思っている。旅人にとっての旅とは、言葉や時間や空間を超えたところにある炎なのだ。それは論理や理屈ではないし、むしろ野生的、芸術的、抽象的、無意識的、詩的な概念の中に存在している、圧倒的な炎の色彩だと言えるだろう。それゆえぼくが、自分の旅にとって真に重要だと思われる記事はこれのみである。

旅人の炎

具体的で論理的なものよりもむしろ抽象的で詩的なものの方が、旅という表現の発露に携わる上で適切であると思われる。

 

・「ぼくの夢は世界中を旅すること」

ぼくはよくホテルで外国人と話をする際に自分の今の状況を“My dream was traveling around the world so I quitted my job and started this travel.”と表現している。これはこう言った方がわかりやすいし伝わりやすいから、敢えてこのような文言で説明しているが、自分自身でもこれは的を得ていないような気がする。

「ぼくの夢は世界中を旅することです」と言ってしまえば、なんだか自分の趣味は旅行で、その夢に向けてお金を貯めたりして積極的に努力して準備して、そして自分自身の意思で能動的に行動力を発揮し世界へと飛び出したような印象を受けるが、実はまったくそうではないのだ。

 

・ミズイロノタビの正体

ぼくは自分自身のミズロノタビは、なにか大きな力に突き動かされているような印象を受ける。自分の意思で積極的に能動的に旅に出ているのかと問われれば、それは甚だ疑問だ。ぼくは生来そんなに積極的な性格の人間ではないし、外ではなくて普通に家でのんびりとしていることが好きだし、なにか別の世界のものに触れるのにも臆病になってしまうような質である。本当は実家でお母さんやおばあちゃんとのんびりお話していたいし、別の世界のものになんて触れないで既に持っているものについて考えるだけで人生は十分だし、ましてや安全かどうかもわからないような異国の地でさまよい歩きたい由縁などないのだ。

しかしそんなぼくが自分でも意味のわからないままに、遠くへと旅立つことを運命的に突き動かされることがある。大学を選ぶときだって実家から最も遠い、行ったこともない沖縄を選んだし、大学に在学中だって、なぜかこの人生では一人旅をしなければならないからと心から思い込んで、初のポルトガルの一人旅に出かけたりもした。はたから見れば何か積極的な人間に見られただろうが、この時もぼくは自分自身では抱えきれない大きな力、運命、定めのようなものに、自分自身が突き動かされている感覚を受け入れている。

自分の性格的に、どうしても説明のつかないけれど果たされてしまう行動を自分自身で確認しながら、自分自身が自分自身だけで生きているわけではないことを大きく感じていた。なにか大きな力、運命・定めとでも呼べきもの。これは仏教で言えば“他力”とでも呼べるものだろうか。もしかしたらそれを“神さま”と呼ぶものもあるかもしれないが、呼び名なんてどうでもよかろう。

 

・自分とは別の力

考えてみれば自分自身でも説明のつかないことというのは日常生活にだってあふれている。みんな当たり前すぎてそれにあまり気を止めないだけだ。たとえばお腹が痛くなることだって、自分自身でお腹が痛くなってくれと自分に頼んで痛くなっているわけではあるまい。自分の意思とは関係のない場所で別の次元があり、そのシステムでお腹が痛くなるのだ。そう考えれば、涙が出てくることだって、怒ってしまうことだって、瞳孔が縮小することだって、自分自身で願って起こっていることではないのだから、この自分には自分の意思のほかで突き動かされていることだらけなのだ。

そう考えてみれば自分自身の意思でやっている行動と、そうでない行動の境目はどこなのだろう。たとえば自分自身でものを取ろうと腕を伸ばしたりするのは、自分の意思からの積極的な行動のように思われがちだが、しかし自分にそのものを取りたいと思わせるのは何だろうと突き詰めて考えて行くと、人間のすべての行動は自分の意思ではなく、なにか別の大きな力によって突き動かされていることばかりかもしれない。本当にほくたち人間は自分自身で生きているのだろうか。ただそう思い込んでいるだけで、実際は大きな操られているだけだったらどうしよう。

しかし別におそれることもない。ぼくたちはずっとこの大いなる力と共に生き抜いてきたのだから、その存在に気づいたところで今までと変わりなく、大きな力と仲良くやっていくだけである。ただ気づいて共に歩むか、気づかないで自分で生きているんだと思い込んで歩いていくかだけの違いだ。

 

 

・自分自身が器になるとき

このような大きな力に従って生き抜いた先にあるものはなんだろう。

それはぼくの人生を完全に大きな力に捧げるということを意味するわけではない。大きな力はぼく自身で、ぼく自身が大きな力なのだ。人間は言葉を用いて意識を利用するから、この世に境界線を作らずにはいられずに苦悩するが、真の世界に境界線などないのだ。ぼくと大きな力の間にも境界線などなく、ぼくという海がゆるやかに大きな力につながっていくだけのことだろう。

ぼくは大きな力に身を任せてみたい。その先にある景色を見たいのだ。それならば消極的に生きればいいだけなので楽な生き方に思われるかもしれないが、決してそうではないとぼくは断言する。大きな力に雑念なく透明に澄明に支配されるということは、人にとって長い道のりだ。それは“悟り”とも言える観念かもしれない。

 

 

・旅の清め

大きな力に身を任せるためには、自分が空っぽの器にならなければならない。何か汚れたものが器にこびりついていると、きちんと受け取ることが叶わないからだ。そして自分という器を空っぽにするということは、人にとって非常に遠い道のりだろう。

この浮世を生きていれば、しらずしらずのうちに洗脳され、たぶらかされ、命に必要のない穢れたちを押し付けられる。それを自らの力で祓わなければならないのだが、そんな方法は学校でも会社でも教えてくれない。彼らはただ、どのようにこの世でお金を効率的に稼ぐか、そのための知恵を与えてくれるだけだ。

自分自身でさがさなければならない。自分という器を清らかに保つ術を。それは他人から教えられない。自分の器のための、自分だけの術がある。ぼくが自分の器のために見出したものは“創造”だ。創造こそが器を清らかに保ち、穢れを祓い、大きな力を受け取ることを助けてくれる。創造の先にある器を携えて眺める景色に身を任せれば、ぼくは旅へと出離せざるを得なかった。大いなる力に突き動かされざるを得なかった。その先にさえまた創造がある。その先にまた受容が待っている。

 

・終の眺め

人は人生の旅路の最後にどのような景色を眺めるのだろう。それはぼくにとっての景色。それはあなたにとっての景色。孤独に生まれ、孤独に死に、終に見える風景さえ異なっているけれど。ぼくの命を燃やした色も、あなたの命を燃やした色も、きっと天へと消えていく。たどり着く先はみんな同じだ。

あらゆるものを受け取るだろう。悲しみも苦しみも孤独も。そして生きる道は閉ざされるだろう。穢れた器を携えるものたちに。けれど望みの絶えた後に訪れる風景が、光へと通じる永劫の道。怠ることなくこの世で修行を完成させなさい。

 

・能の定め

ぼくの旅は日本の芸能・能の旅に似ているのかもしれない。能の中の主人公に、旅に出たくて旅に出るものはない。運命の力によりすべてを喪失し、この世で生きられなくなり、仕方なく流浪の旅に出るのだ。その先にあるのは、異界の者との出会い、そして別の軌道の精神的な作成。

夢を追いかけているわけでもない、趣味を楽しんでいるわけでもない、自由に生きているわけでもない。運命という大いなる力に支配され、突き動かされ、その先にある景色が美しいことを願って、ぼくは旅を継いでいく。日本という島国の民族が現代に至るまで創ってきた精神の旅の道の上を、ぼくは今まさに歩いているのかもしれない。

 

 

 

旅と能の関係 〜逃げ場を失くした魂たちへ〜

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