宇多田ヒカル「桜流し」の歌詞の意味を徹底考察!人は誰しも最後に愛を見出す(Everybody finds love in the end)というのは本当か?

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Everybody finds love in the end…

宇多田ヒカル「桜流し」の歌詞の意味を徹底考察!人は誰しも最後に愛を見出す(Everybody finds love in the end)というのは本当か?

・死の気配が全体を支配する宇多田ヒカルの名盤「Fantome」
・「桜流し」の歌詞
・誰もが最後に愛を見出すというのは本当か?
・真実の愛とは、見返りを求めずにただ与えること
・母親が赤ちゃんを慈しむ風景に無償の愛を感じる
・人生の最後、子から親にも無償の愛は注がれる
・宇多田ヒカル「桜流し」の中で引き起こされる生と死、そして愛の輪廻転生

・死の気配が全体を支配する宇多田ヒカルの名盤「Fantome」

宇多田ヒカルが「人間活動」と名付けた約6年間の休止活動を経て、2016年に発売された6枚目のオリジナルアルバム「Fantome」は、ぼくが最も素晴らしいと感じる彼女の作品のひとつだ。彼女の作品は、しばらく活動を休止して久々に出されるものがとてもいい。長い間休んでいる間に蓄えられた創造が感情が、まるで膿瘍のように一気に解放されてドロドロと流れ出してくるような濃度の高い作品がぼくの好みだ。4枚目のオリジナルアルバム「ULTRA BLUE」もそのひとつだと感じられる。

人間活動としての活動休止中、2013年の母親である藤圭子の自殺、2014年のイタリア人との再婚、2015年に第1子となる男児を出産するなど、あらゆる尊い生と死を経験しながら、それをくぐり抜けた先で生み出された「Fantome」はあまりにも濃厚な作品だった。「Fantome」の意味は「気配」。ジャケット写真の彼女は母親・藤圭子の陰影を思わせ、収録曲の中には「道」「花束を君に」「人魚」「真夏の通り雨」など、母の死を連想させる味わい深い歌詞が続いている。

あらゆる曲の歌詞の完成度が高い名作アルバム「Fantome」は、意味深い歌詞の名曲「桜流し」で終わりを告げる。「桜流し」の歌詞はまるで抽象画の風景を見ているようで確実にその意味はとらえ難いが、だからこそ歌詞を聞いて浮かんでくる情景が人それぞれに異なり、音楽を聞く人の心に豊かな情緒を運んでくれる。

 

 

・「桜流し」の歌詞

開いたばかりの花が散るのを
今年も早いねと残念そうに
見ていたあなたはとても綺麗だった

もし今のわたしを見れたならどう思うでしょう
あなたなしで生きているわたしを

Everybody finds love in the end

あなたが守った街のどこかで
今日も響く健やかな産声を
聞けたならきっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音

Everybody finds love in the end

もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない

開いたばかりの花が散るのを
見ていた木立の遣る瀬無きかな
どんなに怖くたって目をそらさないよ
すべての終わりに愛があるなら

 

・誰もが最後に愛を見出すというのは本当か?

「もう二度と会えないなんて信じられない まだ何も伝えてない」など、その他の「Fantome」の収録曲と同様にこの「桜流し」の歌詞も「死」を明らかに連想させるが、この「桜流し」は「Fantome」の中で唯一母親・藤圭子の自殺の前に書かれた楽曲であり、母親の死のことを歌っていないことは明白である。「桜流し」の歌詞に漂う死の雰囲気は、母親の自殺という個人的経験に由来するものではなく、もっと一般的で普遍的な人間の死のことを歌っていると考えるべきだろう。

また死の雰囲気ばかりではなく、歌詞の中に「産声」という死とは真逆の生命の誕生の観念が含まれていることから、巡りゆく死と生、輪廻転生的な思想も垣間見られる。誰かが死ぬことは誰かが生まれることと同じであり、だからこそ死を一元的に悲しいものだと決めつけるのは浅はかであるが、それでも突然の別れという意味での死はいつの時代も、どんな国でも、人を圧倒的に無力感に苛む威力を持っている。そのような死と生を結びつけ、死の絶望から人を立ち上がらせる力は、人間が最後に見出す愛であると宇多田ヒカルは歌っている。

「Everybody finds love in the end(誰もが最後に愛を見出す)」という歌詞はこの曲の中で最も印象的なフレーズだ。しかしかなり抽象的な表現であり、何を意味しているのかつかみにくい。誰もが最後に愛を見出すとは、どういう意味だろうか。

 

・真実の愛とは、見返りを求めずにただ与えること

この場合の「愛」とは男女の愛ではなく、「真実の愛」「無償の愛」を表現していると思われる。愛の本来の意味は、何も見返りを求めずにただ与えることなのだ。そしてその真実の愛こそが、人間が幸福にたどり着く唯一の道だと、ロシア人作家のトルストイは著書「人生論」の中で説いている。

しかしぼくたちが生きている中で、見返りを求めない真実の愛を見つけるのは難しい。誰もが見返りを求めて、損得勘定で計算高く生きているのが世の中の常だからだ。見返りを求めない愛なんて、一体どこにあるのだろうか。

例えば大抵の人間は労働をしている。労働とは、人のために役立つ行為だ。医者も、学校の先生も、スーパーの店員さんも、トイレ掃除の人も、みんな誰かの役に立ちながら生きている。では彼らの労働が無償の愛を示唆するかというと、決してそうではないだろう。彼らは必ず、見返りを求めているからだ。彼らはお金、給料という見返りを大いに求め、期待し、だからこそ労働し、人の役に立っているだけであり、もしも見返りが中止されたなら、ほとんどの人々はその労働から退くだろう。

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また男女の愛も一応「愛」と呼ばれているが、これも真実の愛であるとは決して限らない。男女の関係の先には、見返りがたくさんあるからだ。生殖の快楽や、結婚という安定した契約、子孫を発生させ老後の安心を獲得するなど、男女の関係の先にはいくつもの利益や見返りを数えることができる。見返りを期待し、安定を期待し、未来を期待して男女の関係を維持し続ける人々はかなり多いと予想される。逆に何ひとつ返されない、何ひとつ利益にならない、何ひとつ得にならないのに愛し続けることができるなら、それこそ真実の愛だと言えるのかもしれないが、なかなかそのような愛の姿を世の中で見出すことは難しい。世間の言う「愛」と利益は密接に絡まり合い、偽物の愛を人々は「愛」だと呼ぶことを憚らない。

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ではぼくたちは真実の愛を、この世でほとんど見出すことはできないのだろうか。

 

・母親が赤ちゃんを慈しむ風景に無償の愛を感じる

ぼくは世の中を見渡していて、赤ちゃんや子供を思う親の気持ちなどは真実の愛に近いのではないかと感じる。確かに立派に成長させたくさん金を稼いでもらおうとか、老後の面倒を見てもらおうなどと打算が渦巻いている場合もあるかもしれないが、親が、特にお母さんが赤ちゃんを大切に育てている様子を見ていると、そんな打算など吹き飛ばしてしまうような、動物的、野生的、根源的な「ただこの子に幸せになってほしいだけだ」と願う無償の愛を感じさせられる。何かを返してもらおうと感じる余裕もないほどに、ただただ本能的に、直感的に赤ちゃんを慈しんでいるお母さんの姿は、愛そのものであるようにも見受けられる。

宇多田ヒカル「桜流し」の中にも「産声」というキーワードが入っており、生命誕生の際に注がれる無償の愛が暗示されている。しかし最も印象的な「Everybody finds love in the end(誰もが最後に愛を見出す)」の歌詞の意味は、それとは真逆だとも感じられる。すなわち「最後」というのは人生の最後、死の瞬間を意味しており、人間は誰もが死の瞬間に愛を見出すと宇多田ヒカルが歌っているというのなら、これは生まれたばかりの赤ちゃんが無償の愛を注がれることと対極のような印象を受ける。人間は誰もが死の瞬間に愛を見出すとは、一体どういうことだろうか。死の瞬間に近づけば近づくほど、人は無償の愛を享受するような運命にあるのだろうか。

 

 

・人生の最後、子から親にも無償の愛は注がれる

人生は苦しみであるというのは、仏教の根本原理だ。人生は生老病死、すなわち生まれて、老いて、病んで、死ぬという苦しみの連続であり、人生は苦しみであるということを理解し、受け入れることではじめて、悟りを開く第一歩が踏み出せると仏教では考えられている。ぼくの個人的な体験で言うと、おばあちゃんは今88歳でだんだんと認知症が進行している。まさに生老病死の病と死の間の真っ只中でもがいているというような状態だ。

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おばあちゃんは認知症で起こりやすい「物盗られ妄想」に悩まされている。誰も盗んでなんかいないのに、盗まれたと信じて修正不可能な状態だ。おばあちゃんは認知症でもはや貯金の管理が不可能となったので、彼女の娘が通帳を預かっている。娘はこまめにおばあちゃんの家を訪れ、おばあちゃんがお金が必要と言えばいつでも預かっているおばあちゃんのお金を渡すというシステムになっている。娘はおばあちゃんのお金のお世話や貯金の管理までさせられて面倒くさいに決まっているが、親のことなので文句も言わずにやってくれている。

手間がかかっても自分の貯金をしっかり守ってくれている娘におばあちゃんは心から感謝すべきだが、実際にはその逆が起こるところが人生の難しいところだ。なんとおばあちゃんは「物盗られ妄想」を発症し、一番こまめにお世話をしてくれているその娘が、通帳から勝手に貯金を引き出して使い込んでいると思い込みどうしようもなくなってしまった。面倒なのにいちいち貯金の管理までしてあげているのに、それに感謝されるでもなく、挙句の果てに泥棒扱いされるなんて、介護というのは報われないものだと感じる。

しかし娘はおばあちゃんを見放すことはなく、泥棒だと悪口を言われようともそうではないことを通帳を何回も見せて説明し(「妄想」とは修正不可能な思い込みなので通帳を見せたところで効果はないのだが)、根気よく認知症のおばあちゃんと向き合っている。思いやりをもって丁寧に介護しても親から感謝されるわけでもなく、むしろ泥棒扱いされるなんて悲しすぎる結末だが、それでも娘はおばあちゃんを見捨てない。

どんなにいいことをしてもひとかけらの感謝という見返りももらえず、むしろその逆の憎しみを投げつけられるだけなのに、彼女はいつもおばあちゃんのそばにいるのだ。ぼくはこの姿こそ「愛」だと言えるのではないかと感じた。もしかしたらおばあちゃんは、人生の最後に、本当の愛を出現させるための試練を子孫に与えるために、認知症になっているのではないかとさえ思えてきた。そんな時にふと、宇多田ヒカル「桜流し」の歌詞が思い浮かぶ。

Everybody finds love in the end

 

 

・宇多田ヒカル「桜流し」の中で引き起こされる生と死、そして愛の輪廻転生

もちろんそれは彼女がおばあちゃんの実の娘であるという理由もあるだろう。赤ちゃんの頃からここまで育ててくれた親だから、どんなひどい仕打ちを受けても踏ん張って耐え、無償の愛を注ぎ続けられるものなのかもしれない。そんな親子の風景を見るとき、ぼくは「愛の輪廻転生」の姿を見たような気がした。

おばあちゃんは娘に、赤ちゃんの頃から無償の愛を注ぎ続けてきた。それは見返りを求めない、動物的で、野生的で、根源的な迷うことのない愛だった。娘は親からの無償の愛を受けて、安心してすくすくと大人になった。そしていざ親が認知症になり、だんだんと赤ちゃんのように何もできなくなってきた時に、娘は、昔おばあちゃんからそうしてもらったように、今度はおばあちゃんに対して同じ種類の無償の愛を注ぎ込み始める。親は幼い子供に、何ひとつ見返りなど求めずに、ただ必死に本能的に無償の愛を注いでいただけだとしても、その無償の愛ははるか未来で輪廻転生し、円環を描き、今度はその子供から親へ無償の愛を同じように注ぎ込む。見返りなんて求めなくても、結局は見返りが回ってやって来る。自分がどうしようもない状態になった時に、結局は自分が発した愛によって救われる。それこそが愛の正体ではないだろうか。

ぼくは宇多田ヒカル「桜流し」の歌詞の中で、「産声」と「the end」すなわち「誕生」と「死」が混在し、「愛」によって繋がれ、歌の中で輪廻転生を起こしていることが、とても自然な風景のように思えた。

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