人は下ネタが大好きだ。
人間が下ネタ大好きな理由を徹底追求!下ネタが下品で面白いものだというのは本当か?
・人間は誰もが生殖器を持っており誰もが下ネタに共鳴する
・異国で感じる下ネタを話せることの重要性
・世界中で大人気のクレヨンしんちゃん
・下ネタが面白いというのは本当か?
・健康な尿道や肛門をなくして初めてそのありがたさに気がつく
・下ネタの臓器は決して下劣なんかじゃない
目次
・人間は誰もが生殖器を持っており誰もが下ネタに共鳴する
下ネタというのは実に便利だ。誰もが持っているのに誰もが隠している生殖や排泄という人間の動物的な性質を、わざと露わにすることにより共感を得たり大爆笑を起こしたりする。下ネタの内容がわからない人間はいない。誰もが生殖器を持ち、誰もが排泄や生殖の機能を駆使しながら生命をつないでいるからだ。当然のように誰にでも通じる上に、簡単に爆笑を引き起こせるんて、人間全体に通底するなんて便利な技だろうか。
人間には実に様々な種類の性格や性質の人々が入り混じっていて、もしも数多く集結した際には誰にでも通じる共通の話題を見つけ出すことは困難だ。ものすごく頭のいい人もいればものすごく馬鹿な人もいるし、ものすごく物知りな人もいれば何も知らない人もいるし、何かひとつだけを深く知っている人もいれば満遍なく様々な話題を知っている人もいるし、お金持ちの人もいれば貧しい人もいるし、社会的地位や権力が高い人もいれば底辺を這いつくばって生きているような人もいるし、イケメンもいればブサメンもいるし、人間というのは多種多様に富んでいてみんなで話そうとするとどんな話題を話したらいいのかわからない。
しかしその誰もが生殖器を持っており、排泄や生殖的行動を営みながら生活しているのだからこんなに都合のいい共通の話題はない。しかも生殖器を露わにすることは恥ずかしいと感じる性質を人間は持っているので、普段は自分は生殖器なんてありません動物ではありませんという嘘の顔をして社会で生きていかなければならないのに、矛盾するようにその嘘を誰もが見抜いており、誰もが見抜いている嘘を誰もがついているような世の中で、誰もがわかりきったその嘘を共に暴き合い明かし合うことで若いと解放が生まれるという現象は、人間精神の趣深い妙である。
・異国で感じる下ネタを話せることの重要性
ぼくは恥ずかしいのであまり下ネタを話したがらないが、下ネタを話す能力を身につけておいた方がいいと感じるのはまさに異国を旅する時である。上に書いたように日本人の中でも多種多様な人間たちであふれ共通の話題に悩むのに、ましてや言語や文化の違う異国人同士の会話であるならなおさらのことである。たいして興味のあることもなく話題も尽きた時は、外国人同士でもよく下ネタの話が展開される。それが一番楽で、面白く、誰もがわかる最も共有できる話題だからだ。
しかも下ネタは人間的というよりは動物的な話題なので、日本人だろうが中国人だろうがネパール人だろうが、どんな国さえ超越して深く共有される。どんなに肌の色が違っても、話す言語が異なっていても、別の宗教を信仰していても、国同士の仲が悪くても、誰もが同じ生殖器を持っており、同じように排泄と生殖を繰り返している。国境というありもしないものを超越するという点には、下ネタというものの深みが感じられる。
さらに下ネタを話す能力を身につけることなんてたいして難しいものではない。もちろんとんでもない大爆笑をひき起こそうとするならばなんらかの努力が必要なのかもしれないが、下ネタはどんなに賢い人でも馬鹿な人でも、そんな次元さえ超越してでも通じ合ってしまうから便利なのだ。知的レベルの低い人でも下ネタを話し共有すればその場の爆笑を引き起こせるという場面は、世の中においていくらでも遭遇できる。むしろそのような人たちのためにこそ下ネタはあるのかもしれない。
・世界中で大人気のクレヨンしんちゃん
クレヨンしんちゃんは世界でも大人気だ。特にアジア周辺の地域ではどこでもクレヨンしんちゃんグッズを目撃できる。クレヨンしんちゃんの中にもたくさんの下ネタが出現し、それがクレヨンしんちゃんの人気の理由でもあるだろう。典型的なネタはケツだけ星人とか、ゾウさんとか多種多様だ。クレヨンしんちゃんが世界中で大人気ということは、彼の下ネタが世界中の人々に受け入れられていることを意味し興味深い。やはり下ネタは人種や国家など超越して、動物的な次元で人々を根底からつないでいくのだ。
・下ネタが面白いというのは本当か?
下ネタが世界中の人間に大人気なのはもはや明らかな事実であるが、ぼくが思うのはそんなに下ネタって面白いのかということだ。誰もが隠しているけれど存在するのだとわかりきっている動物性を、共有し明らかにすることは確かに面白いし楽しいことだが、それはわかりきっていることが明らかになっただけ、最初から暴かれた嘘が暴かれただけのことであって、ものすごく意外で感動的な発見があるような会話とは少し趣が異なるような気がする。下ネタはそうだったのか!というような感動よりも、やっぱりそうだよねというわかりきった秘密の共感の方が強い傾向にあり、あまり刺激的ではない。
ぼくが下ネタってそんなに面白いものだろうかという思いは、医者として働き始めてからさらに強まっていった。面白いのか疑問に思うよりも、下ネタが話題にすることってとても大切なことではないかと思い知ったからだ。
・健康な尿道や肛門をなくして初めてそのありがたさに気がつく
下ネタは大抵人間の生殖器周辺のことをおもしろおかしくネタにしている。クレヨンしんちゃんでもネタにされるのは生殖器やお尻やそれにまつわる排泄や生殖に関することだし、それはどの世界でも変わらないだろう。しかし生殖器やお尻の大切さが、医者になって働くととてもよくわかり、とてもそれを笑いの対象だなんて思えなくなるのだ。
みんなそれが楽しくて笑っていられるのは、健康に働く生殖器や肛門が自分に備わっているからなのだ。そんなのはあって当たり前であるという、それを前提として愉快な下ネタは展開されていく。しかし生殖器や肛門が人間にとってどんなに大切かを意識して主張する者はきわめて少ない。
生殖器は生殖の他に尿の排泄も担っており、尿や便の排泄は人間の生命維持にとって非常に重要な機能だ。ぼくたちは排泄を普段何気なくやっているが、排泄はいくつもの神経と筋肉が複雑に絡んで起きる現象であり、その詳細を知ると排泄が一種の神秘的な行動にも思えてくる。
男性の8割は老人になると前立腺が肥大し、排尿がしにくくなったり残尿感が残ったりするようだ。前立腺とは尿道を囲うように存在している男性に付属する臓器で、これが肥大すると尿道を圧迫し、尿が尿道を通りにくくなる。中には尿が完全に出なくなるという患者さんもおり、そんな人は苦しみながら救急外来を訪れ、管を尿道に通して排尿するという導尿という処置を施さなければならない。そんな患者さんが苦しんでいる姿を見ると、ああ、今自分は何の不自由もなく排尿できていてなんて幸せな境遇にあるのだろうと、当たり前だと思っていた自分の状態に感謝することもある。
肛門だって、クレヨンしんちゃんではケツだけ星人などと言って笑われているが、とても重要な臓器だ。肛門があって排泄できることなんて当たり前だとぼくたちは感じてしまうが、肛門がない人も世の中にはいるのだ。それは肛門周辺の癌の病気にかかり、手術で肛門を摘出してしまったような人々だ。そういった患者さんは肛門を使って自分で排泄ができないので、お腹の皮膚を切開して人工肛門という袋をそこから大腸に繋げて取り付け、人工肛門に溜まった便は自分で捨てなければならない。肛門を摘出し人工肛門となった患者さんを見ていると、自分の意思で便の排泄を自由に調節できる肛門という臓器のありがたさを感じずにはいられない。普通に肛門を使って排泄できるということがなんてありがたいことなんだろうと、またしても健康というもののありがたさを感じてしまうのだ。
・下ネタの臓器は決して下劣なんかじゃない
生殖器も、尿道も、肛門も、人間の生命活動を営む上でなくてはならない非常に重要な臓器だ。その重要さは、他の臓器とまったく変わらないし、かけがえがない。しかしぼくたちは生殖器や肛門のことを「下ネタ」だと言って滑稽なものだと見なしたり馬鹿にしたりする。しかしこの下ネタの「下」という名付けはどういう意味があるのだろうか。他の臓器に比べて劣っている、下劣という意味だろうか、それならばなんと愚かしい名付けを行なっていることだろうと思う。
生殖器や尿道や肛門のとてつもないありがたさに気づくのは、多くの人のそれらがうまく機能しなくなる老人になってからだろうか。その役割の重要性や、神秘性に気づくのは人生の終わり周辺の段階だろうか。そして人々は思うのだろうか。これまで散々「下」などと馬鹿にしてきて、笑ってきてすまなかったと。
たまたまぼくは医者という職業についたので、それらのありがたさにかなり早い段階で気づくことができた。若いうちの健やかな自分の肉体を、当たり前だと思わずとてつもなくありがたいものだと感謝できるのは、医者という職業の利点だろう。