「もう年だから」は頭の悪い言い訳!年齢で自分自身を卑下してもいいというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

「もう年だから」は頭の悪い言い訳!年齢で自分自身を卑下してもいいというのは本当か?

・クレヨンしんちゃん「やれやれ…いい年をして」
・論語における年齢にまつわる孔子の教え
・「自分はもう若くない」と自分自身を卑下してもいいというのは本当か?
・今の自分は最も老いた者でもあり、最も若く健康な者でもある
・ぼくが「自分はもう若くない」と言う人を頭が悪いと思う理由

・クレヨンしんちゃん「やれやれ…いい年をして」

小さい頃クレヨンしんちゃんのアニメを見ていると、しんのすけがみさえに対して「ふーやれやれ…いい年をして…」などと言ってみさえをからかい、怒ったみさえからお仕置きされるというシーンをしばしば目撃した。子供の頃のぼくはこの「いい年」という言葉の意味がわからずに、お母さんに「いい年」とは何なのか質問した。彼女によると「いい年」とは特定の決まった年齢を指しているわけではないが、大人になったくせにその年齢に相応しくない振る舞いをしていると「いい年をして…」と見下されてしまうのだそうだ。

その時ぼくは、人間社会では「この年齢になったらこうあるべきだ」という何となくの規範が存在しており、そこから大きく外れていたりあまりに子供染みたりしていると人々から非難される傾向にあるということを直感的に感じ取った。たとえば何歳までに労働していなければおかしいとか、何歳なのに童貞を卒業していないなんて恥ずかしいとか、何歳なのに結婚していないなんてけしからんという固定観念が無意識に社会の中で共有され、人々を支配し、焦らせ、突き動かしながら操っているようにも感じられた。

このように明確に決められているわけでもないのに何となく亡霊のように人間社会を支配している年齢の規範が、クレヨンしんちゃんという子供向けのアニメの中にまで顔を出し、見ている子供たちも「いい年をして…」などと言われないように気をつけようと潜在的に思わされてしまうという点で、年齢の規範は大人から子供へと確実に受け継がれていると言えるだろう。

 

 

・論語における年齢にまつわる孔子の教え

儒教の始祖である孔子は、論語の中で年齢にまつわる次のような教えを説いている。

吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し
三十にして立ち
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳従(したが)う
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず

訳:私は15歳にして学問を志し(志学)
30歳で自立し(而立)
40歳であれこれ迷わず(不惑)
50になって天命をわきまえ(知命)
60になって人の言葉が素直に聞かれ(耳順)
70になると心の思うままにふるまって道を外れないようになった(従心)

日本人が「いい年をしてこんなことをやってはならない」「何歳になったらこうあらなければならない」と年齢に思考を支配され、やたらと年齢に固執するのは、古代にこのような儒教的教えが中国大陸より伝わってきた歴史も関係しているかもしれない。

 

・「自分はもう若くない」と自分自身を卑下してもいいというのは本当か?

またそのせいか日本人の中には「もう〜歳なのだから若い頃のように新しいことに挑戦できない」だとか「もう〜歳だから自分の好きなようには生きられない」「もう〜歳だから我慢して常識的に生きなければならない」などと言って「自分はもう年だ」「自分はもう若くない」と自分を卑下するような人が多い傾向にあるように見受けられるが、なんて愚かしい考え方だろうとぼくは心の中で密かに感じている。

自分自身に「もう若くない」と呪いをかけておいて、自分の行動や思考を制限するなんてせっかくの尊い生命の非生産的な無駄遣いだ。無限の可能性に満ちた自分自身の生命を、どうしてもっと最大限燃え盛るように生き抜こうと思わないのだろうか。そこに「年齢的な常識」などという嘘か本当かもわからないような意味不明な抑制を設けて、一体どのようなメリットがあるというのだろうか。せいぜい世間に常識的な普通の人だと見做されるくらいだろう。しかし自らの根源から訪れる直感や情熱や衝動を差し置いて、他人の目や世間の常識を重要視する人生に真実の幸福が訪れることは決してない。

 

・今の自分は最も老いた者でもあり、最も若く健康な者でもある

「自分はもう年だ」「自分はもう若くない」というものの考え方をする人は、過去ばかりを眺めている。そりゃあ1日前の自分や1年前の自分、10年前の自分に比べれば、今の自分は年老いているし若さを失っているだろう。しかしだから何だというのだろうか。そんなことは時空を生きている限り当たり前の現象ではないだろうか。過去ばかり振り返っていると、必ず今の自分は最も若さを失った人間として物悲しく立ち現れることになる。

しかし過去は過ぎ去った時制なのだ。もう過去に戻ることもなければ、もはや過去にとらわれる必要もない。なぜならぼくたちがこれから生きていくのは、過去ではなく今という瞬間、そして未来だからだ。これは紛れもない真実だろう。そして今という瞬間、そして未来を眺めた時に人は、今が最も若く健やかで可能性に満ちた素晴らしい瞬間であることに気が付く。1日後の自分や1年後の自分、そして10年後の自分よりも、今の自分が確実に最も若いに決まっているからだ。

これは面白い現象で、ただものの見方を変えただけのことだ。過去ばかり眺めていると、今の自分はこれまでで最も年をとった老いぼれとして認識され「自分はもう年だ」「自分はもう若くない」とマイナス思考に陥り、年という根拠も薄弱な意味不明な概念に自らの行動を抑制されがちになるだろう。しかしこれから生きていくべき今、そして未来に目を向けた場合には、今の自分は最も健やかな若者として無限の可能性に満ち溢れているように感じられるのだ。これからの人生で今日が最も若くて健康ならば、今日からでもどんどん新しいことに挑戦していくべきではないだろうか。

全く同じ人生を歩んでいたとしても、ものの見方を変えるだけで思考回路がこんなにも変わってしまうのだ。過去ばかり眺め「自分はもう年だ」と自らのあらゆる行動を抑制していう人と、今と未来を見つめ「自分は今最も若い」という真実に気が付き自らの直感や情熱に向かって積極的に真っ直ぐ突き進んでいける人とでは、果たして人間としてどちらが魅力的だろうか、答えは言うまでもないだろう。そして人間として生きる上でどちらが幸福を掴み取る可能性が高いか、その答えすら明らかであるような気がする。

 

 

・ぼくが「自分はもう若くない」と言う人を頭が悪いと思う理由

ぼくが言いたいのは全く同じ人生を生きていても、考え方次第でこんなにも真逆の結果が生じてしまうということだ。そしてそれは人生の幸福感、思想、生きる姿勢へと反映されていく。

年齢という無根拠な呪縛から解放され、自らの直感や情熱に従って積極的に生きる姿勢を身に付けることができ、その結果生きる幸福を得られやすいというのなら、どちらの考え方を選べばお得であるかは目に見えている。それなのに真逆の選択をし、自ら進んで年齢の呪いを請け負い、他人の目ばかりを気にして自分自身の行動を制限し、不満と我慢が渦巻く不幸な世界へと足を踏み出す人の何と多いことだろうか。しかし自ら思考することなく、世間の常識に身を任せぼんやり生きているとそのような結末を迎えやすいのだろう。

どちらを選んでも料金なんて全くかからない。幸福になる道と不幸になる道が目の前に横たわっていて、自由に選ぶことができるのに、なぜ不幸な道を歩もうとする人々が絶えないのだろうか。その道が不幸だということが見えないということだろうか。これがぼくが「自分はもう年だ」「自分はもう若くない」と言っている人が頭が悪いなぁと思ってしまう最大の理由である。敢えて自分自身を不幸へと突き落とそうとするなんて、正気の沙汰とは思えない。今まで頑張って生きてきた自分自身に、申し訳がないと思わないのだろうか。

 

 

・年齢の関するその他の記事はこちら!

年齢にやたらとこだわる日本人のおかしさ!たかが数字によって人を判断してもいいというのは本当か?

マジで失礼で不快なハラスメント!女性が男性に年齢を聞くのはいいというのは本当か?

年齢という無意味な呪縛!「アラサー」「アラフォー」という言葉に支配されていいというのは本当か?

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事