あなたがブスだというのは本当か? 〜洗脳により欠落を作成され金を搾取される不憫な人々〜

 

頭が悪い、足が短い、英語が喋れない、給料が低い、毛深い、顔がブスなど、ぼくたちはもしかしたらさまざまな欠乏感に苛まれながら生きているかもれない。

あなたがブスだというのは本当か?

・永遠に植え付けられる欠乏と洗脳
・肉体的欠乏の考察
・絶対的な美
・自作詩「大いなる川」

・永遠に植え付けられる欠乏と洗脳

電車に乗っていると、さまざまな広告がぼくたちの目の中に飛び込んでくる。高学歴になるための塾の宣伝、英会話をマスターするための勧誘、毛深いことが劣っているという信念のもと勧誘される脱毛、顔がよくなれば幸福になれるかもしれないという魔法のような整形。ぼくたちは無意識のうちに、多くの金を儲けるための宣伝たちにさらされながら生きている。そしてその精神への影響力は、自分では気にしないつもりでもすさまじいものがあるに違いない。

電車を降りたら降りたで、また多くの宣伝にさらされる。行かなくても生きていけるのに行かなければ流行に乗り遅れそうな「〜展」の看板、今ある服で足りるのに今年の色だから持っていないと不安になるウィンドウショッピング、別にスーパーのお菓子とそんなに変わらないのに美しい装飾に日頃の不満が満たされてしまうデパ地下のお菓子、いずれもぼくたちの精神に深く入り込み、なにかぼくたちに欠乏感を与えて止まない。

ぼくたちは恒常的に欠乏感を植え付けられて洗脳されている。そしてその欠乏感を埋めるためにまんまと消費させられ、経済は回される。ぼくたちは誰かが大きな金が欲しいがために、精神に大きな風穴を開けられてしまっているのだ。なんてひどい仕組みだろう。そしてそれはこの街が続く限り、永遠に続いていく。

 

 

・肉体的欠乏の考察

しかし洗脳的に与えられている欠乏感は、よく考えれば勘違いであるところが大きい。

足が短いから劣っているというのは本当だろうか?いったいどのような理由からそのような発想が生まれて来るのか。たしかにあらゆる宣伝物は、足が長い人に服を着せて宣伝するが、実際に足が長いと魅力的だというのはすべての人々の思い込みではないだろうか。足が長いと何か生物学的にいいことでもあるのだろうか。足が長いと走るのが速いというのであれば、狩りなどに有利であり沢山の食べ物を確保できるため、たしかに女性から見て男性的に魅力的であり本能的に都合のよい存在だろう。しかし足が短くても走るのが速い人もいるし、足が速くても愚鈍だと獲物を獲れないし、第一今現在は狩りなど行わない。もしも飢饉に見舞われて命の危険にさらされたときに、足が長いことが何か役に立つだろうか。

鼻が低いのがコンプレックスというのも気がかりだ。鼻が低くて何がだめなのだろうか。それは鼻が低いことが悪いことであると広告たちに洗脳させ、整形業界が金を儲けるために仕掛けられている、ぼくたち民衆に対する罠なのではないだろうか。たしかに鼻が低すぎて呼吸ができないほどであり、それゆえにすぐに死んでしまうというのならば本能的に感じる生命的魅力は非常に低くなるだろうが、きちんと呼吸機能および生命機能が保たれているならば、鼻が低くても何ら問題はないだろう。むしろ、もしも大きなボールがどこからか飛んできたときに、鼻の高い人間は鼻に当たって鼻を損傷して死ぬ確率があるが、鼻の低い人はそのような可能性は低くなるので、もしかしたら生物学的には鼻が低い方が魅力的なのではないだろうか。

目が大きいのがいいというのもそうだ。目が大きくて視力がいいというのならば、狩りに有利であるから本能的に魅力的男性となるだろうが、目の大きさは視力には関係なかろう。むしろ目に虫が入って目を損傷する可能性が高い分、目の大きい方が生物学的に不利かもしれない。

肉体的洗脳というのはとかく、白人への憧れの部分が大きいのかもしれない。足が長く、鼻が高、目が大きいというのは白人を彷彿とさせる。しかし白人的なものがよいというのもただの思い込みに過ぎないだろう。ぼくの友人なども「やっぱり白人は様になってカッコいい」と言い放つことが多いが、ぼくはそれを聞くたびに違和感を感じる。白人にもたしかにカッコいいのはいるがカッコ悪いのもいるし、日本人にだってカッコいいのもいるがカッコ悪いのもいるし、結局同じだと思うのだ。それでも彼らのようにやたら白人に憧れを抱くのは、白人的なものが洗練されているという商業的な洗脳、もしくは敗戦後のなんらかの洗脳が成功している結果だろう。考えてみれば、原子爆弾でたくさんの一般の民衆と街を八つ裂きにされたのに、嫌うことも憎むこともせずにただ憧れるという感情を残すためには、勝戦国がどのような巧みな洗脳を施したのか純粋に興味深いところである。

そのような洗脳のなかった時代、たとえば日本人が初めて白人を見たときなどは、日本人は白人を鬼のような異界の者の絵として表現しており、そのようなまったくの前知識のない中で直感で感じた感性と、大きな洗脳の入り混じった現代の感性と、どちらが日本人の感性として真実だろうか。しかし今は強力な白人国家も、やがて移り変わりイスラム教の国々が強くなった場合には、日本人はイスラム教の人々のスタイルをカッコいいと見なしてまた経済を回すに違いない。

毛深いのがダメというのも非常に気がかりだ。この洗脳によりいったいどれだけの男性が欠乏感に苦しみ悩んだ挙句に、大金を払って脱毛に繰り出したことだろう。彼らは、女性の意見として「毛深いのはキモい」という本当に取ったんだか取らなかったんだか怪しすぎるアンケートとともに脱毛の必要性を説いた広告にまんまと洗脳され、自分が毛深いのは劣っているのだと思い込み、そして本当は大して必要でもないだろう脱毛のために自分が汗水垂らして働いた大金をまんまと支払っているのだ。ここまで来るともはや不憫すら思えてしまう。毛深いのがキモいというのは本当だろうか。毛が薄いという方がむしろ、男性ホルモンの放出がきちんと成されているのか不安になり、生殖能力の有無にも関わるので本能的魅力に欠けるのではないか。むしろきちんと自分は男性ホルモンを放出できる男性であり、生殖能力も非常にきちんとしているという本能的アピールになりはしないだろうか。もちろん洗脳された浮世において、この意見はずれていると言われても無理はないが、しかしたかが動物であるところの人間が、浮世の金儲けの宣伝に惑わされてこの大切な本能的直感を消失してしまうほど、商業的宣伝は強くはないし人間の本能的直感も薄弱ではないだろう。

顔がブスなんていうのはもう異様の極みである。顔が綺麗か汚いかなんて、時代の流行によって大きく異なっているのだ。それは日本の歴史を見てみれば容易にわかることではあるまいか。今の美人と平安時代の美人がまったく異なっているのは、日本人なら誰もが知っている事実である。この数年でだって、美人や可愛いの基準は木の葉の揺れるごとく移り変わっているだろう。美は移ろいやすいのだ。だから現代ではブスである顔も、すぐに時代が移ろえばかなりの美人になるかもしれない。

しかしいくら1000年後に美人と言われようが、今美人と言われて言い寄られて生殖して子孫を残さねばならないという本能的直感で生きているならば、整形するということは合理的なことかもしれない。しかしそれは、現代的な美を手に入れることではあっても、絶対的な、時代を超えても変わらない美を得るわけではないということを忘れてはならない。今という時代に適応して子孫を残すために、一時的で消費的な美を手に入れるのみである。

 

 

・絶対的な美

絶対的な美を与えられようとするならば、肉体では不可能だろう。肉体は老い朽ち、必ず骨になるからだ。

絶対的な美を求める者ならば、肉体ではないもの、物質ではないもの、目に見えないけれど確かに直感的に感じる自らの根源を、美しく研ぎ澄ましていく他はないだろう。抽象的な言い方であるが、これこそ直感で享受する感覚であり、それは自らの心をゼロの状態にして自分自身が空っぽの受容体とならなければ受け取れない感覚である。そして根源を研ぎ澄ますためには何が必要か。ぼくはそれが“創造”であるという答えを持っている。

 

 

・自作詩「大いなる川」

ぼくを欠乏していると
指さす者はだれ
ぼくを欠乏していると
そしる者はどこ

欠乏なんてしていないことを
ぼくは知っている
補うものなんてなにひとつないと
ぼくは知っている

満たされる感性と
豊穣な吐息に
おそれを植え付けられたものは反応する
そして欠乏させようと洗脳する

あなたがおそれを
植え付けられたように
ぼくにもおそれを
植えつけようというのね

けれど感性は揺らがない
この世にはない国へと旅立った
感性にあなたたちの声は届かない
徒労に終わると気がつきなさい

抱きしめてあげよう
植え付けられた欠乏を
抱きしめてあげよう
終わることのない悲しみを

この世で補うために植え付けられた
かわいそうな心たちが
家を失い彷徨っている
拠り所がなくて嘆いている

聡明な者たちは
既に渡り終わっている
彷徨う者が見ないうちに
既に川を 渡り終わっている

 

 

 

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