ぼくたちはさみしい時や悲しい時に、誰かに聞いてもらいたくなる。
悲しみを他人に話せば楽になれるというのは本当か?
・弱った心がすがりつく他人
・誰かに話してしまったならば
・根源を持つ苦しみ
・自分を救えるのは自分しかいない
・弱った心がすがりつく他人
ぼくたちは誰もが、誰にも言えないさみしさや悲しみを抱えている。それは必死に生きれば生きるほどに、真剣に世界に向き合えば向き合うほどに、濃厚になりゆく孤独を生み出すだろう。
誰にも言えないのに、誰かに言いたい。まだ強がっている気力がある時には、隠しきれていたものが、心が弱く脆く、まるで薄氷のように脆弱になってしまうような夜に、ぼくたちはふと誰かに話したくなる。
話しの宛ては信頼できる人間であるとは限らない。愛する家族、信頼している親友だからこそ、言えないこともあるだだろう。もしかしたら旅のさなか、通りすがりのどうでもいい奴だからこそ、甘えて話してみたくなることもあるだろう。
心がボロボロになっている時、どうしようもなく弱っている時に、人は誰かに、自分の弱さや脆さを明らかにしたくなる。たとえそれが本望ではなくても。
・誰かに話してしまったならば
誰かに話してしまえば、ぼくたちはさみしさが拭い去られるような気分になる。ひとりで思い悩んでいたことを、誰かに共有し聞いてもらうだけで、すっと心が軽くなることがある。それは人間の心の真実だろう。
男に悩みを打ち明けたなら、どうにかして解決方法を探し出そうと頭を働かせるに違いない。男というものは弱っている人の悩み事を打ち明けられた時、どうにかして“解決”しなければならないと必死になり、つい思いつきの方法を無理矢理に捻出してしまうものだ。
逆に女に話したならば、心で受けとめ静かに傾聴してくれることだろう。傾聴し、共感を呼び覚ますことこそ、女の対応の傾向であり、解決方法が決して見つからずとも、それにより少しは孤独の闇が薄まった気がするだろう。
弱った時に、悩みを打ち明ける人物として、男の性質と女の性質の、どちらをも兼ね備えた人間が望ましいのかもしれない。それは肉体的な性別の問題ではなく、精神の色彩のグラデーションの比率に依拠するものである。
完全に解決法だけを目指す精神ではなく、完全に傾聴だけにとどまるわけではなく、そのちょうどいい塩梅の中間に居住しているような精神。肉体の男性にも女性の精神は宿り、肉体の女性にも男性の精神は宿り、そのどちらをも携えながらあらゆる人間は人生という旅路を継いでいるのだ。
・根源を持つ苦しみ
しかしぼくのこれまで生きてきた経験からすれば、他人に話して楽になることなど単なる幻想に過ぎない。誰かに話してみたところで、その時は一時的に、少しは楽になれたような気分になっているが、自らの苦しみの根源が自分の奥底から除去されていない限り、その根源があとからあとから徐々に心を苦しみで再度満たし、結局は同じような苦しみの海でもがいているような状態に戻ってしまう。
もしも他人に話して本当に完璧に楽になれる心があったとするならば、その悩みは自らの奥底に根源を持たない、表層的な悩みだったのだろうと推測される。たとえどんなに信頼のおける他人に打ち明けたとしても、通りすがりの旅人に語ってみたとしても、諸悪の根源が自分の中に巣を作っている限り、他人に話して苦しみから逃れることなどできるはずがないのだ。
それではこの世で他人を頼りとできないような、自分にとって根源的な苦しみを、人生においてどのように扱うべきなのか。このまま誰にも言わずに苦しみ続けて、精神を摩耗させて消耗させて人生は終わりだろうか。
・自分を救えるのは自分しかいない
ぼくの答えは“自分を救えるのは自分しかいない”ということだ。
自らの生命に深く根ざしている苦しみであればあるほど、宇宙全体から降りかかってくるような孤独であればあるほど、ぼくたちはその苦しみや孤独を、自分自身で取り扱わなければならない。もっと言えば、その苦しみさえ、その孤独さえ、自分自身を形成する要素に他ならないのだから、それほどに根源的な神聖な聖域を、他人に委ねることなどできはしない。
自分自身を救うためには何が必要か。それは自分自身でさがし出さねばならない、いわばこの生命のテーマと言っても過言ではないだろう。ぼくたちはそれぞれに、自分自身にしかない救済方法が、この広く繊細な世界に潜んでおり、その秘密を解き明かすように、旅を続けていかなければならないのだ。
そのヒントは例えば宗教の中に見出してもいいし、芸術の中に見出してもいいだろう。もっと言えば万物すべてに見出すことが可能かもしれず、そのためには自分自身の精神を、空っぽの聡明な器、受容体として、常に澄明に磨いておかなければならない。宗教でさえ、芸術でさえ、学問でさえ、行き着く目的地はひとつなのだ。ぼくは芸術の本を電車の中で読み、次に禅の本を読み、根本的には同じことを言っていることに感動した。
本当にこの世で真理を追求するものならば、ぼんやりと時の過ぎるままに生きているわけにはいかない。息もできないくらいに、真剣な眼差しで、不動明王のような顔つきで、まるで炎を燃やすように生きなければならない。自分自身をどんな聡明な他人の僧侶も救ってはくれないのだ。愚かしく、他人を頼りとしてはならない。自分自身を救うことができるのは、ただ自分自身という神聖な感性である。
この世で
自らを島とし
自らをたよりとして
他人を頼りとせず
法を島とし
法をよりどころとして
他のものをよりどころとせずにあれ
お釈迦様も死の間際にそのようにおっしゃったらしい。