男が生きてきて感じた男性差別の具体的な11例!男女差別では女性だけが差別されているというのは本当か?

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男性が女性を差別するように、女性も男性を大いに差別している。

男が生きてきて感じた男性差別の具体的な11例!男女差別では女性だけが差別されているというのは本当か?

・女性だけが差別されているというのは本当か?
・男湯に堂々と女性が入ってくるというセクハラ
・「混浴」と「女湯」のみで「男湯」は設置されない差別
・「女性専用車両」しかない意味不明な世の中
・映画のレディースデーしかない明らかな男性差別
・女性の髪型は自由で男性は厳しく制限される
・社会人の男性の服装は女性に比べてひどく制限されている
・男は不潔で臭いというファブリーズの洗脳CM
・女性の悪口は言ってはならないのに、男性の悪口はいくら言ってもOK
・デートでは男性の方が経済的負担を強いられる差別
・沖縄の聖地には女性しか入れない聖域がある
・男のくせに差別とか言って騒ぐなんてみっともないと非難される差別
・男性も女性のように大いに差別を受けて苦しんでいる
・「男女差別をしないことが正しい」という思考停止の真理のない正しさ
・中島みゆき「清流」

・女性だけが差別されているというのは本当か?

「男女差別」をしてはならないと世の中で言われて久しいが、男女差別というと、女性が男性から差別されていることを指すことが非常に多い。女性が男性から受けた差別を並べ立て、女性が男性から受けた差別を発表し、男女差別をなくしましょうと主張している場合がほとんどだ。逆に男性が女性から受けた差別について言及したり、主張したりする場面はかなり少ないと思われる。人の世の中を生きて状況を冷静に眺めれば、これに異論を唱える人はいないだろう。

それゆえに男性だけが女性を差別し、女性が男性を差別していないかのようなイメージが世の中で蔓延しているが、これこそとてつもない男女差別だと言えるだろう。男性だってたくさん女性から差別を受けているのだ。ここでは男性差別の例を見ていこう。

男性差別の例を見ていくに当たっては、世間一般の常識にならい「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしてはならない」という絶対的正しさの観点から考察を進めて行こうと思う。(ぼく自身の考えはすべての例示終了後に記載するが、それまではこの前提条件のもとで文章を書き記す。)

 

 

・男湯に堂々と女性が入ってくるというセクハラ

ぼくが日本一周の旅を通して経験したのは日本各地どこであっても、温泉や銭湯の男湯に、女性の従業員が堂々と入ってくる文化があるということだった。もちろん誰でもわかるように、これが男女逆なら大問題で警察に逮捕されるだろう。しかし全く同じことをしていても、女性が男湯に入った場合は逮捕されないどころが平然としていることが許されているなんて、男女差別に他ならないのではないだろうか。

男湯は女性従業員が入ってきたときにはかなり不穏な空気に包まれる。男性という同じ肉体を持つ者同士だけでリラックスして気兼ねなく温泉に入っていたのに、いきなり異なる肉体を持つ性別の人間(女性)が出現し、違和感やいたたまれなさが半端ないからだ。しかし普通に考えればとんでもないセクハラのこの状況に直面しても、女性のように騒いでセクハラだと主張することもなく、男性たちがじっと我慢していた様子は印象的だ。

 

・「混浴」と「女湯」のみで「男湯」は設置されない差別

温泉という観点から言えば、混浴の温泉においても違和感が残った。日本の混浴の温泉には、「混浴」と「女湯」だけが設けられており、「男湯」がない場合が非常に多かったのだ。どうして女性だけは女性専用の温泉が設けられているのに、男性専用のものはないのだろう。明らかに男女差別である。

本当に男女平等の社会を目指すなら「混浴」と「女湯」と「男湯」を設けるべきだ。男性だけが男性のみのスペースを与えられず、同じ肉体を持つ者同士だけでリラックスしてのんびり入れる空間がないなんて理不尽だ。「混浴」と「女湯」しかない理由としては、女性の裸体は異性に見られず隠されるべきであるという感覚と同時に、男性の肉体は男女の誰に見られても特に構わないだろうという感性が見てとれる。

しかし絶対的な正しさとして男女平等でなければならないのならば、男性の肉体も女性の肉体も平等であるべきだ。男性の肉体も女性の肉体も等しく見られるべき、もしくは等しく見られないべきだと思想を定め、その思想にのっとり「混浴」と「女湯」に加えて「男湯」も追加すべきである。

 

・「女性専用車両」しかない意味不明な世の中

同じような例としては電車の「女性専用車両」も挙げられる。なぜ女性だけ特別に車両が丸々あてがわれているのだろうか。どう考えても男女平等ではない。女性の方が痴漢に遭いやすいとか、女性の方が男性より力が弱いとか、様々な理由が言及されているらしいが、限られたひとつの電車という空間において男性が乗ることのできない空間が成立し、男性の乗ることができる空間が狭まることは男性にとってかなり不便だし、不快だし、極めて不平等だ。痴漢で困っている女性もいるというのなら彼女たちに配慮し、「女性専用車両」と同じ車両の数だけ「男性専用車両」を設けるべきではないだろうか。男性の中にも女性から痴漢だと間違われることが恐怖で、男性専用車両に乗り込みたいという人も一定数いるはずだ。

「女性専用車両」を男性差別だと怒っている人は非常に多いらしく、鉄道会社のホームページにも「よくある質問」というページをわざわざ設けて次のように回答している。

Q.女性専用車両は性別による差別ではないのですか?

A.女性専用車両については、女性のお客さま及び男性のお客さまのどちらにも旅客運送契約上の義務が発生するものではなく、任意のご協力のもとに行っているものであり、強制力を帯びないことや導入した目的の趣旨等から差別には当たらないと考えています。

なんと「女性専用車両」というのは任意で成り立っており義務でも強制でもないので、男性が乗っても大丈夫なので差別ではないという回答だった。男女平等を目指しているはずなのに「男性専用車両」ができないこのおかしな社会において男女平等をきちんと保つためには、男性も女性も共に協力して「女性専用車両」に乗り込むしかないということだろうか。

 

・映画のレディースデーしかない明らかな男性差別

ぼくは全く映画を見ないので知らなかったが、映画館には「レディースデー」という女性だけ料金が安くなる日があるらしい。では当然「メンズデー」もあるのだろうと探してみたが、その映画館にメンズデーはなかった。調べてみるとレディースデーはあるのにメンズデーがないという施設は非常に多いらしい。ぼくはそれを知って驚愕した!こんなにもあらかさまなひどい男性差別が世の中で平然とまかり通っているなんて、開いた口が塞がらなかった。

どうして映画好きの男性たちはこの明らかな男女差別に抗議しないのだろうか。そして男女差別をなくすべきだと言う世の女性たちはこれを見てなんとも思わないのだろうか。いつものように男女差別反対と、男性のためには叫んでくれないのだろうか。もしかして「男女差別反対」とは、女性が都合の悪い場合に女性の都合をよくするためだけの魔法の言葉であり、女性が得をするためだけに使われる単なる道具のような言葉で、男性が差別されていて困っていても女性に都合のいい場合には無視なのだろうか。

もし仮にこれがメンズデーだけ存在し、レディースデーがなかったとしたら、女性たちは怒って絶対に反乱を起こすだろうと誰もが予測できる。自分がされて嫌なことは男性にもしてはならないことは、小学生だってわかる理屈である。すなわち女性がされて嫌なことは、男性にもすべきではない。

 

・女性の髪型は自由で男性は厳しく制限される

社会を生きていても差別を感じ、生きづらいことは多い。まずは髪型についてだ。女性は割と自由に髪を染めたり、伸ばしたり短くしたりするのを許容されている風潮があるが、男性は女性に比べて明らかに髪型や髪色を制限されている傾向にある。一般社会を生きる人で、これに異論を唱える人はいないだろう。男性だって自分の好きな髪色をしていたいし、髪を短くしたい人もいれば髪を長くしたい人もいるはずだ。しかし男性は黒色しか許されない場合が多く、髪も短くないとならないと決めつけられ強制される。

なぜ男性だけ自分の髪を制限されなければならないのだろうか。明らかな男女差別である。本当の男女平等を目指すなら、男性もあらゆる髪型に寛容な風潮を作るか、あるいは女性が男性ほどに髪型を制限されるべきである。

 

・社会人の男性の服装は女性に比べてひどく制限されている

同じことは服装にも言える。職場での女性の服装は、男性に比べて寛容だ。女性は自分の好きな服を選択して選べる幅が広いのに対して、男性の場合はどこの民族衣装なのかわからない変な「スーツ」という服を着用することを義務付けられている。男性はみんな同じ制服のようなスーツを着なければならず、服装で自由に自分自身を表現することを許されない。明らかな男女差別の例がここにも見受けられるが、誰もこれに異を唱えている人はいない。

男女平等を目指すものならば、男性もスーツという変な社会の制服を脱ぎ捨てて、もっと自分らしさを表現できる服装を女性のように追求すべきであるし、もしくは女性も男性ほどに服装を制限されて自分を主張せず地味に社会に馴染むべきである。

 

・男は不潔で臭いというファブリーズの洗脳CM

 

ファブリーズのCMはとても不快だ。「ただいまー」と疲れて帰宅した男の子とお父さんを、家の中で女の子とお母さんが待ち構えている。女の子とお母さんはまるで監視員のように厳しい表情で、最初から男性たちを非難しようと決めてかかっているかのようだ。そして男性たちが家に入る前に、ファブリーズをふりかけろと高圧的に命令する。

 

男の子が帰宅してそのままソファに座ると女の子がヒステリックに「あー!!!!!!そのまま座った!!!!!」とものすごい極悪人を発見した警察官のように責め立て、どうしてファブリーズをしないのかと言わんばかりに睨みつける。

なんでたかがファブリーズという消臭剤ごときをかけないからと言って、男性たちはこんな風に犯罪者のように見なされて女性からヒステリックに非難され、攻撃されているのか全くもって意味不明である。これはつまり男性というものがあまりに臭い生き物だから、ファブリーズをかけないまま家に居座ることが悪だという宣伝なのだろうか。それともウイルス除去効果があるからこのコロナ禍においてファブリーズをかけない者はウイルスを広める悪人だというアピールだろうか。はっきり言って薬でもないくせにウイルスがきちんと除去できるはずがない。ファブリーズのホームページにも特定の病気を予防はできないと明記されている。とすれば女性たちのヒステリックさの原因は、やはりあの男性たちが臭いということなのだろうか。

このCMはまさに男たちは臭い生き物で、臭くない女たちは家庭内でその臭い男たちの忌まわしい匂いを消去する正義の役割を果たしているという偏見に満ち溢れている。「臭い」という著しくマイナスなイメージを男だけに押し付けているとんでもなく差別的で偏見に満ちたCMだ。「男は臭い」「男は悪者だ」「女は臭くない」「女は正義だ」という差別に満ちたこの気持ちの悪いCMが、どうして非難もされずテレビから今でも垂れ流されているのか不思議でならない。これが男女逆だと考えてほしい、絶対に放送できない悪意と偏見と差別に満ちたCMだとすぐにわかるだろう。

しかし世の中というのは、女性が差別されたり悪者になることにはとても敏感に反応するのに、男性が差別さたり悪者にされても何も気にせず平然と暮らしている。まさに男性にとって生きづらい男性差別の社会である。男女平等を目指すなら、女性が差別された時と同じくらいのヒステリックさで、このような男性が差別されているCMをやめさせるべきである。

 

・女性の悪口は言ってはならないのに、男性の悪口はいくら言ってもOK

女性の悪口は絶対に言ってはならない、男性の悪口はいくら言っても構わないという風潮の例は数多く枚挙にいとまがないが、その例のひとつがこの商品だ。

「女性はそれNGです!」「男の胸のスケ・ポチ キモイ!」という文章とともに、背景には「不快」「キモイ」「変態」「アウト」「ダサ」「無理」「ウゲ」という男性に対する辛辣な言葉が並んでいる。

これは正常な人間が発売できる製品なのだろうか、甚だ疑問だ。こんな男性に対する悪意と偏見に満ちたパッケージが、市場に流通されることを許されたという人間社会の感性が理解できない。これを商品として出そうとする途中で、誰かこんなにひどい男性差別的なパッケージを出すなんて信じられないと異議を唱える人はいなかったのだろうか。言い切っておくが、これも男女逆だったら絶対的にアウトである。女性がされても嫌なことは、男性にもしてはならないことはもはや明白なのに、男性の悪口はどんなに言っても構わないという社会の下劣な前提条件が確かに存在すると、このパッケージが教えてくれているような気がする。男は思っている以上に無神経な女性からの否定の言葉にさらされ、傷ついているに違いない。

 

・デートでは男性の方が経済的負担を強いられる差別

デートをした場合、男の方が奢らなければならないという一般的なシステムも意味不明である。もはや何ひとつ説明する必要もないほどに分かり切っていることだが、男女平等なのだから男性も女性も同じ金額を出すのが当然である。現在は女性だって社会進出し、労働し、お金を稼いでいるのが一般的な世の中なったのだからなおさらのことだ。まさか自分に都合のいいときだけ男女平等という観念を綺麗さっぱり忘れ去り、お金を払わずに店を出る女性がこの世にいるはずがない。いつも男女平等という正しさをふりかざして生きている者ならばなおさら、金額の半分をきちんと支払うべきである。

 

・男性は労働する生き物だという偏見

男女差別はよくないことだから男女差別をなくし女性も社会進出できるようにしようという意見は一見まともそうだが、意味不明でもある。なんで女性の社会進出のことばかりに焦点が当てられているのだろう。男性の視点はどこに行ったのだろか。「男性が労働し、女性が家にいる」という状況が不満で、女性が労働したいというムーブメントを起こすなら、それと同時に男性にも平等に、労働せず家にいて家事をする男性が許されるべきだという動きが起こってもいいはずである。なぜいつも男性は置き去りなのだろうか。

労働したいと主張する女性が多いのと同様に、家にいて家事をしたいと主張する男子の意見を尊重するのは大事なことだ。しかし男性の場合は変わらず「男性=労働すべき生き物」という社会通念から抜け出せていないし、それがいけないことだと主張される動きもない。なぜ男性ばかりが労働しなければならないのだろう。女性が労働したいと主張し社会進出が進んでいるのだから、女性が働く代わりに家で家事をする男性がいてもいいではないか。労働する女性を尊重したのと同様に、男女平等なのだから、労働せず家事だけをする男性も尊重されるべきである。男だって家で家事を任され、労働して会社からお金を持って帰ってくる女性を待つ「主夫」のような立場になってもいいはずだ。

 

・沖縄の聖地には女性しか入れない聖域がある

沖縄の離島には、女性しか入れない聖域が数多くある。これは琉球王朝では神事を主に女性が担っていた名残があると思われる。しかし当然これも男女平等に反する。島の中で男性だけが進入禁止の場所があるなんて、どう考えても理不尽だ。男女ともに同じ広さの領土の中で、同じ広さの生活の行動範囲を保つべきである。

和歌山県の世界遺産の高野山だってその歴史上ずっと女人禁制だったが、これからは男女平等だからと明治時代に女性が入山することを許されたのだ。なぜ女性ばかりが男女平等の名の下に女人禁制を撤廃されて自由に行動できる範囲が広がっているのに、男性が進入禁止のエリアはそのままで残され、入ることができないままなのだろう。男女は平等なのだから全ての土地は男女ともに入ることができるべきだ。

 

・男のくせに差別とか言って騒ぐなんてみっともないと非難される差別

上記のような様々な男性差別を「男のくせに差別とか言って騒ぐなんてみっともない」と少しでも感じる感性があるとしたならば、それもまぎれもない低俗な差別意識である。女性だけが差別だと騒ぐことを許され、男性だけが差別の苦しみや不快を言い表すことを抑圧されるなら、これほど不平等なことはない。

しかしこの「男のくせに差別とか言って騒ぐなんてみっともない」という観念があるからこそ、男性たちは上記のような男性差別を我慢して口を閉ざしてしまい、男性差別は世の中では全く目立たず、逆に主張の激しい女性差別ばかりが目立つ結果となるのだろう。しかし男女平等が絶対的に正しいのだから、女性が騒いでいるのと同じくらい、男性も女性や社会から受けるひどい差別について遠慮なく騒ぐべきである。それでこそ誰もが願っている平等が実現するだろう。

 

・男性も女性のように大いに差別を受けて苦しんでいる

とここまでヒステリックにいろいろと書いてきたが、これは「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」と仮定した場合の思考回路であり、ぼくの本来の思想とは全く異なっている。

しかし上記に書いた「男性差別」が存在するということは否定することのできない揺るぎない事実だ。世の中では女性差別ばかりがとりだたされているが女性差別だけではなく、逆に男性も大いに差別を受け、生きにくい世の中を必死に泳いでいることを理解すべきである。

上記のすべての男性差別は、男女を逆にすれば絶対に許されないことばかりだ。そしてそれこそが、明らかな男女差別がまだ社会に残存していることを示している。男女をひっくり返せば男女差別だと必ず騒がれるようなひどい仕打ちを、今後は男性に対してすべきではないということだ。男性というのはヒステリックに騒ぐことが美德に反すると感じ、どんなにひどい仕打ちを受けても我慢して耐えているいじらしい生き物だ。男性が差別だと騒がないから自分たちは差別なんて全くしていないと信じ込むのは、無神経で傲慢で厚かましい態度だと反省すべきである。

 

 

・「男女差別をしないことが正しい」という思考停止の真理のない正しさ

一般的な常識として「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」と仮定した場合の思考回路を上に長々と書いてきたが、ぼく自身上の文章をなんてヒステリックな文章なのだろうと感じながら書いていた!「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」という前提で話を進めていくと、かなりトンチンカンで常識外れで違和感満載の文章ができあがる。それはすなわち、「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」という前提が間違っていることを意味しているのではないだろうか。

ぼく自身の意見としては男と女は別の生き物なので、永遠に理解しあえず、男は女がよくわからないし、女も男がよくわからないので、差別は絶対になくならないだろうと感じる。お互い正体不明のよくわからない生き物に対して、偏見や差別心を持たないで共存することは不可能だ。現に今の世の中だって男が女に偏見を持ち差別し、同じくらい女も男に偏見を持ち差別し、お互いに差別し合いながら生きているお互い様の状況ではないだろうか。しかしそれでいいのだ。分かり合えないなら分かり合えないなりに、異なりすぎて意味不明だからこそどうしようもなく生まれる差別や偏見を持ちながらでも、どうにか可能な限りわかり合うようにお互い努力し、わかり合えない中にも相違点や偏見の妥協点を見出し、つり合いのとれた力学地点で、お互い協力し合って生きてきたのがこれまでの人類の歴史ではないだろうか。

それゆえに今の社会において一般的な常識として叫ばれている「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」という意見は、男と女のどうしようもなく分かり合えない運命を考慮されない、浅はかで思考停止な意見だと感じる。上の男性差別の例も、男性差別の存在もまぎれもない事実だが、そこに「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」という意見を介入させ解決策を見出そうとすると、上記のようになんだかトンチンカンなことばかり言っているように感じないだろうか。

男と女は違う生き物なのだから、ヒステリックにならずにお互いに偏見や差別心を抱いているくらいでちょうどいいし正常な状態なのだ。はるか遠くのよくわからない異国の人々と交流しているようなものだと諦め、密かな偏見や差別心を持ちながらでも、お互いの文化や風習を尊重し仲良く生きていくのみである。男女がお互いに同じ量ほどの偏見や差別心を持っているのだから、それこそが男女平等であると言える。

その観点から言えば女がされて嫌なことを男にもすべきではないという意見も正確ではないのかもしれない。男と女は別の生き物なので、されたら嫌なことも完全に異なるからだ。女がされた嫌なことを男が嫌がるとも限らないし、男がされて嫌なことを女が嫌がるとも限らない。長年の人類の歴史において直感された男と女の違いが、上記のような男性差別を生み出しているのは明白だが、だからといってあまりにヒステリックで過剰で行きすぎた女性だけが得する政治的男性差別がいくつか存在するのも事実だろう。野生的直感からくるどうしようもない男女差別だけを残しつつ政治的男性差別は除去し、「女が得する分量」と「男が得する分量」がちょうど同じくらいになるように、男女差別の具合を調整すべきではないだろうか。

逆にどこからか植え付けられ洗脳された「いかなる理由があっても絶対に男女差別をしないことが正しい」という過激で的外れの思考停止の思想は、世の中における男と女の分裂を生み、社会の調和と平和を乱す道具として使われているのではないだろうか。いかにも正しそうに聞こえる「男女差別をしないことが正しい」という思想は、実は人間社会を分断し、人々の関係をギスギスさせ、自由に表現することを妨げ、結果的に生きづらい世の中を生み出しているだけなのだ。上の男性差別の例を読んだ際にも、その違和感や思想の歪みにイライラし男女の間に憎悪の感情を抱いた人は多いことだろう。

本当にその思想が正しいのなら、人の世に平穏な暮らしと平和がもたらされるはずだ。しかし今の社会を観察すると実際にもたらされるのは、男が女を疎ましいと感じ距離を取り、女は男をひどくヒステリックに憎むという分裂した社会である。そのような悪しき状況を生み出し、世の中の一体感や共存するパワーを弱体化させる思想が、はたして正しさであると言えるのだろうか。

愚かな思想に惑わされず、洗脳され植え付けられた思想が本当に正しいのか、思考停止せずに0から自分の脳で考え、思考を蓄積した結果として受け入れるか打ち捨てるか、自らの感性によって判断すべきだ。ただ植え付けられた思想が自分の生きるのに都合がいいからと、他人を批判したり非難したり攻撃するのに便利な道具だからと、正しさのバリアに守られながら思考停止の思想をふりかざすだけでは、この世の真理を見抜くことは決してできない。

 

 

・中島みゆき「清流」

なぜ競わなければ いられないのでしょう
男と女は敵じゃないわ

 

 

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男女差別の例をちびまる子ちゃんで徹底解説!男女差別をしてはいけないというのは本当か?

 

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