買い物という行為の先に、本当に幸福はあるのだろうか。
売る者と買う者の悲しい運命!商人と消費者の幸福が一致するというのは本当か?
・「買い物」はぼくたちの日常生活において必要不可欠な行為
・旅においても「買い物」は常に必要な行為だ
・買い物という行為は「買う人」と「売る人」によって成立する
・商人と消費者の幸福が一致するというのは本当か?
・買い物という行為によって真実の幸福にはたどり着けない
目次
・「買い物」はぼくたちの日常生活において必要不可欠な行為
「買い物」は、ぼくたちの日常生活においてなくてはならない必要不可欠な行動だ。何かを食べようと思い立っても、自分自身で田んぼや畑で作物を作っているわけでもなければ、山に入って山菜をとりにいくわけでもなし、海へ出て漁師として海産物を手に入れているわけでもないので、自分の持っているお金と食料を交換するためにスーパーマーケットへ行かねばならない。
服が欲しいと思っても、自分自身で糸を紡いで布を織り、そこからさらに仕立てて衣服を作る能力があるわけでもないので、デパートで売られている既成の商品とお金を交換しに買い物に出かける。トイレットペーパーや洗剤やゴミ袋など、普段何気なく使っている日用品に関しても同じことである。とにかく買い物なしに、ぼくたちの普通の暮らしは成り立たない。
・旅においても「買い物」は常に必要な行為だ
ぼくは今「日本海沿いを北上する旅」を継続している。旅という人間の行為も買い物という行為とは切っても切り離せない関係にある。お腹が空いたら食べ物を買うし、ホテルに宿泊するなら宿泊代を払わなければならない、その土地独特のお土産で素晴らしいものを見つけたならば記念に買いたくなるので、旅をしていても常に買い物をしている状態にある。
・買い物という行為は「買う人」と「売る人」によって成立する
買い物という行為が成り立つためには、主にふたつの種類の役割がある。「買う人」と「売る人」だ。買う人と売る人がいて初めて、買い物という行為が成立する。買う人というのは何か買いたい目的のものがあって、売る人に相談したりアドバイスを聞いたりしながら、上手に買い物できるように努力する。買い物の風景というのは、買いたい人と売りたい人が楽しくおしゃべりしながら進められる朗らかなものというイメージがある。
買いたい人は素敵な買い物ができたと満足し、売りたい人は自分が提示したものを買ってもらい買った人が幸せになっている姿を見て微笑む、そんな感じの風景が「買い物」としての理想像だろう。しかし現実は、そんなにうまく理想像を描いているのだろうか。
・商人と消費者の幸福が一致するというのは本当か?
旅をしながら毎日「買い物」を観察していて思うことは、「買う人」と「売る人」の幸せというのは、あんまり一致しないのではないかということだ。あまり一致しないどころか、その両者の幸福は正反対の位置に存在しているのではないかと思えてならないほどだ。
例えばリンゴをひとつ買いたいとする。「買う人」にとっての幸せは、そのリンゴが0円であることだ。誰だって自分の買いたいものは、安ければ安いほど嬉しいに決まっている。とんでもなく安ければ嬉しくていくつも買ってしまうし、ましてや無料で持っていっていいよと言ってくれたものならあまりのお得さに信じられない心地になってしまうだろう。欲しいリンゴが200円よりも100円、100円よりも50円、50円よりも0円である方が人は嬉しいものだ。
それに比べて「売る人」の幸せは、そのリンゴをなるべく高額で売りつけることだ。どうせ売るためのリンゴならば50円よりも100円、100円よりも1000円、1000円よりも1億円でも売ってしまい利益を得たいと願っているし、最も低い原価から最も高い利益を生み出すことが、商人としての幸福であることに間違いはないだろう。隙あらば買う人からなるべく多くぶん取ってやろうと密かに企み狙っているのが、商人の当然の性質だ。しかしリンゴ1個を1億円で売っていても誰も買ってくれる人がいないから、仕方なく諦めて1個200円くらいに留めているに過ぎない。
・買い物という行為によって真実の幸福にはたどり着けない
このように相克し合う、真逆の願いを根本的に持つ「買う人」と「売り人」で成り立つ「買い物」という行為に、真実の幸福など訪れるだろうか。両者がそれぞれに自らの幸福の最大限の追求を諦め、それぞれに妥協した先に「買い物」という行為は発生する。「買う人」は本当は0円で買いたいけれど「売る人」はもちろんそれを許さない、「売る人」は本当は1億円で売りたいけれど「買う人」がそれを許さない、それでどちらもがそれぞれ自分の願いを諦めて仕方なくリンゴを200円で購入する。そのような競い合いが毎日、あらゆる「買い物」という戦場で起こっているのではないだろうか。
「買う人」と「売る人」という”敵”同士の対立。そのどちらもが自らの願いを最大限に発揮することなく、妥協し、諦め、得をしたのか損をしたのかなんとなく曖昧でわからないままで「買い物」は終わってゆく。”商売”というものにどことなく虚しさの匂いが感じられるのは、そのような「買う人」と「売る人」の正体に潜在的に気づいているからかもしれない。
・「買うこと」も「売ること」も抜け出した神聖な北海道の野生の温泉
またぼくの旅ブログ「ミズイロノタビ」でぜひ記事にしたいが、北海道を巡っていて感動的だったのは、数々の野生の温泉が存在していたことだった。秘境の中にひっそりと佇む野生の温泉は、0円で無料。ぼくたちの周囲を取り巻く”商売”から逸脱して0円のものに触れるとき、ぼくはそこに潔さと清々しさと懐かしさを感じた。
”奪い合う世の中において 奪わない人であれ”
買うという次元も、売るという次元も抜け出して、ただそこに存在している宝物のような野生の温泉。野生の温泉でぼくが肉体だけではなく、心まで綺麗に洗い流された思いがしたのは、温泉が無料でお得だったからという、下衆で単純な損得勘定によるものではないと確信している。