成功したらそれで終わりだというのは本当か?

 

そのままいけば安らかに平穏に生きられるものを。

成功したらそれで終わりだというのは本当か?

・医者という職業
・清らかな旅立ち
・成功を捨ててぼくたちは最も困難な道をゆこう

・医者という職業

ぼくは知らない間に医学生になった。そのために訪れたこともない碧い海の真ん中、琉球諸島に立っていた。そこで医学を学びやがてぼくは医者になった。それを誰もが成功だと言った。

自分では思いもよらないことだが、医者になるということはそれだけで立派なことらしい。社会的地位も高く、給料も高く、医師免許も国家という大きなによって守られているようだ。医者として社会的な人間の群れの中で暮らしていけば、平穏で安泰な生活が待っていることだろうと誰もが予測した。

医者という職業も非常にやりがいのあるものだった。病んだ人を癒し、死の淵に佇む人を生へと呼び戻す手法は、どのような人からも感謝された。老い病み死ぬということは、あらゆる人の忌み嫌うところであり、それらに拮抗する術を併せ持つことが、人々の間で悪となるはずがなかった。医者は人々の言う善だけを実行できた。

時にどうしようもなく助けられないような病が待ち構えていても、それが負けであり悪となることはなかった。誰もが老い病み死ぬことを避けたいと願っている人生の中で、矛盾するようだが、誰もが老い病み死ぬことを知っており、それが致し方のないことを受け入れていくからだ。

どうしようもなく助けられない場合には、それによって心の傷つく人々の心が、人がいつかこの世を去ってしまうということを受け入れることを助けられるように努力した。その過程もまた、すべての人々に必要とされる癒しだった。

人々が病み死ぬという苦しみに立ち会うということは、普段は明かされない人間の生活へと深く切り込んでいくという場面でもある。そのようにして敏感な人々の心の柔らかさに触れ、心を通わせ合い、語り合うという生き方は、医者でなければ経験できなかった重みと尊さに満ちあふれていた。

老い病み死ぬという人間の普遍的な核心に触れるとき、人間のどうしようもない悲しみを知るとき、人の生命は裸体となりその本来の輝きを取り戻すかのように思われる。それは一般的に言われる人の生老病死が、単な人生の苦しみではないことを示唆する。

たとえこの世がひどく乱れようとも、戦争が起ころうとも、人類が滅びの危機の陥ろうとも、最後まで医者という職業が消えてなくなることはないだろう。それほどに人間にとって必要とされ、根源的な職業であると言えよう。

 

 

・清らかな旅立ち

そのように必要とされ、やりがいもあり、尊敬され、社会的地位やお金も約束されている医者という職業から退くということは、通常では考えられないことらしい。そのまま医者として生き続けたならば、約束された安定の未来があるようだ。

しかしぼくは旅だった、医者になったことが論理的に言葉で理由を説明できないような運命的な出来事であるとするならば、旅に出るということもまた、ぼくにとっては遠い昔からの運命的な定めであった。まさに大きな力によって支配され、他力の風が吹きすさんだのだ。

しかもその旅というものは、何もかもを喪失する旅でなくてはならない。大好きな人々も、ぼくを取り巻いていた物質も、地位も名誉も収入源も捨てて旅立ちは決行されるのだ。そうでなければ旅は清らかな意味を持たないし、そのような潔さが旅を確かに支える根本となることだろう。その喪失には、もちろん自分が医者であるという現実も含まれている。

何かを残しながら立ち去るということは不潔である。そのような穢れの観念をぼくたち日本人は本来持ち合わせているのではあるまいか。

どんなに地位や収入や人間のしがらみに執着し、大地にとどまろうとする人間であろうと、いつかはこの世を旅立つ日が来る。その時に、人生で何か大きなことを成し遂げて名や作品を残したいと、死後にまでこの世に執着するような魂で、今日の浮世は満たされているが、死後に記憶されたとて、それが自らの魂にどんな意味をもたらすだろうか。いっそ何ひとつ残さずに、立ち去ったことさえ気づかれないささやかな命の方が、清らかな人生と言えるのではないだろうか。そのような清らかな旅立ちの先にこそ、真実の世界は広がっている。

 

 

・成功を捨ててぼくたちは最も困難な道をゆこう

「医者になって地位も名誉もお金も手に入れた。そしてこれからも手に入れることになるだろう。」ぼく自身はそのように感じたことはないが、一般的に見ればそれが事実であるようだ。確かに収入で言えば若くして生活に必要以上の金額を受け取り、お金を稼ぐことは意外と簡単なのだとも感じた。それなのにそれらを手放して見知らぬ世界へ旅立つということは、常識から言えば考えられないことらしい。

そのまま医者という位置のままで立ち止まっていたならば、安易に生きられるものを、どうしてわざわざそれを手放してまで、未来の見えない旅立ちという荒野に身を置くのだろうかと、訝しく思う人々であふれている。誰から見ても成功だと語られる身の上を打ち捨てて、浮世の思想を脱ぎ捨てて、この身はどこへ帰るのだろう。

自らの中に炎のように燃え盛る、どうしようもない運命的な旅立ちに、理由や名前をつけることはできない。しかし運命というものを聞き取ろうと努力することはできる。運命はすなわち、ぼくの魂に、もっと困難な道を進むように指し示してくれているようだ。

医者という地位と名誉の檻で固く守られた安定的な場所から、旅という荒野へ。もっと魂がむき出しになって敏感に世界と接触せざるを得ないような、旅という裸体の聖域へ。自然と簡単にお金を稼げるような安泰の森から、もっと切迫した世界と真剣に対面するような「持たざる魂」の領域へと、運命はぼくを運んでくれる。

そしてそのような運命的な炎を恨みはしない。運命はぼく自身であり、ぼくを突き動かす原動力であり、ぼくが生まれてきた意味であり、ぼくの根源であるのだ。鏡に映した自分の姿は、美しい炎に焼かれていることだろう。鏡に映った自分自身を、恨むことなどありはしない。

穏やかであたたかな成功という浮世の季節を超えて、自分にとって最も困難な道をゆこう。問わない者は人ではない。安らかな土地で立ち止まっていてはたどり着けない。端から困難な運命に魂を沈められているというのなら、それならばいっそ、さらなる困難な運命の従うままに導かれよう。ぼくたちが本来たどり着くべき、秘密にされた浄土がある。ひとつひとつ、鍵を見つけてはそこへ忍び寄る。

 

 

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