詩の意味や解釈を創造主に尋ねてもいいというのは本当か? 〜詩とは祈りそのもの〜

 

詩とは、祈りそのものである。

詩の意味や解釈を創造主に尋ねてもいいというのは本当か? 〜詩とは祈りそのもの〜

・具体的な芸術、抽象的な芸術
・人々は具体的な役立つ情報を求めている
・ぼくが詩を書き続ける理由
・具体的であるという虚構の世界
・詩は、ぼくの祈りそのもの

・具体的な芸術、抽象的な芸術

芸術や創造には、様々な種類がある。絵画や彫刻、音楽や写真や詩などその形態も様々であるが、その中でも具体的なものと抽象的なものに分けられる。同じ「絵画」でも、具体的な人物や風景を表現したものもあれば、現実世界の視覚では感知できない自らの観念の上の抽象画を描くこともあるだろう。その点で言えば写真は具体的な意味合いが強い芸術作品であり、音楽や詩はどうしても具体的にはなりにくい分、抽象的な芸術であるととらえることができるかもしれない。

具体的なものが抽象的なものよりも優れているというのは本当か?

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・人々は具体的な役立つ情報を求めている

今の世の中、抽象的なものを芸術として表現したとしても、振り向いてくれる人は少ない。みんな具体的で合理的で説明的な何かを求めているからだ。たとえばぼくの世界一周と日本一周を同時に進行している前代未聞の旅ブログ「ミズイロノタビ」でも、旅な具体的な内容を書く日もあば時たま「ミズイロノコトバ」として旅を詩で表現する場合もある。しかしアクセス数が多いのは詩よりも圧倒的に具体的な旅行記や紀行文章だ。

その理由のひとつとしては、もちろん詩の方がはるかに文字数が少ないのでグーグルからの検索流入が皆無であるという理由が挙げらえるだろう。何百・何千文字として書かれた具体的な紀行文は、グーグルの検索結果上位に出現しやすく、その分たくさんの人々が文章を見てくれることになる。

また別の理由としては、紀行文の方が”人の役に立つ”ということが挙げられるだろう。具体的な旅行記や紀行文は、その国がどんな様子であったか、人々がどんな暮らしをしていたのかが具体的な文章と写真で示されているので人々の役に立ちやすい。また、どのような移動手段を使ったか、どんな感じで移動すればいいのか、時間はどれくらいかかったか、手荷物検査はあったのかなど、読み手のニーズに応じて的確で役立つ情報を提示している。それに比べて詩、すなわち言葉の抽象的芸術はどうだろうか。

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詩が人々の生活や旅の役に立つということは、はっきり言ってほとんどない。それはただ言葉を組み合わせて、ポヤポヤとわかるんだかわからないんだか抽象的なことを呟いているだけだ。たまには人をハッとさせたり、感動させたりすることもあるのかもしれないが、それは直接「人の役に立つ」というのとは別次元の話である。

 

 

・ぼくが詩を書き続ける理由

そんなアクセス数も少なくあまり人にグーグル検索されもしない「詩」を、どうしていまだに世界一周ブログ「ミズイロノタビ」で書き続けているかというと、それはぼくにとって「詩」を創造することが必要であるからに他ならない。

ぼくは旅立ちを告げない

人間の役に立たないものほど、生命にとっての真実である。よく人間は他人の役に立つために生まれてきたのだとか、他人の役に立たない人間は価値がないと見なされることも世間では多いが、それは本当だろうか。他人の役に立ち、他人にとって都合のよいことをしないと、確かにお金を稼げずに生きていくことはできないが、だからと言って自分を押し殺して他人に都合のいい存在となって金を稼ぐためにこそ、この生命は生まれてきたというのだろうか。

「他人の役に立つ」「他人に都合いい存在になる」そんな仕方のない人間たちの運命を超越した異国にこそ、真実の生命の躍動は眠っているのではないだろうか。「自分のために生きる」「自分の感性を信仰する」ことを貫いた先の世界には、矛盾するように「人々の役に立つ」世界が自然と開かれ、自分と他人との境界線さえ取り払ってしまう超越の感覚こそが、ぼくたちが本来求めている聖域ではないだろうか。

 

 

・具体的であるという虚構の世界

「詩」という抽象的な芸術は、祈りそのものである。説明的・具体的に伝えることではどうしても達成できない世界や感覚が自らの中に濃厚に渦巻くからこそ、人々は「詩」という抽象的な、わかりにくく恐ろしい世界へと足を踏み出し旅立たなければならないのだ。「詩」という透明で澄んで混沌とした芸術の感触は、それを創造し踏み出すことを選択した足にしか感知されない未知の領域だろう。

具体的なことを伝えたければ、論文でも書いて証明でもしていればいいのだ。その方が人間たちからは立派な人物だと思われ尊敬もされるだろう。しかし今の世界を支配している具体的なもの、説明的なもの、証明されたものたちが、何か物足りない虚構の世界だと直感的に気づいた人たちは、何ひとつ語ることなく浮世を立ち去り、美しい詩の創造を始める。

 

 

・詩は、ぼくの祈りそのもの

とかく人間はわからないものが怖くて、また疎ましくて仕方がない。抽象的でわかりにくい宇宙が目の前に出現すると、どうして具体的に教えてくれないんだ、どうしてもっと俺のわかるように説明してくれないんだと、心の中で駄駄をこねる。そしてまるで小学生が問題集を必死で解くかのように、そのわからない恐ろしいものの形を、必死に解釈し、わかろうと理解する。そしてそれが賢い人間になるための道だと疑わない。

わかろうと理解しようとするその姿勢は立派なものであるが、彼らは「わからないことが美しい」という真実にまで、まだたどり着いていない。「わからない」ということがぼくたちの人生の真実であり、その中に身をひたすことでしか生きられないという人間の運命は動かし難い。「わからない」からこそぼくたちは、目の前に横たわっている残酷な運命を直視せずに生き延び、「わからないね」などと笑いながら幸福に生きられていることに気付かないのだ。

わからないものをわからないままにして、人生を歩もう。何ひとつ解読せずに、解釈せずにまっすぐと旅路を歩もう。わからない詩を見て、これはどういう意味だったのと、詩の創造者に決して尋ねてはならない。詩は、あなたに理解されないために創られたのだ。そして理解できないという思いが、いつかあなたを救うだろう。あなたに理解されたければ、ぼくは論文を書き、証明し、あなたに説明しただろう。詩は、あなたに理解されないために創られたのだ。

詩は、ぼくの祈りそのものだ。誰にも侵すことのできない心の聖域だ。その解釈を問うことは、神社で神様に静かに祈りを捧げている人の目の前に回り込んで、今何をお祈りしているの?としつこく聞いてくることと同じである。この国においてこれほどに情緒のない態度が、他にあるだろうか。

 

 

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