人は誰でもこの世で傾きに満たされている。
あなたの思想が中立であるというのは本当か? 〜人は誰もが偏っている〜
・偏った人々と中立な人々
・思想を深める人々と浅はかな人々
・この世に中立な人なんていない
・人は誰もが等しく偏っている 〜表現者へ〜
・偏った人々と中立な人々
この世に生きていると、極端に偏った思想と巡り会うことがある。そしてそのような偏った思想の人々に巡り会った大して偏っていない人々は安心する。比較し相対的に見て、自分はこれほどまでに偏った思想を持っていないということに安心する。そして陰で極端に偏った思想やその人々について噂し合っては、自分たちはよほど正常な思想の持ち主であるということを確認する。自分たちの思想は中立でバランスが取れており、この世にとってまるで正義であるかのように思い込み、対して偏った思想の人々をこの世の悪や敵だと見なし、この世から偏りを消去することこそ正常で平和な世界への近道だと思い込んでいる。
しかし、自分自身を中立で正常だと思い込んでいる彼らは、本当に正常なのだろうか。
・思想を深める人々と浅はかな人々
人は誰でも考える能力を持っている。人は誰でも日常の様々な物事について考えて、思考し、それらを組み合わせ、組み立て、深め、自分なりの思想を構築していく。世の中の物事に対して真剣に向き合い、対峙し、問いかければ問いかけるほどに、思想は深まり、発達し、独自の形を形成していく。
逆に普段から何も考えずに、食べて寝てテレビや雑誌の言うことだけを信仰して気楽にぼーっと生きているだけならば、大して自分自身の意見や思想を持つことなく、周囲の人々やテレビやインターネットの言うことになんとなく思想の帳尻を合わせて、世の中からズレないように、極端な発想を持たないように、怯えつつ注意深く生きているのかもしれない。自分自身で自分の思考を深めることをせずに、楽をしながらただ傷つかずに平穏に生きられればいいと、正常という仮面で顔面を覆いながら、常識という衣で身を守られながら、騙し騙し、浮世を彷徨っているのかもしれない。
そしてそのような種類の人々に限って、真剣に世の中を見つめ、思考し、自らの人生や真理を深めようとして、自分自身の思想を組み立てている人々を、自分が作り出したわけでもない正常という安全な防御壁の向こう側から攻撃し、卑下し、彼らを見下すことによって相対的に自分を高めようとする卑怯な振る舞いをするのはどうしてだろうか。どうして世界と真剣に向き合っている人々は彼らの軽薄な虚栄心のために犠牲になり、打ち砕かれなければならないのだろう。
・この世に中立な人なんていない
そもそも、この世に思想が中立な人などいるのだろうか。どんなに世界と対峙せずにあまり考えない種類の人であっても、人間として生きている限りはそれなりに物事を考えるだろう。そのようにして成り立った思想が、まったく偏らず、まっさらな中立であるということなどありえないのではないだろうか。
人間に真っ直ぐな線など引けないように、人間にまん丸な円など描けないように、自分自身の中にある思想をぴったりと中立に保つことなど決してありえない。そして人の脳内は様々な種類の多数の思想により支配されている。ぼくたちはいわば、決して中立ではありえない偏った思想の集合体としてのひとりの人間を生き抜いているのだろう。
・人は誰もが等しく偏っている 〜表現者へ〜
誰もが偏りを持っていることが明白なこの世の中では、自分は中立であると堂々と言ってのける人間ほど、厚かましく怪しい可能性がある。そして中立であるという思い込みが、自分自身を偏りのない正常な人間であるという思い込みまでもを生み出し、思想の偏っていることを悪だと見なし消去すべきだと信じ込む構図は、憂慮すべきものがある。中立や正義、常識という、世の中からすれば一見適切でふさわしく見えるものたちによって臆病に自らの身を隠し、その安全地帯から偏った者たちを小賢しく攻撃し、卑下することにより、自分の存在の優位性を肯定しようとするような浅ましい根性をぼくは好かない。
人は誰でも自分の思想を持っている。そしてその思想を整理し、言語化し、自分自身の生い立ちや生命の性質と絡め合わせて世の中に発信することは、たとえそれが他人からすればとんでもない間違いであるかのように見えても、勇敢で有意義なことではないだろうか。そして勇気を持って自分自身を言語化すれば、必ずその人の傾きや偏りが顕在化する。それはその人が偏っている証拠というわけではなく、人間が言語化する上での必然的な流れである。この世の中の人々は、誰もが清潔に中立ではなく、誰もが偏った思想で構築されており、人間が思想を言語化すれば必ず、偏りは露わになっていくものなのだ。
しかし言語化して主張する勇気のある人々が、必然的に目立って誰もが持っている偏りを表現してしまい、言語化する能力がない故に自分を中立だと欺くことのできる賢しらな人々によって攻撃されるという浮世の現象は、物悲しい思いがする。攻撃されるということは表現者の受けるひとつの宿命ではあっても、それを表現したという創造の行為に敬意は払われ、小賢しい偽物の中立から守られなければならない気がする。
人は誰もが等しく偏っている。その事実を誰もが素直に受け入れるだけで、誰かを傷つける機会も減るだろう。等しく偏っているからこそ、誰かが偏っていることに、心から寛容になれるだろう。