夢は経済を回すための欲望!夢を叶えることが素晴らしいことだというのは本当か?

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夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う。

夢は経済を回すための欲望!夢を叶えることが素晴らしいことだというのは本当か?

・安室奈美恵は夢を叶えることの大切さを歌っていた
・「夢を叶えることは素晴らしいことだ」
・人は自由に夢を見ることができる
・中島みゆき夜会「海嘯」の主人公のとんでもない夢
・強く願ってさえいれば殺人でも夢なのか
・どこからが夢でどこからが夢でないかは他人によらない
・夢の正体はただの人間の煩悩と欲望
・「夢を叶える」という輝きによって経済は回る
・偽物の夢を押し付けられて人々は本来の願いを見失う
・悲しく「自力」を捨て去りどうしようもなく「他力」を生き抜く

・安室奈美恵は夢を叶えることの大切さを歌っていた

アーティストの安室奈美恵は2018年9月16日に引退した。彼女の最後の1年を追っていた感想としては、安室奈美恵という人は「夢を叶えることの大切さ」をその身をもって伝え続けてきた人なのかもという印象を受けた。

その割には彼女が出した最後のベストアルバムの表題曲Finallyでは歌い出しが“Finally I can stop dreaming”から始まり、夢を見ることをやめられる日をずっと願っていたという歌詞で、彼女の歌手人生が締めくくられたというのは印象的だった。彼女はたくさんの夢を叶えてもはややりきった感があるということだろうか。しかし人間は生きている限り、夢が潰えることなどないだろう。

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・「夢を叶えることは素晴らしいことだ」

彼女に限らず一般的に、夢を叶えることは素晴らしいことだし、人間はそのためにこそ生きているのだと言われることもしばしばである。子供たちは幼い頃から大人たちに将来の夢を聞かれ、それに向かって努力したり工夫することの重要性を説き続けられる。ぼくたちは夢を叶えるために若い頃から一生懸命勉強したり苦労したり努力を惜しまないことを求められ、そして夢を叶えるという人生で最も輝かしい瞬間を手に入れるためにこそ生きるべきだと主張される。

安室奈美恵に限らず流行歌や若者向けの本には、夢を叶えることの重要性やその方法論にあふれ、それに加えて愛こそがすべてだという歌が街にあふれたこともあった。夢と愛を歌っていれば、とりあえず最もらしいことを世の中に向けて発信できているんだという雰囲気が世の中を満たしていたのだ。ぼくたちが何の疑いもなく、夢や目標を持つことは素晴らしいことだ、夢を叶えるためにこそ生きるべきだと思い込んでしまうことは、至極当然のことであると言えよう。

 

 

・人は自由に夢を見ることができる

しかし本当に自分の夢を叶えるために、この生命は生まれてきたのだろうか。ぼくたちは資本主義社会の中でお金持ちになるために生きるべきだと主張され、民主主義社会の中で他人から支持され影響力を持つ人気者になるべきだと言い聞かされ、それに加えて夢を叶えるために生きるべきだというさらなる思想を植え付けられなければならないのだろうか。

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夢を持つことは確かにいいことのように感じられる。小さい子供がぼくはサッカー選手になるんだとか、私はお花屋さんになるのだと言っている姿は可愛く微笑ましい。ユーチューバーになりたいでもいいし、お医者さんになりたいでもいいし、車掌さんになりたいでもいいし、どんな夢を抱くことも子供たちの自由だろう。またはお金持ちになりたいとか、健康で長生きしたいとか、モテモテになりたいとか、大人たちがその脳内で夢を描くこそすら自由なことで他人に入り込む余地はないように思われる。

しかし夢というのは本当にそのように、微笑ましく楽しいものたちばかりだろうか。

 

・中島みゆき夜会「海嘯」の主人公のとんでもない夢

中島みゆきの夜会に「海嘯」という演目がある。「海嘯」のストーリーは、中島みゆきが演じる主人公のまゆが、彼女自身の夢を叶えるために努力するという内容だ。「海嘯」の最初の場面から「夢を叶えて」という第一曲目が始まり、これから「海嘯」の中で夢を叶える物語が展開されるのだと誰もが予感する。

夢を叶えていつか違う明日へ行こう
夢を叶えていつか違う席に着こう

そして次の曲は「夢の代わりに」である。

夢はきっと叶う
ひとつだけきっと叶う
そのために何もかもが
失って構わない

それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ

夢はきっと叶う
命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして
きっと叶う

主人公の夢は人生でたったひとつだと歌われ、それを叶えるためならば命さえも惜しくはないとその覚悟が歌われる。ここから彼女は夢は「ケーキ屋さんになりたいの」というノホホンとしたものでは決してないことがうかがえる。

結局彼女の夢は、故意に土砂崩れを起こして乗っ取られた両親の旅館を破壊し海へと流し込むことだった。文章にしてみるととんでもないストーリーでなんじゃそりゃという感じだが、こんなとんでもストーリーも彼女の歌と同時に並行して演じられると、壮大で感動的な物語が展開されるから彼女の歌の力は本物だと痛感させられる。

 

・強く願ってさえいれば殺人でも夢なのか

彼女の夢はわざと土砂崩れを引き起こして旅館を飲み込ませてしまことであり、その旅館のそばや工事現場にはたくさんの人がいるだろうから、はっきり言ってこれは殺人である。しかし彼女は、両親を殺された復讐として自らの夢を成し遂げることに命をかけているし、それが叶うのならば命すら引き換えにしてもいいのだと歌う。これほどの人間の強い夢ならば、叶うべきだとぼくたちは言えるだろうか。

結局主人公のまゆの夢は叶わず、人生でただひとつの夢だったにもかかわらず、それを叶えることができない無念さが終盤になって歌われる。それは「叶わぬ夢」という曲だ。

ただひとつの夢だったのに
ただひとつの夢だったのに

夢叶わず 人は生きる
明日も力も愛さえもなくして
夢叶わず 人は生きる
嘘つきと呼ばれるだけのために

ぼくたちは彼女の人生でたったひとつの夢が叶わなかったことを、悲しむべきだろか、喜ぶべきだろうか。「人間が夢を叶えることは素晴らしいことだ」「人間は自分の夢を叶えるために生きているんだ」「人生でたったひとつの強い夢ならば叶うべきだ」と、社会で言われている通りの常識を適応させるならば、ぼくたちはまゆの夢が叶わなかったことを悲しむべきだろう。しかし彼女の夢はとんでもない殺人行為だったのだ。殺人を起こすという夢が叶わなくてよかったと、安堵する人もたくさんいるだろう。

 

・どこからが夢でどこからが夢でないかは他人によらない

人間の夢が殺人や復讐などの悪の場合でも、社会の常識で言われている通りに「夢を叶えることは素晴らしい」「目標を達成するために人は生きるべきだ」と能天気に言えるだろうか。そんなものは夢なんかでもなんでもないと、どうしてぼくたちは言えるだろう。人がその人生の中で、何を望み何を生きがいにして生きているかなんて当人にしかわからないことだ。そして“命も力も愛も明日でさえも引き換えにして”でも叶えたいほどに強力な夢ならば、そんな夢を見るべきではないとよそ者が言及することなどできない。

夜会「海嘯」の主人公まゆのように人を殺すことや、物を盗むこと、心を傷つけることや、女性を犯すことを密かに夢見て、目標にしている人々も、世の中にはたくさんいるのではないだろうか。それをよくないことだと善悪の判断に任せていさめようと思うことなど容易いが、どうしてぼくたちに人の直感的で強力な夢を妨げる権利があるのだろうか。自分の命を引き換えにしてでも叶えたいと強く願っている人々の夢ならば、社会的常識の通りに「夢を叶えることは素晴らしい」と言うべきだろうか。

一体どこからが夢で、どこからが夢ではないのだろう。「サッカー選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」というのは、誰でも夢だと納得されるのに、「わざと土砂崩れを引き起こして旅館を海に流す」ことは夢のように感じられないのはなぜだろう。しかし主人公のまゆが歌う通り彼女の中ではこれは、自分の命を引き換えにしてでも構わないような確固たる「夢」なのだ。

 

・夢の正体はただの人間の煩悩と欲望

夢とは結局、どんなものでも人間の欲望に他ならないのではないだろうか。「サッカー選手になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」というのは、子供たちが言えばなんだか可愛らしく感じられるが、よくよく考えてみればただのどこにでも落ちている人間の欲望と変わらない。「ご飯が食べたい」とか「眠りたい」とか「セックスしたい」とか、そういう欲望と別にまったく変わらないのに、子供たちの将来の夢は人間社会に役立って自分たちにとって都合がいいから、勝手にものすごくいいように解釈して、ただの欲望を感じのいい「夢」という言葉に置き換えているだけではないか。

結局、人間の集団にとって都合のいい社会に役立つような個人的な欲望は「夢」や「目標」だと言われるが、何の役にも立たず誰のためにもなりそうにないものはその人のただの「欲望」だと片付けられてしまう。すべての夢が欲望であるならば、「夢を叶えることは素晴らしい」というのは「欲望を叶えることは素晴らしい」という言葉に置き換えられよう。こうすれば「夢を叶えることは素晴らしいことだ」という言葉の怪しさに気付くはずだ。

ぼくたちは自分の欲望を叶えたいと主張した時点で、その欲望が人間の集団にとって都合のいい種類のものだったときのみに限って、社会的に「夢」や「目標」と呼ぶことをゆるされ、さらに「夢を叶えることは素晴らしいことだ」という社会的常識を押し付けられると共に、自らの欲望を叶えて人間の集団の役に立つようにそそのかされる。「夢を叶えることは素晴らしいことだ」という常識的な主張や植え付けは、実は「人間の集団にとって都合のいい存在となってゆけ」という小賢しい言い換えではあるまいか。

 

 

・「夢を叶える」という輝きによって経済は回る

人間社会がこれでもかというほどに「夢を叶えること」の重要性を強調するのは、それがお金儲けにつながるからに他ならない。しかも「夢を叶える」という社会で素晴らしいと見なされていることを助けてお金儲けするのだから、悪いことをしている感じもない。

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「安室ちゃんになりたい!」と少女が夢見ればダンススクールが儲かるし、「英語をかっこよく話したい」と社会人が夢見れば英会話スクールが儲かるし、「留学したい」と学生が夢見れば仲介会社が高い手数料で儲けられるし、「楽してお金儲けしたい」と怠け者が夢見れば自己啓発本や怪しい詐欺のセミナーが儲かる。夢は人間社会において大きくお金を回しているのだ。

しかし夢を見ることに熱くなりすぎるあまりに、本来は払う必要のない高額のお金を無駄に消費しているという現象もしばしば起こっているだろう。特に自分で詳細を調べる能力が低く、騙されてお金を取られないようにしようと思考し注意できない人々は、夢をダシにたくさんのお金を小賢しい会社たちに搾取されている印象だ。

 

 

・偽物の夢を押し付けられて人々は本来の願いを見失う

その「夢」ですら、本当に自らの根源から燃え上がってきているものかは決してわからない。安室ちゃんになりたいという夢も、テレビという電波から刺激的な光や音が感受性の強い少女たちの心を強く刺激した結果なだけかもしれないし、英語なんて喋れなくても日本では何不自由なく生きていけるのに白人や西洋的なものは素晴らしいと幼い頃から社会的に植え付けられて、とりあえず英語喋れたらなんとなくカッコいいと思っているだけかもしれないし、留学なんて別にしたくないけど他に何の取り柄もないことから、せめて自分に何らかのすごい体験を付け足しておきたいという欠乏感からかもしれない。

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社会は金を儲けよう儲けようとして、人々に夢をむやみやたらと押し付けることで、逆に人々が本当に叶えたかった直感的な本来の願いを見失い、心が彷徨い歩いているのではないだろうか。

 

・悲しく「自力」を捨て去りどうしようもなく「他力」を生き抜く

「夢を叶えることは素晴らしいことだ」という言葉を、ぼくは幼い頃から直感的に信じていない。何か胡散臭い怪しい感じがして、あまり近づきたくないという印象だった。人は誰もがこの言葉を信じ込んでいるが、ぼくはあまり腑に落ちない。

本当に人生というものは、夢を叶えながら進んでいくべきものなのだろうか。目標を立ててそれをひとつひとつクリアしながら進んでいくという、典型的教科書のような行程なのだろうか。「海嘯」で中島みゆきが描いたように、命をかけてでも叶えたい夢でも、叶えられないどうしようもない運命が、人生には横たわっているのではないだろうか。どんなに叶えたい求め合いの愛であっても、別れ合ってしまうというどうしようもない定めを背負うこともあるのではないだろうか。

まさに「自力」によって人生を切り開いていこうという思想を、ぼくはあまり好かない。生命というのは自分の思いや能力だけでどうにかなるものというものは極めて少なく、むしろ自分ではない力によって支配され、何もかもがどうしようもなく進み生命は運ばれていくと言った方がふさわしいのではないだろうか。あらゆる「自分の思い」や「自力」でさえ、自分ではない大きな力に支配された結果として表出しているだけのことではないだろうか。

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このような自分ではない力のことを仏教では「他力」と呼ぶが、自力を超越した「他力」の存在に人々の注意が向いてしまっては、これまでのように何も考えない「自力」を信じる人々から、社会はお金を搾取しにくくなるだろう。それとも他力の流れを読み取ろうとして占い本でも流行るだろうか。

ぼくは「自力」によって切り開く能動的な筋肉を鍛えるよりも、「他力」を美しく純粋に受け取るために、魂の受容体を磨きたい。

 

 

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