正しさや法律があれば盗みや奪い取ることさえも正当化されるというのは本当か? 〜ありあまる富〜

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純粋に与えられるのか、奪われるのか、それが重要だ。

正しさや法律があれば盗みや奪い取ることさえも正当化されるというのは本当か? 〜ありあまる富〜

・世界はあらゆる局面でつながっている
・自分だけに焦点を当てて世界を見つめれば
・正しさや法律によりぼくたちは奪われ続ける
・ありあまる富

・世界はあらゆる局面でつながっている

人間というのは社会的な生き物だ。それゆえどんな他人とも繋がらずに生きているということはほとんどありえない。どのような状況も現象も、自分ひとりの問題には帰着せずに、自分と他者との関係性によって解釈される。

例えば自分が税金を支払うという行為は、自分がお金をある集団に与えて、集団はそれを社会のために活用し、社会のためになることを前提としている。この場合、自分と社会は税金というお金を媒介として関連し合い、つながっていく。

例えば自動車の接触事故を起こしたとして、自分が相手の自動車代を支払わなければならなくなった時には、その接触事故において、自分がどれだけ悪いのか、相手がどれだけ悪いのかを過失割合として相談し、算出することによって、自分は相手の自動車修理代の過失割合の分だけを支払わなければばならない。

完全に自分が悪いことになれば、自分がすべてのお金を支払わなければならないし、自分と相手の過失割合が5:5だったとすれば、自分が修理代の半分を支払うべきということになる。自分がどれだけ悪いのかを裁かれそれをお互いに認め合えば、その割合に従って相手にお金を支払うという公平なルールが存在する。

 

 

・自分だけに焦点を当てて世界を見つめれば

自分と他人と社会という空の上から俯瞰してみれば納得のいく関係性も、視野を狭めて、視点を変えて、自分というものを完全に中心において考えたならば、話はだいぶ違ってくる。

例えば納税することだって、社会のためになるのならばと考えるならば税金を支払うことも悪くはないかもしれないが、自分というものだけに着目して純粋に考えた時に、それはただお金を他者や集団から奪い取られているだけである。そのお金がどのように役に立つのかなんてどうでもいいと見なし、ただお金が与えられるのか、奪われたのかと考えるならば、それはただ義務という名の下に、自分のお金を強引に奪い去られただけである。

そして個人にとって、これ以上に大切なことがあるだろうか。自分にお金が与えられるのか、自分のお金が奪われるのか、自分の生活や生命にとってこれほどまでに純粋で重要な問いかけはないだろう。そしてぼくたちは、義務という仮面を被った大きな権力に、いつもお金を奪われるしかない。

自動車と自動車がぶつかり合う場合もそうだ。他者との関係性を尊重するならば、自分がどれだけ悪かったのか、相手がどれだけ悪かったのか公平に裁かれた結果、自分もこれだけ悪かったのだから相手の自動車代を支払うのは仕方のないことだと諦めて支払ってしまう。

しかしこれも自分自身だけに着目したとして、自分へと与えられるのか、自分から奪われるのかとただ純粋に問われた時に目の前に広がってくるのは、自分がただ富を奪われるという光景である。他人や世界が裁く善悪など超越して、ただ自分という故郷にだけ帰着し見つめなおした時に、自分はただただ奪われるだけなの存在なのだと気がつき、そしてなるべく奪われないように盗まれないように、人は必死になる。善悪の絡まりから脱出し、まるで捕らえた獲物を正義という名の下に奪い取られることを警戒する動物のように、唸って相手を威嚇する。

”接触する”というお互いが存在を併せ持っているからこそ生じるどちらもが悪くどちらもが正しい、その境界線のない問題について人々は議論し、自分が悪いとか、他人が悪いとかという次元で大いに争い合い、自分がなるべくお金を奪い取られないように取り計らう。誰もが自分は悪くないのだと述べ、誰もが相手が悪いのだと声高らかに主張し、自らを罪という国から遠く退かせ損失を受けることを防ごうとする。

 

 

・正しさや法律によりぼくたちは奪われ続ける

どんなに拒絶しても威嚇しても、人間が生きてる限り、正しさや法律という権力のもと、大いに奪い去られ大いに富を盗まれることを免れることはできない。それは社会で生きていく人間という存在の運命であり、奪われること、盗まれることを正当化されるという事実を甘んじて受け入れる他なない。奪うことと納めることの違いは何だろう。盗むことと支払うことの違いはどこだろう。

自分だけに着目するという獣のような自我を拭い去れたならばどんなにいいだろう。奪われてしまう、盗まれてしまうというその純粋な直感を感じ取れない心を持ったならば、生きるのはどんなにか楽だろう。

けれど本当に人間というものは、そんなにも他者との関係性を重要視して生きているのだろうか。むしろその現象は自分にとってどういう結果になるのか、プラスになるのかマイナスになるのか、与えられるのか奪われるのか、それが本能的に、生命にとって最も重要な要素ではないだろうか。自分だけに着目して物事を考えることを、思いやりがないとなじるだろうか。しかし自分にとっては世界は正常を失っており、自分だけを見つめて自分だけを灯火にして生き抜かなければならないと覚悟せざるを得ない生命も、この世には存在するのではないだろうか。

 

 

・ありあまる富

どんなに富を奪い去られても気にしなくていいという感動的な歌がある。椎名林檎の「ありあまる富」という歌だ。ぼくたちが価値のある富であると見なしているところのものは、実は大したものではなく、ぼくたちの本当の宝物は、どんなに奪い去ろうと権力が狙ったところで、決して奪い去られるものではない。

 

”ぼくらが手にしている 富は見えないよ
彼らは奪えないし 壊すこともない

世界はただ妬むばかり

もしも彼らが君の何かを盗んだとしてそれは
くだらないものだよ 返してもらうまでもないはず
なぜなら 価値は生命(いのち)に従って付いてる”

 

奪い去れられる運命は仕方がない、盗まれる定めはなくならない。それならば奪い去られることを恐れる自分自身の中の本能的な獣をなだめるしかない。奪われないために争い合うことは楽しい。それにより憤ることも面白い。しかしそれにより自らが苦しむというのなら、奪い去られることに嘆く自分という獣をなだめてみよう。

 

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