ぼくはフィンランドのロヴァニエミのホステルでベトナム人と一緒になった。ぼくは彼が嫌いだった。
その国が嫌いであるというのは本当か?
・ベトナム人との思い出
・民衆と国家の異なり
・個人が国家へと変貌する風景
・電子空間に氾濫する悪意
・憎まずに愛したいならば孤独な島になろう
・ベトナム人との思い出
彼とはよくホステルのキッチンで話したり一緒に夜の公園へオーロラを見に行ったりしたのだが、ぼくは彼があまり好きではなかった。なんだか彼はよく怒っていたのだ。
たとえばぼくがインターネット上で調べた、サンタクロース村のサンタクロースと自分のカメラを用いて一緒に写真を撮ることは禁止されておりプロのカメラマンが撮影したものを買わなければならないらしいという情報を伝えると、いや自分のカメラで一緒に写真を撮れるしそれは無料だとどこかで聞いた、きっと撮れるはずだとなぜか怒り威圧的に言って引かなかった。別にそんなこと実際に行けばわかることなので重要なことではないのだからどうでもよく、ぼくはそれ以上は何も言わなかったが、日本やその他の先進国の遊園地などでの仕組みを見ているときっと自分のカメラでの撮影が禁止されるのが通常だろう。そして実際、それは禁止されていたのだった。
なんだか頻回に間違ったことで威圧的に怒っているからタチが悪かったのだ。しかし別に気にすることはない。旅の途中に気の合わない人のひとりやふたりいても何ひとつ不思議なことはない。あまり関わることなく通り過ぎるだけである。この人とは合わなかったと立ち去るだけである。
・民衆と国家の異なり
しかしこのことがきっかけで「ベトナム人は怒りやすく威圧的だった・悪い印象を持った」などと心の中で感動を抱き、ベトナムという国を嫌うのはお門違いであると言えよう。
彼はベトナム人のひとりではあるが、彼自体がベトナムという国ではないからだ。そしてこの旅で出会ったベトナム人が彼ひとりだけだったのならばなおさらである。もしかしたら残りのすべてのベトナム人は温厚で、彼だけが威圧的な人物なだけだったのかもしれない。ただの個人の性格の問題かもしれないのだ。もっと母数を増やして統計を取らなければ、ベトナム人の気質やベトナムの国についてなにひとつとやかくは言えないだろう。ベトナム人の気質や国家の性質へと帰納させるためには、多くの個人としてのベトナム人との接触やそのデータが必要であり、その上で「ベトナム人は〜だ」というより正確な法則があるとするならば成り立つと言えよう。
しかし実際には、このような間違いはよく起こっている。
・個人が国家へと変貌する風景
たとえばインターネット上で、ひとりの中国人が暴れまわっている動画の一場面を見せて、中国人は暴力的で危険な民族だというような投稿が成され、それが多く共有されていたりする。ひとりの韓国人が料理に唾を入れている場面を共有し、もう韓国に旅行に行くことはやめるべきだと煽り立てられ、またそれが多くの共感を呼んでいる。韓国人は卑劣だと罵られる。いずれもよく見るインターネット上での一コマである。
しかしそれらの国を旅行したり、またはそれらの国の人々と交流したことがあるならば、決してこのようなおかしな波に飲み込まれることはないだろう。どの国でも、民衆というものは、国というものに分け隔てなく親切であり、分かり合え、共有し、時に深い友情の関係さえ構築することも珍しいことではないからだ。人々というものは、基本的にはどのような国でも善良であたたかなものであるということを、ぼくも旅から教えられてる。集団になれば狂気を帯びる場合もあるだろうが、それはどの国でも共通する人間の性質であると言えよう。
このように、ひとりの人間やひとつの写真・動画からその国全体へと帰納させるという不可思議な論理は、意外と世の中にはびこっているのだ。しかもそれが、なんとなくぼんやりとインターネットを見ているだけだと気づかずに、知らない間に悪意の波に飲み込まれてしまうこともあるだろう。
・電子空間に氾濫する悪意
この世は悪意に満ちている。それは浮世のどこからでも生まれ出るささやかな罠である。そしてそれに飲み込まれてしまうことは、いとも容易い。悪意に染まり、誰かを憎むということはあまりにも容易いのだ。誰かを憎むことで、なにか楽になれる気がする。普段感じている自分へのいたたまれなさから、なんだか解放されるような気がする。それが偽物の解放だと心の奥底ではわかっていても、目をつむって悪意へと潜り続ける。その方が生きるのに楽だと思っているからだ。
この世の悪意の根源はどこだろう。それは僕たち自身に他ならない。自分でも気がつかなかった悪意のほんの小さな片鱗が、インターネット上という集団において感化され、知らず知らずのうちに集結し、増大し、膨張する。誰かを憎むのはあまりに簡単な時代だ。誰かと一緒に誰かを憎める時代だ。寂しくない。不安じゃない。孤独じゃない。けれど全部偽物だということもわかっている。
・憎まずに愛したいならば孤独な島になろう
ぼくたちは島にならなければならない。共に流れる濁った水になってはならない。
無尽蔵に流れくる悪意は仕方がない。それは際限もない。とめどない。せめて同じ流れる川水ではなく、その中でたったひとり、孤独に佇む中の島にならなければならない。
群衆のように群れることはできない。悪意の中で温もりを得ることもできない。それでも誰かを憎むよりも、誰かをあいしたいなら、ぼくたちは島にならなければならない。