ぼくたちは死の先でまた巡り会えるというのは本当か?

 

いつかまたきっと出会える。

ぼくたちは死の先でまた巡り会えるというのは本当か?

・人と人がこの世で巡り会う奇跡
・人間のあまりに脆い永遠の誓い
・途方もない輪廻転生の広がり
・死んだ人といつかまたきっと出会える

・人と人がこの世で巡り会う奇跡

旅をしていてぼくは思う。この広い世界には、沢山の人々が住んでいて、そして彼らと擦れ違う。ぼくの命は今、ここにしか生きていない。時間的、空間的に制限された、ほんのひとつの点の中でしか生きられない。世界中に生きている人々の中で、この命と擦れ違うことなんてきっと稀だろう。そして言葉を交わし合うことはもっと稀だ。知り合いになることなんて数えるほどしかなくて、友達になることなんて尊いくらいだ。そして人生をかけて共に生きていく人なんて、ほんの一握りの存在だろう。

奇跡の出来事のように言葉を交わし合い、信じられない縁で結ばれた人だからこそ、ぼくたちは心から真剣に対峙しなければならないし、心の言葉によって向き合わなけばならない。それでなくては巡り会いの意味も、さらには生まれてきた意味すらも霞んで消えてしまうのではないだろうか。人と人の間の距離を強制的に作り出す言葉の仕組みや、それに伴うまやかしの人間関係に、弄ばれてはならない。

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・人間のあまりに脆い永遠の誓い

奇跡のように巡り会えても、それもほんの一瞬。たとえ生涯を共にすることを誓った相手でも、ほんの100年も経たない間に、どちらからともなく裏切り死という別れの岸辺へといざなわれる。たとえ人間たちが祈りを込めて、結びの式でキリスト教の真似をして永遠を誓いますと交わし合っても、その永遠の誓いは100年ですらもたない。人の巡り会いの儚さと、縁の脆さが浮き彫りにされていくようだ。

 

 

・途方もない輪廻転生の広がり

ぼくたちは死んだらどうなるのだろうか。それは誰も知らない。誰も知らないからこそ、その旅立ちが少し楽しみでもある。人間は誰もが死を忌み嫌っているが、死が悪質であるというのならば、死へと向かって歩いていくこの世のすべての生命は、悪そのもの。本能や直感が死に悪の性質を塗りたくってしまう気持ちは納得されるが、ぼくたちの生命を深く尊重するためには、死を敵や悪と見なさない心の働きが必要なのではないだろうか。

日本の葬儀は、大抵仏教の形式で行われる。死んでから49日目には特別にお経が唱えられ、仏教的には死者の魂が輪廻転生を成し遂げて生まれ変わるとされる。

死んでしまった愛しい人にもう一度会いたい。誰もがそう願ってしまいそうになる。しかし、こんなにも広い世界の中で、どこに輪廻転生されるかわからない魂を探し出すことはもちろん容易なことではない。

今生ではたまたま同じ日本という島国に生まれついたから巡り会えたものの、来世ではぼくはインド、相手はメキシコに生まれ変わっているかもしれない。もしかしたら地球とは別の惑星、別の銀河に生まれ変わるかもしれない。日本は日本でものすごく広いのに、国や星がまったく異なれば、もはや今後再会できる可能性なんて0に等しいと感じられてしまう。

また、国が違うだけなら百歩譲ってまだいいにしても、もしかしたら生まれつく時代が異なる可能性だって十分にあり得る。ぼくは平安時代に生まれ変わって、相手は縄文時代に生まれ変わるかもしれない。こうなるともはや再会の可能性は無となり、ぼくが火星で相手が月に生まれ変わるというような、とんでもない空間的な相違の方が、まだ再会の可能性はありそうだ。

さらには、ぼくたちが人間に生まれ変わらないことだって考慮しなければならない。ぼくはゴリラで、相手はミジンコに生まれ変わってしまっては、万が一再会できたとしても、気がつく可能性は格段に低いだろう。ましてやゴリラやミジンコに意識があるのかもよくわからないし、ゴリラがミジンコの存在にまったく気づかない可能性だって十分にあるのだ。

インドからやってきた、輪廻転生はあまりに壮大で悲しい思想。輪廻転生の車輪に魂を巻き取られてしまっては、この命にとって大切な人とは、未来永劫もはや二度と巡り会えないような途方もない気分になってしまう。

 

 

・死んだ人といつかまたきっと出会える

“わたしの心の中にあなたがいる
いついかなるときも
どこへ続くかまだわからぬ道でも
きっとそこにあなたがいる

It’s a lonely road
but I’m not alone… そんな気分”

これは宇多田ヒカルの6枚目のオリジナルアルバムにして最高傑作の「Fantome」というアルバムに入っている1曲目の「道」という曲である。ビルから飛び降り自殺して亡くなったお母さんの藤圭子についての思いを、彼女らしい思慮深い浄化(カタルシス)の働きを伴いながら高らかに歌い上げられている。

ぼくは日本という国に生まれついて、日本人というものの感性に触れてきたが、彼らの死生観の先にはいつも、大切な人との再会があるような気がする。たとえこの一生の中で、どんな離別の悲しみがこの命を襲おうとも、最後の最後に自分が死ぬ順番になったその先には、きっと大切な人みんなともう一度巡り会えるのだという幸福な真の終わりを信じているように感じられてならない。まるでこの宇多田ヒカルの歌詞のように。

大切な人が死んでしまうのは、人間にとってとても自然なことだ。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さん、年上の人は、順番通りにいけば自分より先に死んで、この一生の中でお別れしてしまうのが普通であり、そこになんの違和感もない。しかしたとえこの一生でそのようにして別れてしまったとしても、彼らは信じている。大切な人が、今もどこかで自分の後から来るのを待っているということを。

それは三途の川を渡った先の春のように暖かな楽園かもしれないし、空の雲よりも高いとろにある天国かもしれない。とにかく人は死んだら幸福を感じられる極楽のようなとこに大切な人がみんな集まっており、そこで自分が死んで、自分もいつかそこを訪れることを心待ちにしているのだ。そしてこの命を超えた最後の場面では、その極楽で、大切な人々と、まるで自分が幼かった頃のように、幸福に不自由なく暮らすことができるのだと。

ぼくたちの自然で民俗的な死生観の先には、大切な人との再会と、幸福な終幕が用意されている。だからこそ、大切な人と死に別れたとしても、前を向いて歩いていけるのかもしれない。

古代の日本では中国からインドの異質の教えが輸入され、その仏の教えにより国を治めた時代もあったようだが、そのような異物を本当に日本人が心の根源にまで達するほどに信仰することができるのかは疑問が残る。葬儀や参拝など、形式的には日本人の死生観を支配できたように見受けれられても、日本人の真実の死生観は、仏教的輪廻転生とはまた別のところにあるのだろう。“きっとまたどこかで巡り会える”。そう祈るように信じられる、縄文時代から続く古い死の教えが。

 

 

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